摩天楼のドラゴン〈Ⅰ〉
摩天楼を構成するビルの窓は星座のように光っていて、地上の人間たちはそれぞれの物語を抱えながら眠らない都市の中を漂っていた。
その上空800メートル。風の層を幾つも突き抜けた場所に、黒い竜の影があった。見る者が見れば、その竜が今年の春頃に自衛隊の富士駐屯地を壊滅させた黒竜をおよそ5倍にまで巨大化させた生物だと言い当てる事が出来たであろう。
夜を縫うように飛翔する巨体はまるで空そのものが形を持ったかのように滑らかで、鱗は月明かりを吸い込んで鈍く光る。黒竜の胴が動く度に都市のざわめきが遠ざかり、代わりに風の唸りが支配した。
その黒竜の頭上に続は力なく横たわっていた。しがみつく、というよりは、もはや乗せられていると言った方が近い。指先は辛うじて角の根元に引っ掛かっているが力は殆ど残っておらず、体は重く、鉛のようで、思考はゆっくりと水に沈んでいく。
血管の中を流れる致死量の筋弛緩剤が、彼の体を静かに裏切っていた。筋肉は命令を受け取らず、呼吸さえも自分のものではなくなりつつある。胸が上下する度にそれが奇跡のように感じられた。
強風の中で、黒竜は弟の呼吸と心音を感じながら可能な限り速く、しかし最小限の負担となるように空を駆ける。
視界の端で東京タワーの赤が滲み、首都高速の光の帯がまるで地上に流れる河のように見えた。眼下の宝石箱を眺める余裕などあるはずもなく、続の意識が徐々に朦朧としている事に気付いた黒竜は一度低く喉を鳴らす。怒りでも威嚇でもない、ただの確認のような音で、弟がまだそこにいるかを確かめる奇妙に優しい響きだった。
そうして、進行方向の下方に闇が広がる。
闇の名前は東京湾。煌々とした街の光が途切れ、水面が夜をそのまま映し取る場所。その水面へ向かって黒竜は迷いなく飛んでいく。
続の意識は波に攫われる砂の城のように崩れかけていた。それでも黒い鱗の上で彼の手が握り直され、黒竜は絶えず声にならない呼びかけを行う。
今の続を助ける案は一つしかない。象すら倒れる量の筋弛緩剤を投与されたのならば、象よりも巨大な生物に変じて体重や体表面積を増加させ薬剤の効果を薄めるという素人考えの暴挙であった。そして、その結果として生じる巨大な生物を治める事が出来るのは紛い物の黒竜ではない事を、彼女は正確に理解していた。
続も黒竜へと変じた姉の考えを朧げながら把握したのだろう。力の入らない身体と脳で、それでも無茶を遂行しようとする辺りが竜堂家の人間だと笑い、吐息を溢す。
やがて見覚えのある空き地まで無音で降下し始めた黒竜は、ある一方に頭を向けた。続は既に瞼を動かす力さえ残っていなかったが、閉じる事のない聴覚が彼が世界で一番信頼する人間の声を拾う。
「続! 無事か、返事をしろ!」
必死に叫ぶ兄の声を聞き、もう大丈夫だと安堵した続は保っていた意識を手放した。同時に、東京湾に臨む埋め立て地で熱と光と焔が弾ける。
上下、左右、前後の六方へ飛び散る幾つもの炎の砲弾のうち、黒竜は3人の弟が立つ陸側を起点にして壁となり黒い鱗を白銀へと染めた。
夜色に沈む巨大な黒竜ですら隠せない程の眩さを携え、紅の竜が東京湾湾岸に出現する。
以前緑竜に変身した経験上、こうなってしまえば人が変じただけの黒竜に真の竜王である紅竜を抑える術はない。しかし、かといって指を咥えて見ているつもりもなく、黒竜は始めからそのつもりであったかのように一切の躊躇いを持たず全体重をかけた不意打ちで紅竜を海中へと引き摺り込んだ。
末弟の余が水を支配する水竜に変ずるのであれば、続は火を支配する火竜に変ずる事を黒竜は人間の頃から予測していた。海に沈めるという黒竜の手段は五行思想でいうところの水剋火であったが、覚醒したばかりといえど竜の王を拘束し続けられる保証がない以上、いつ水虚火侮に変じてもおかしくはない博打でもある。黒竜は北海黒竜王の姿形引き伸ばして真似ただけの存在である為、豪雨を支配する能力は持ち合わせていないのだ。
それでも、能力では勝るものの圧倒的な質量差と不意を付かれ負けた紅竜は東京湾の海水を全身で浴びる事となり、その一部を沸騰させる。流水による熱交換で選択肢の大半を奪われた紅竜の熱は白い蒸気となって夜を押し広げ、東京湾は巨大な鍋の底を叩かれたように震えて泡立ち、光と音を飲み込んでいく。
黒竜はより深く沈む、重さではなく意志で。
紅竜の常軌を逸した熱が黒竜の口蓋や鱗を焼き、白銀に変じた防御層が軋み、剥がれ、再び生成される。まるで呼吸のように繰り返されるその変化は、黒竜自身の命を削り取る音でもあった。
