終わりよければすべてがよいか
8月4日に日付が変わった瞬間、世界は特に何も変わらなかったが、竜堂姉弟の帰宅方法だけは明らかに世間一般の常識から見て間違った手順を取っていた。
彼等が哲学堂公園の北にある我が家へと辿り着いたのは深夜の0時過ぎ。途中までは移動手段と呼べるものを使用していた。具体的には、アメリカ軍が所有するジープだ。なお、正式な手続きは一切踏んでいない。書類もない。許可もない。あるのは勢いと大丈夫だろうという雑な楽観だけである。
そしてそのジープも途中であっさり乗り捨てた。
結果として、5人は深夜の街を徒歩で帰る事となった。追跡を逃れる為とはいえ、直前まで軍用車両に乗っていたとは思えない妙に健康的な帰宅方法である。人は極端から極端へ振れる生き物らしい。
頬を撫でる夏の夜気はぬるく、街灯はやる気のないオレンジ色で、野良犬すら関わりたくないと言わんばかりに静かだった。その中を竜堂姉弟はジープと同じ様に拝借した軍服のまま堂々と歩いていた。開き直っていると表現するより、先に手を出したアメリカ兵の方にこそ非があるというのが彼等の言い分であろう。
かくして5人は自分達が生まれ育ち、慣れ親しんだ巣へと帰宅した。家は無事だった。世界も無事だった。東京は湾岸部を中心に所々が無事ではなかったが、済んでしまったものは仕方がない。
外観こそ古い洋館に反して竜堂家は電気温水器を使っており、帰宅して軽く操作をすれば空っぽだった浴槽はすぐに入浴可能な状態となる。
弟達はまず最初に本日の功労者としてへ入浴を勧め、4人でニュースを見る事にしたようだ。姉を労る気持ちに嘘はないが、どちらかというと未だに若干の苛立ちを抱えている彼女と同じ空間に居たくなかったという理由の方が大きい。
勧められたも特に断る理由がないので一番風呂を堪能し、一般的な住宅の3倍はある浴室を独り占めにして今日の疲れと苛立ちの残滓を湯に溶かす。入浴中に物置の方向で音がしたが、恐らく双子の弟が米軍の軍服をしまったのだろうと考え、後で取り出して洗濯をしようとだけ予定を立てた。
やがて入浴を終えたが居間に姿を現すと、入れ違いに4人の弟達がぞろぞろと浴室へと向かう。テレビの電源は入れっぱなしで、深夜のニュース番組内では都内各所で起こった火災とウォーターフロントでの前代未聞の騒動が繰り返し報じられていたが、原因の一端が今バスローブ姿でタオルを被って麦茶を飲んでいるとはアナウンサーも夢にも思うまいと彼女は肩を竦めた。
ニュースの内容を吟味する間もなく、数分後には終と余がほぼ同時に姿を現した。年少組は鴉の行水族で、特に夏場はその時間の短さが顕著に現れる。
「アンタ達、ちゃんとお湯に浸かったの?」
「おれはシャワーで十分」
「肩まで入るとそのまま寝ちゃうから」
2人にとって夏の湯船とは存在を確認する場所であって、浸かる場所ではないらしい。
は呆れるが当の本人達は既に台所に向かって冷蔵庫を開けて戻って来ており、風呂の話題は彼等の中で終了していた。水滴よりも短命な関心である。終と余は既に風呂上がりの一杯と称して牛乳を飲み干し、そのまま2本目に突入していた。
竜堂家の夜はいつもこんな調子である。世界が多少どうにかなっても、家の中の秩序は別の意味で自由に崩壊しているので今さら驚く者はいなかった。
「でも、もうちょっと平和に過ごしたいわね」
「姉貴、そうぼやくなよ。結局、皆無事だったんだしさ。色々あったけど、ほら、諺にもあるだろう。終わりよければすべてよし、って」
「でも、本当にこれで終わったのかな」
「……どうでしょうね」
余の問いには答えられない。一区切りは付いただろうが、四人姉妹との問題は片付いたどころか接触だけで終わっている。むしろ状況としては、ようやく始まったと表現した方が正解に近い。
