怪しい隣人 02
ふいに蝉の声の隙間を縫って玄関のチャイムが鳴り、台所でスープとサラダを作っていたがこの時間に来る予定だった少女を出迎える。扉を開けると、そこには夏の光を背負った少女が立っていた。
「こんにちは。お姉ちゃん」
「いらっしゃい、茉理。差し入れありがとう、重かったでしょう」
「そうでもないわ。サンドイッチだけだもの」
従姉妹の茉理はそう言って両手に提げた紙袋を軽く持ち上げ、中には色とりどりのサンドイッチが整然と収められている様子を見せる。定番の卵、ハム、ツナ、野菜、それに少し変わり種らしきものまで、実に6種類も。
「居間で休んでいて。残りはわたしが用意するから」
「ううん、折角来たんだもの。掃除でもする、お姉ちゃん、今日もお仕事でしょう?」
「ありがとう、助かるわ。じゃあ、お言葉に甘えちゃっていいかしら」
「勿論」
の素直な感謝を受けて茉理は笑いながら靴を脱ぐ。そのひとつひとつの動作すら、どこか手際が良い。
「いらっしゃい、茉理ちゃん」
居間の始と続が茉理を歓迎し、は台所へと戻る。粗熱を取ったフルーツの牛乳かんを冷やし、大豆とトマトの缶詰を使ったお手軽なミネストローネは弱火で味を馴染ませ、胡瓜とベビーキャロットとミニトマトのサラダが単調だった食卓に彩りを添えている。
年長組からの歓迎もそこそこに働き者の茉理は浴室の掃除に着手をしたらしく、台所の小さな窓から涼し気なシャワーの音が入り込んで来た。流し台とは違う水の流れる音が家の中に新しいリズムを作り始めており、はその音に耳を澄ませながらスープを小皿に取り分けて味見をした。
「ま、こんなもんでしょ。始、続! ご飯出来たわよ!」
料理に関しては役立たずな長男と次男も、完成したものをテーブルへ運ぶ事くらいは流石に出来る。6人分ともなれば台所から食堂へ人数分のスープとサラダ、カトラリーを運ぶだけでもひと仕事になるので声を張って呼び付けると、家事に関しては姉に頭の上がらない2人がやって来て素直に指示を仰ぎ始めた。
茉理は未だ浴室を掃除中で、年少組は帰っては来ていない。大量の料理を食堂に運び終えた年長組は一度居間に戻ろうかと無言で示し合わせ、直ぐにその考えは打ち砕かれる。
裏庭から、まるで昼間のサスペンス劇場のクライマックスみたいな騒ぎ声が上がったかと思うと、次の瞬間、三男坊と末っ子が食堂に雪崩れ込んで来た。外出時とは正反対の騒々しさだったが、表情は鬼気迫っておらず、むしろ明るい。
「どうしたんだ、騒々しい」
「隣のおばさんが、潜望鏡で風呂場を覗いてたんだ。追い払ってやったのさ」
「本格的なやつじゃなくて、玩具だったけどね」
「玩具でも潜望鏡が出てくるなら海戦だろ、おれ達が撃退した」
「はいはい、よく出来ました。不審者の撃退ついでに手洗いとうがいも励行して病原菌も殲滅しなさい」
終と余の帰還で食堂が賑やかになり、その賑やかさを聞きつけた茉理も浴室から現れる。頭には髪を纏める為のスカーフ、足元は夏用ジーンズを膝まで捲り上げ、掃除は戦闘任務スタイルを完成させていた。
「女が風呂場を掃除してるのを女が覗いて、何が面白いのかしら」
「あまりジャンル分けしたくないタイプの娯楽なのは間違いないな」
始が適当に応えると、終が評論家のような顔で腕を組んだ。
「変態のやる事は分かんねえよな。きっと欲求不満で、始兄貴か続兄貴が昼風呂に入ってるところを覗こうとしてたんだぜ」
「それ、ちょっと真実味がある分、かなり嫌ね」
言いながら、は手近にあったタオルを終の投げた。終はそれを受け取り洗面所へ向かいながらも、何故か勝ち誇った顔を崩さない。相手が巨悪ではなく小悪党に満たない変態だとしても、撃退した側という肩書きが彼の中で妙な自信を育てているらしい。
