危険な隣人 ... Ⅰ
その中央で、は鏡の前に立っている。
細くはないが、すっきりとしたシルエットが和室の柔らかい空気に一本だけ線を引く。畳とデニムは本来あまり仲が良くないはずなのに不思議と喧嘩はしていない。むしろ、互いに今日はそういう日と納得しているような、そんな緩い共存が成立していた。
鏡は座卓の上に立てかけてある。角度が絶妙で、立ったままでも座っても顔が映る便利仕様だった。生活の知恵が詰まっているが、見た目は即席で本人の性格をよく表している。
長姉は軽く顎を引き、鏡の中の自分を見つめる。
笑顔にもなりきらず、無表情にも寄りきらない、これから外出をする予告編の顔。ここから数分かけて、夜の仕事用に調整されていく。
窓は少しだけ開いていて、外から入ってくる気紛れな風が頬を撫でては、すぐにどこかへ行ってしまう。役に立つかどうかはさておき、いるだけで雰囲気が良くなるタイプの同僚みたいな風だ。
「……まあ、こんなものね」
小さく呟いてから座り、は髪を整える。もう少し手を加えてもという声が頭をよぎるのだが、彼女は大抵そのまま押し切るし、今日もその大抵に含まれた。人生はだいたい押し切った人が勝つ。少なくとも彼女はそう思っている。
その時、襖が軽く叩かれた。律儀だが遠慮の混ざらない、絶対入室を許可されるという自信に満ちた、そんなノックだった。
「はい、どうぞ」
が振り返らず鏡越しに答えると、元気良く襖が開いて夏の空気をそのまま連れて来たような顔をした三男坊が顔を出した。
真夏の暑気に当てられた肌はほんのりと汗ばんでいて、機嫌が良いのか少しだけ息が弾んでいる。疲れているというよりは何かを持ってきた人間の顔で、にとって良い知らせかどうかはともかく、言いたいことがありますという雰囲気が全身から漂っていた。
「姉貴、今いい?」
「その聞き方、9割くらいで予定が崩れるやつなんだけど」
「今日は1割の方」
自信に満ちた声には振り返ってから終を見て、口元だけで笑う。
「じゃあ聞きましょうか、そのレアケース」
終は畳の縁を避けながら中に入り、少しだけ声を落とす。秘密の話でもするみたいな顔だがきっとそこまで大層なものではない。
「哲学堂公園でさ、沢山夜店が出るらしいんだ。さっき茉理ちゃんから連絡があって皆で行こうぜって決まった」
「へえ、いいわね。いつ?」
「8月6日」
「今日じゃない、急にイベント性を盛り上げてくるわね」
「姉貴も一緒に行くだろ?」
その一言が思ったよりもずっと素直に置かれる。余計な飾りも照れ隠しもなく、ただ家族として一緒に行こうという温度だけがそこにはあった。
は一瞬だけ手を止め、鏡の中の自分を見る。
黒のトップスにスキニーデニム。ただの通勤用であり夜に向かう装いではないものの、化粧はそれなりに整えつつある。
そんなの頭の片隅に、懐かしい記憶と屋台の明かりや賑やかな人の流れが灯った。まだ頬や後ろ姿がふっくらとしていた頃、夕日の差し込む居間でふわふわとした兵児帯を祖母や母が締めてくれて、祖父や父に手を引かれた事が何度もある。幼い頃から大人びていた次男坊が珍しく目を輝かせて、双子の弟と一緒に宝石のような林檎飴を受け取っていた思い出。あるいは、幼稚園児だった三男坊や末っ子と手を繋ぎ、好奇心に任せて走り回ろうとする彼等に夜店は逃げないと笑いながら言い聞かせた思い出も。
ほんの少しだけ楽しそうだと思ってしまい、は困っていた。
「残念だけど」
断りの言葉を置くの声は柔らかく角がない。しかし、期待は残さなかった。
「今日は仕事」
その一言で話が落ち着く。