水圧と熱がぶつかり合い、爆ぜ、轟音はすべて海に吸われる。黒竜は紅竜の喉元に牙を突き立て、逃がさないと宣言するように締め上げる。紅竜は海上に顔を出し炎を吐くが、黒竜が海中へと引き摺り込む。
しかし、少しもしない内に海面が裂け、姿を現したのは紅だった。夜の黒を押し退け、熱そのものが形を持ったかのような巨体が水を割り、蒸気の柱を天へ突き上げる。遅れて黒竜が浮上するも、動きは重く、鈍い。だが、確かにそこに在るという圧だけは、都市のビル群にも似て揺るがない。
紅竜は吠えない。代わりに、周囲の空気が震えた。
温度が上がり、見えない炎が空間の骨組みを歪めていく。海面は沸き、風は乾き、遠くの光が蜃気楼のように揺らいだ。
黒竜は策もなく前に出る。あるのは圧倒的な質量と、噛み付く為の顎と、叩き潰す為の四肢だけだ。巨体をそのまま武器に変えて、紅竜の胸元へ体当たりする。鈍い衝撃が海を押し下げ、白い波が外へ外へと逃げていく。
最初の一撃は効いた。紅竜の体勢が崩れる。だが、その隙間に流れ込むように、熱が集中した。見えない灼熱の手が黒竜の側面を掴む。次の瞬間、鱗が内側から焼ける音がした。
それに構わず黒竜は紅竜へ噛み付く。紅竜の肩口に牙を立て離さなず、肉の感触の代わりに、焼けた鉄のような硬さと、遅れてくる熱が顎を満たす。痛みは全身を巡るが、それでも黒竜は紅竜が引き起こそうとする被害を最小限に留める為に身を挺していた。
紅竜は身を捩り熱が渦を巻く。点ではなく、面でもなく、流れとして黒竜を包んだ。海水が一瞬で蒸気となり、視界が白に塗り潰される。黒竜の体表は白銀に変じて耐えるが、再生よりも速く熱が容赦なく差し込まれ始める。
黒竜の鈍重さが、ここで仇になる。
紅竜は軽い。否、軽く出来る。熱を推進力に変え、空気の密度差を踏み台にするように、ぬるりと位置を変える。黒竜の振るう前脚は、常に半歩遅れ宙を切り始める。
叩きつけた尾が海面を割り、巨大な水柱が上がった。しかしその影から、紅竜の熱が針のように伸びる。黒竜の関節部、鱗の継ぎ目、動くためにどうしても柔らかくならざるを得ない場所へ、的確に。
焼ける。動きが鈍る。更に焼かれる。その単純な連鎖が、じわじわと黒竜の選択肢を削っていく。それでも黒竜は距離を詰める。近ければ当たる、そう信じるように、あるいはそれしか知らないように前へ出る。胸で受け、肩で押し、顎で噛む。原始的で、愚直で、確実に重い戦い方。
しかし紅竜は、それを受けない。黒竜の突進の前に見えない壁が立ち上がった。空気そのものが熱で膨張し、密度の違う層が衝撃を散らす。黒竜の体当たりは、ぶつかったはずなのに、どこかへ逃がされる。
紅竜の顎が開くも炎は吐かれない。ただ、空間が収束する。熱が一点に集まり、遅れて解放された。
眩い閃光の後、音は一拍遅れてやってくる。空気が裂けるような爆音と共に、黒竜の胸部が抉られる。鱗が弾け、白銀の層がはがれ、その下の肉が露出し、さらに焼ける。
痛みに耐えかねた黒竜の足が海面を踏み外し、紅竜はそこを逃さない。熱の流れを足場にして、上から叩きつける。質量では劣るはずの一撃が、加速と温度で補われ、黒竜の背を押し曲げた。
骨が軋む音が、海の中で鈍く響く。
それでも黒竜は吠えない。ただ、食いしばるように顎を鳴らし、再び前へ出ようとする。しかし関節は焼け、筋肉は遅れ、動きは明らかに鈍っていた。
紅竜の周囲で空気が揺れる。呼吸のように熱を上げ下げする。温度差が風を生み、その風がさらに熱を運ぶ。見えない循環が完成し、戦場そのものが紅竜の体内のように変わっていく。黒竜はその中で戦おうと、もう一度踏み込む。
重い一歩。海が沈む。水が逃げる。だが、その踏み込みの途中で、四肢が焼けた。力が抜ける。黒く巨大な体が傾く。
紅竜が滑り込む、黒竜の喉元へ。
黒竜の動きが一瞬止まる。その一瞬で、勝敗は傾く。
紅竜は間合いを外さない。むしろ詰め、熱を押し付けて逃げ場を消す。黒竜の巨躯が、初めて邪魔になった。黒竜の背後にあるのは海ではなく陸、1000万の人間が生活する東京都心と3人の弟達だ。退くための空間が足りず、回るための余地がない。
巨大であることが、拘束になる。紅竜はそれを理解している。
次の一撃は静かだった。
熱が、黒竜の胸の奥へ潜り込む。外から焼くのではなく、内側へ。呼吸の流れに乗り、喉を通り、肺を満たす。見えない侵入。黒竜の体が半分は海中、もう半分が土を均しただけの空き地へと倒れた。