手洗いの為に食堂を出て行った年少組の背中を見送った始は小さく溜息を吐き、テーブルに置かれたサンドイッチのへ視線を落とした。整然と並んだ6種類の断面がやけに平和的である。ついさっきまで潜望鏡だの撃退だのと騒いでいた空間とは思えない、穏やかで食欲を唆る色彩だ。
「ま、規模は横に置くとして、戦闘は一時休戦にして補給に入りましょう」
放ったその一言で食堂の空気はあっさりと切り替わる。潜望鏡も覗きも、とりあえずはテーブルの外へ追いやられた。人間、腹が減ると現実的になる生き物である。
茉理も特に実害を被った訳ではないので軽く肩を竦めるだけに留まり、スカーフを外しながら席についた。
「じゃあ、平和条約はサンドイッチとスープとサラダで締結ね」
「それにデザートもね」
こうして平和条約締結式はつつがなく終了し、隣人の変質者の話題は6人の中ですぐに忘れ去られる。彼女のような人間をいちいち相手にしていたら、それだけで人生が終わってしまうと言いたげであった。
「そういえば、ここに来るまで、街の様子はどうだった、茉理ちゃん」
「半分、というより8割がた、戒厳令ね。先進国首脳会議の時より酷いわ。交差点に戦車が停まって、道行く人や車が皆びくついてるのよ」
「基地でよくやる展示じゃなくて実戦を想定した配備だものねえ。特に自衛隊は春先に竜とやり合って惨敗したし、殺気立つのも無理はないわ」
まるで自分とは関係ありませんと言いたげなの台詞に続が苦笑で返す。その笑いは、春先に自衛隊とやりあった竜の正体が末弟の余である事と、彼女自身も末弟が変身した竜に惨敗した事から来るものだった。
「なに、戦車の話?」
「新青梅街道でも戦車が3両、走って行くのを見たよ」
「想定の範囲内ですね。それより終君、レンタルした物を食堂に持ち込まないように、汚したらお店も次の人も困ります」
続が三男坊を窘めると、彼は悪戯小僧そのものの表情で舌を出して居間に消え、再度戻って来る。その行動の速さに始が苦笑し、茉理もつられて笑いながら興味を向けた。
「で、何を借りて来たの?」
「殺人カボチャの反撃!」
「それと、死霊のお花見!」
「あっ、知ってる、面白いんだってね。2人共、B級映画を鑑賞する眼力があるわよ」
「2本共見た事ないんだけど、反撃ってタイトルなら前作もあるの? 大体、何をしたらカボチャに反撃されるのよ」
「前作は『殺人カボチャの目覚め』だよ。ホラーコメディだから姉さんも平気かも、切ったり煮たりされたカボチャ達が逆に人間を襲って食べちゃうんだ」
「カボチャを切るのも煮るのも普通の調理よ」
「人間にとっては調理だけどカボチャにとっては殺害って事はさ、逆にカボチャにとっては調理だけど人間にとっては殺人も有り得るって設定の世界なんだよ。哲学的だろ?」
「嫌過ぎるわ、その哲学も世界観も。誘ってくれてありがとう、でもパスするわ」
「じゃあ予定通りおれと余の2人で観るよ。でも、その前に腹拵えだな」
「茉理ちゃん、残りの風呂掃除は後でおれがやるよ。欠食児童共が叛乱寸前だから、まず食事といこう」
始の一言で、6人はそれぞれの椅子に収まった。収まった、というよりは、ほぼ同時に着席した所為で幾つかの椅子が同じタイミングで軋み、食堂が本当に6人分で合ってるのかと疑問を呈したような音を立てたが、誰も気にしない。気にする余裕はない。なぜなら目の前には、茉理の持ち込んだサンドイッチと、が仕上げたスープとサラダが並び、視覚的にも嗅覚的にも完全に今は食えという誘惑を放っていたからである。
食堂という場所は不思議なもので、人間が持つ機能のうち口に関する全てが一斉にフル稼働する。食べる、飲む、喋る、ついでに笑う。ごくたまに咽る。今日は特にその傾向が顕著で、若さという燃料が余計な方向にまで燃焼していた。