無理に納得させる必要もなく自然にそういうものだと理解できる種類の理由を告げられ、終は軽く肩を竦めてそっかと返した。がっかりはしているが、それ以上に納得が勝っている顔だ。
「明日なら休みだったんだけどね」
「今夜だけなんだよなあ。じゃあ、姉貴はまた今度な」
「そうね、夏祭りや縁日なら別の場所でも開かれるでしょうから、その時にまた誘って」
「そうする。お土産買って来るからな、綿あめとか」
「お土産に向かないランキング上位の常連じゃない。綿あめよりラムネがあったら買って来て欲しいわ、ビー玉で栓がされてるやつ」
「堅実だなあ」
「持ち帰る途中で綿あめが縮んで、最終的に甘い気配だけになると寂しいじゃない」
「でもさ、綿あめって祭り感あるじゃん」
「その浪漫は手放しで同意する。あれは持って歩いてるだけで、今から楽しいことがありますって感じがするもの」
「なら綿あめでいいだろ」
「でも家に帰る頃には手と浴衣が汚れて、翌朝には割り箸にへばりついた砂糖を見ることになるのよ」
「現実的だなあ」
「人生経験よ」
さらっと言い切る声に終は少し吹き出した。
幼い頃に自分の頭ほどもある綿あめを買って貰い、もう半分は明日食べると意気揚々と言い張って取っておき、翌朝に綿あめの残骸を発見して悲しい気持ちになったのは何も終だけではないという事だ。割り箸にくっついた白い埃のような塊の姿を思い出した終は、あれは祭りの最中に食べてこその食べ物だと認めた。
は普段からこういうところがある。
夢や浪漫が嫌いという訳でもなく、冷笑もしない。むしろ綺麗なものや楽しいものには人並みに心を動かされる。だが、その一方で生活や現実を忘れないだけだ。
ラムネがあれば買って来ると約束した終は、襖の前で一度だけ立ち止まり振り返る。
窓から入ってくる風が畳の匂いをゆっくりと揺らしていて、夏の和室の独特の空気を演出していた。暑いのにどこか落ち着く、じっとしているだけで体温と季節が馴染んでいくような感覚だ。
長姉は鏡の前に座ったまま細いブラシで睫毛を整えている。横顔は涼しげで手元の動きには迷いがない、化粧というより作業工程に近い手際だった。
終はぼんやりと思う。
こういう時間を、彼は昔から何度も見てきた。鏡の前で髪を整えたり、今日は何を羽織るべきかと唸るの姿は、昔とそんなに変わらない。変わったのは化粧品の値段くらいだろうか、とは言っても、化粧と縁もなければ興味もない終はどのくらいの値段なのかまでは分からなかったが。ただ、小瓶ひとつで数日生きられる価格帯をしているという知識はあった、なぜなら彼は以前、新品同様の小瓶を台無しにした経験があるからだ。
「どうしたの」
鏡越しに視線だけ向けられる。
「いや、姉貴って昔から準備長いなって」
「女の敵に回すような発言は慎みなさい」
「自覚はあるんだ?」
「あるわよ。だからこの時間から出勤の準備をしてるの、遅刻しないようにね」
呆れ半分で返しながらもは少し笑った。その笑い方を見て、終は姉の機嫌がいいと受け取る。
彼女は感情が顔に出ないタイプではない。むしろかなり出る。ただ、全部を真正面からは出さず、笑う時も、怒る時も、どこかワンクッション置いてから表に出す癖がある。
だから、今みたいに自然に笑っている時は割と調子が良い。
窓の外から遠く子どもの声が聞こえた。自転車のブレーキ音。遠くで誰かを呼ぶ声。どこかの家の網戸が閉まる音。入道雲の向こうから夕方が近付くにつれて、街全体が少しずつ浮き足立っていく気配がある。
夜店の準備でも進んでいるのかもしれない。
終はその空気を思い浮かべる。彼が今よりずっと子供の頃は、祭りは突然始まるものだと思っていた。
昼間の公園が夕方になると別世界へ変わる。その変化が本当に魔法みたいに見えた。