「続!」
地に伏した黒竜を飛び越えた始が紅竜に向かって声を張り上げる。呼び掛けに応じる、というよりも音を察知した様子の紅竜の、黄金色の瞳が声の主を見据え、動きを止めた。
「続、さあ、家に帰るぞ」
姉であるが変じた黒竜のお陰で、紅竜は無差別な攻撃ではなく生物としての理屈を持った攻撃を覚え、幾つかの火球の着弾に目を瞑れば東京への被害は最低限で済んでいた。しかし、時間経過と共に盾となった黒竜は不利となっており、もはや紅竜を抑えられる力も残っていない。
これ以上はの生命に関わると判断した始は、紅竜を竜堂続へと戻す為に実力行使を選んだ。富士の演習場では黒竜に変じた余を船津老人が人体に戻した、あれを自分もやればいいという理屈も根拠もない精神論であったが、もそれに賭けて身を削り、双子の弟の元まで続を運んだのだろう。ならば応えるしか道はなかった。
紅竜は始に対して明確な敵意を示さなかったが、続のような敬意も示さなかった。万が一の事を考え、黒竜が力を振り絞り首を上げると始は手でそれを制した。そしてその手で紅竜の角を掴み、灼けるような痛みに耐え目を瞑る。
時間にして、ほんの数秒だった。
目に見える程の強烈なエネルギーが始の手から紅竜の角へ伝わり、鱗の下を奔り、波のように全身へと広がっていく。
変化は目に見えていた。紅竜の纏っていた光と熱が弱まり、竜の輪郭と色彩が一鼓動毎に薄れていく。100メートルはあろうかという体躯は巨大な炎が内側から消えていくかのように縮小し、翼が消え、尾が消え、四肢が光の中へと溶けていった。赤く輝いていた鱗も一枚一枚が形を失い空気へと溶け込むように消えて、いつしか2メートルにも満たない姿へと変化し、やがて見慣れた弟の姿へと戻る。
そこまで見届けた黒竜は瞬時に姿を消し、代わりに竜堂としての姿を現した。とはいうものの、全裸ではあるが傷一つない弟とは違い彼女は辛うじて服だけは着ていたが満身創痍もいいところで、慌てて駆け付けた年少組の手を借りなければ起き上がる事すら出来ない有様である。
衣服は至る所が裂け、泥と煤に塗れていた。露出した腕や顔には傷こそないものの呼吸は荒く、立つ行為そのものが既に苦痛であることは明らかだった。
「駄目だよ、姉さん。無理しないで」
「そうだぞ、姉貴。おれや余が担ぐからさ」
「……ありがと」
短く答える声にも普段の力強さはなかったが終と余はそれ以上何も言わず、弟2人に支えられながらは周囲を見回している。
戦場となっていた湾岸は静まり返っていた。
つい先程まで轟音と熱風が吹き荒れていたとは思えない静けさだったが、巨大な竜が動き回った事で地面は大きく抉れ深い亀裂が走っている。焼けた土からは未だに白い煙が立ち昇り、熱せられた岩の表面は赤黒く変色していた。
空気にもまだ熱が残っている。肌に触れる風は夏以外の温度を含み生温かく、息を吸い込むと煤の匂いがした。
その中で、の視線だけが一箇所に止まる。
「それより、続は」
「始兄貴が看てる。でもちょっと眠そうなだけで怪我も全然ないし、軽口叩けるくらいには平気そうだぜ」
「そう」
それだけ聞くとは目を閉じ、ずっと張り巡らせていた緊張と共に身体から力を抜いた。慌てて終が肩を支え直し、余も反対側から身体を抱えるようにして倒れないようにする。
「姉貴、大丈夫か?」
「大丈夫」
返事は早かったが声に力がない、反射で答えただけで何も大丈夫ではない事は誰から見ても明らかだった。
終と余は何も言わず支える腕に力を込め、もそれ以上は強がることをせずに最低限の力で自分の身体を支えながらゆっくりと顔を上げた。
視線の先には、巨大な竜が立っていた痕跡が残されている。
焼け焦げた大地。大きく抉れた地面。砕け散った岩。そして、竜が存在したことを示すにはあまりにも小さく見える、人間1人分の姿。
あれほど巨大だった紅竜が今はもうどこにもおらず、黒竜もまた同じだった。
残されたのは盛大過ぎる姉弟喧嘩の爪痕だけで、はしばらくその光景を眺めていたが、やがて静かに息を吐いた。
「……ひとまず、終わったのね」
誰に向けた言葉でもない事を理解していた終と余は返事をせず、ただ、姉の身体を支え続けている。
「じゃあ、帰りましょうか」
3人はそれ以上何も言わずに歩き始めた。ただ、互いの身体を支えながら。
2頭の竜が残した傷跡には目を向けず、2人の兄弟がいる方向へ。
家族全員が生きて、家に帰れればそれでいい。それだけで今は十分だと姉弟達の背中は静かに語っていた。