特に食欲魔神の終の消費は激しく、右手は既に3個目のサンドイッチの確保に突入している。彼の食事は戦闘であるが、補給と呼ぶよりは突撃が適切だった。
その突撃の波が止み腹の虫を落ち着かせた頃、スープの器を手にした終が心底どうでもいい話題を提供する。
「日本の年中行事とか習慣とかに、『死霊の』って形容を付けると、いっぺんに笑い事になるんだよな。『死霊の盆踊り』とか『死霊の行水』とかさ。どうしてだろ」
食卓に一瞬の静寂が落ちた。彼の手にする器から登るスープの湯気だけが、なぜか理解者のようにゆらゆらしている。
「語感が強いわよね。『死霊の七五三』とか」
「成長を祝う気配が1ミリもないな。『死霊の昼食』くらいが丁度良くないか」
「発想が環境と食欲に囚われ過ぎじゃない?」
の言葉に始が淡々と切り返し、は始を酷評する。次いで末弟が手を上げた。
「『死霊のラジオ体操』なんてどうかな」
「余君らしい発想ね、夏休みの中学生らしさが出て良いと思うわ。健康になる気がしないどころか、むしろ病気になりそうな所も含めて。じゃあ『死霊の節分』はどう?」
「豆を投げる側と投げられる側の境界が曖昧になりそうですね。では、『死霊の初詣』」
「なんか初詣は普通に紛れてそう。というか、誰が一番面白い組み合わせを言えるかゲームになってないか?」
誰も、日本の未来がどうとか、自分達がどう生きるべきかとか、その手の建設的な話は振らない。今の空気でそんな話を持ち出そうものなら、死霊の将来設計と誰かが言い出すに決まっていた。議論として成立する前に、概念がふざけてしまうのだ。
結果として、食卓は平和だった。少なくとも、潜望鏡を持った隣人も、死霊も、今この瞬間はサンドイッチの外側にいる。
当人達にとっては有意義な昼食も終わり、デザートもありがたく平らげた上で、年少組達は借りてきた映画を鑑賞する為に居間へと向かっていった。年長組は食後のお茶、と普段ならばするのだが、家長として色々考える事の多い始はと続が無言で示し合わせた事に気付かず先に応接間へ向かってしまっていた。
「じゃあ、わたしは洗い物するから、茉理はアイスティーを持って行って」
「うん。あれ、続さんは出掛けるの?」
「ちょっと庭の風通しを確認して来ます。すぐ戻るので、気にしないでください」
屋外の風通しという謎の単語を並べた続は茉理を応接間に送り出し、1人庭へと向かう為に踵を返す。年少組の迎撃により一時撤退していた花井夫人が竜堂家の庭に不法侵入している姿を目撃したからであった。
「念入りに精神を折って貰えると助かるわ」
「ま、努力はしてみますよ」
「なんでカボチャが2体に増えてるんだよ!」
「続編だからじゃない?」
居間から聞こえる年少組のはしゃぎ声に2人の視線が同じ方向へ向かうが、続が先に軽く肩を竦めるとそのまま庭へと出て行く。
残されたは先程の宣言通り洗い物に取り掛かり、数分が経過して続が何事もなかったような顔で戻ってきた。当たり前だが、服装も呼吸も乱れていない。ただ、ほんの少しだけ肩の力が抜けている。
「戻りました。風通しは良好ですよ」
「庭の?」
「ええ、庭の」
弟の適当な報告をは深くは追及しなかった。平和というものは大抵、適当さの上に成り立つものと知っているからだ。
台所では、最後の皿が水を切られ、整然と並べられる。
居間では、カボチャが意味不明な進化を遂げている。
応接間では、きっと何も進展もないまま氷が静かに溶けている。
それぞれの場所で、それぞれの日常が進行しており、そしてそのどれもが少しだけ変で、ちゃんと賑やかだった。