今は裏側を知っている。
何人もの大人が汗を流しながら準備して、発電機を運んで、お金を稼いで、元の公園に戻るよう片付けるものだと分かっている。
それでも、あの光景を見ると少しだけ浮かれる。
提灯の明かり。鉄板の熱気。少し湿った夜風。射的の音。ラムネ瓶の鳴る音。そして、その中に長姉がいないことを、彼はほんの少しだけ残念に思った。
「……姉貴」
「なに」
「仕事なかったら来てた?」
問い掛けは軽かった。
けれど、はそれを真剣に受け取り、少しだけ考えるように視線を上げた。障子に反射した光が彼女の横顔を白く縁取る。
「行ってたわ」
返事は案外すぐだった。
「ラムネ飲んで、焼きそば食べて、金魚すくいで無駄に真剣になってた」
「姉貴、絶対ポイ破るの早い」
「破れるのは遅い方よ。何故かわたしの前には金魚が寄り付かないから」
「駄目なやつだ」
「で、運良く1回成功すると調子に乗る。2回目は常敗」
「更に駄目だ」
終は笑い、も少し遅れて笑った。その笑い声は窓から入ってきた風に混ざって、和室の中を軽く転がっていく。黒のトップスも、整えられた化粧も、夜の街へ向かうための準備だというのに、の空気はあまりにも日常的だった。
終はふと、幼い頃の記憶を思い出す。
祭りの帰り道。
遊び足りない終をは背負っていた、先を歩く始が眠った余を背負い、始の隣には荷物を抱えた続がいた。終は祭りの会場から離れる事を残念がり、手の中でラムネ瓶を鳴らしながら夏の夜空を見上げていた。飲み終わった瓶の中ではビー玉がと涼しげな音を立てる。小さなガラスは夜の空気にやけに綺麗に響き、夏そのものが瓶の中に閉じ込められているみたいな音がした。
祭りの帰り道というのは不思議だ。
行く時よりも静かで、でも満足感だけは妙に大きい。提灯の灯りから離れて住宅街へ戻ってきた途端に夢が少しずつ解けていく、それなのに、手の中にはまだ綿あめの袋が残っていたり、テレビのヒーローを模したお面が頭に乗っていたり、浴衣に屋台の匂いが染み付いていたりして、さっきまで確かに別世界にいたという証拠だけが残る。
昔の記憶は幾重にもフィルターがかかり曖昧だ。けれど、楽しかった事だけははっきり覚えている。
「何ぼんやりしてるの」
思い出に浸って足を止めていた終にの声が飛んでくる。口調は呆れがちだが、声色は優しい。
「いや、昔のこと思い出してた。祭りの帰り道に姉貴がおぶってくれたやつ」
長姉は鏡の中で少しだけ目を丸くしたあと、小さく笑った。
「懐かしいわね」
「始兄貴が余をおんぶして、続兄貴が荷物持ってた」
「あったあった。アンタ、あの時ずっとラムネ瓶振って楽しそうだったわよ」
が肩を揺らして笑うと終も笑い返し、そのまま襖を開ける。廊下には夕方の空気が流れ始めているようで、和室の空気とは少し違っていた。昼の熱気が少しだけ和らぎ、どこか夜の入口のような匂いがする。
遠くから、祭りの準備を知らせるようなざわめきが微かに聞こえた。
「終」
「なに?」
「ラムネ、ちゃんとビー玉のやつ買ってきてよ」
「分かってるって」
「ペットボトルは認めないから」
「そこ厳しいのな」
「夏のルールです」
が真顔で言い切るので終はとうとう吹き出し、笑いながら廊下へ出る。
背後で襖が静かに閉まった。その音は、どこか昔の記憶と似ていた。
襖の向こう、祭りへ向かう終の足取りは軽い。きっと夜になれば、提灯の灯りの中でラムネ瓶のビー玉が涼しい音を鳴らすのだろう。
そして祭りを楽しんだ彼女の弟達や従妹が帰る頃には、きっと少しだけ夏の入口が背後に遠ざかっている。また来年も、こんなふうに笑えたらいいのにとは思った。