ふとニュースの映像が切り替わり、新宿御苑で大炎上する飛行船の映像が映り出される。どうやらレディLが乗船していた飛行船は紅竜の炎弾を受けて都内に墜落していたらしい。皇居、明治神宮、迎賓館、青山霊園と近隣の開けた土地の事を考えると新宿御苑への不時着は船長の技量と職業倫理がマシだったと言える方であろう。とはいえ、墜落先が米軍基地でなく、こうしてニュースに取り上げられている以上、失態に違いない。
そもそもの元凶は彼等であり、報復を行った紅竜をは咎めない。船津老人を戦闘不能にした余と同様に続にも記憶はない様子だったが、竜堂家の家訓である恨みは10倍にして晴らす旨は実行出来たのだ。
「そういやさ、結局、あの飛行船の中で何があったんだ? 始兄貴は続兄貴が飛行船で攫われたって言ったけど」
「ぼくも聞きたい。姉さんなら必ず続兄さんを連れて帰って来るからここで待つって言ってたけど、中で何があったのかは知らないんだ」
「マリガンに丸め込まれた叔父様が続の食事に薬を盛ってね、それが筋弛緩剤だったものだから命の危機に瀕して竜になったの」
さらりと語られた内容が重い。しかし、その重さは一般家庭での話であって、竜堂家ではその重さが月面上よりも軽くなる。
テレビの向こうでは飛行船が2度目の爆発を起こしており、3人の視線は一度そちらに向いてから互いへと戻った。
「姉貴が言うとちょっとした風邪みたいだな」
「実際、急性のものだから近いわね」
「竜への変身って医療カテゴリだったんだね」
無邪気に納得する末弟と、姉のスケールを自分なりに噛み砕いて落とし込む三男をは微笑ましく思う。結局、どれだけ重大な危機に見舞われようとも竜堂家の人間は事態を深刻に受け止められないのだ。終が先程口にしたように、終わりよければすべてよし、姉弟全員が無事であったのだからそれ以上の事はない。
もっとも、その無事の定義が一般家庭と竜堂家で地殻変動レベルにズレていることについては、誰も気にしていない。気にしていたらこの家はとっくの昔に瓦礫の下で倫理観と一緒に埋まっている事だろう。
テレビの中で3度目の爆発が起き、ついに飛行船の外装が花火めいた破片を撒き散らし始めた。アナウンサーが詳細は不明と繰り返しているが、その詳細は今正に居間のソファで足を組んでいる人物の口から供給されている。
「続を攫った人間は、横田の米軍基地に向かうつもりだったわ」
「ふうん、米軍基地の理由は、四人姉妹のお膝元で治外法権が利くからか?」
「多分ね」
「でも、相手の方も今でも結構やりたい放題だよね」
新宿区と渋谷区に跨る巨大な公園内で炎上する飛行船から湾岸部での怪獣大決戦へと映像が切り替わり、遠くに赤くライトアップされた東京タワーを背景に制作費数億ドルをかけた映画でもお目にかかれないような臨場感溢れる姉弟喧嘩が映し出される。
丁度紅竜の出現直後の映像らしく、陸側に立ちはだかった黒竜が熱球を受け止め、紅竜を海中へと引き摺り込むシーンだった。そして、その背後で白い飛行船が小さなオレンジ色の点となって炎上している。
やりたい放題というよりは、一方的にやられたい放題の映像を見て、各人が口を開いた。
「見方によっては流れ星に見えなくもないわね」
「願い事が曲解された上に物騒になりそうだな」
「世界平和とか願ったら、物理的に平らにされちゃうかもね」
兎も角、レディLの計画は失敗し飛行船が都心で派手に炎上した以上、四人姉妹は近日中に新たな刺客を送り込んで来るだろう。その辺りは船津老人と変わらないと諦めたは、先程の話題に流れを戻す事にした。
「続を拉致した犯人は飛行船と一緒に命運を共にしたけど、四人姉妹の当面の目的は聞き出したわ。なんでも、わたし達の力がどう発揮されるかと、その力を世界と文明の為に利用したいそうよ」
「どうやってぼく達の力を利用するつもりなのかしら?」
「説得は無理でしょうね。実現する可能性の高い順で言うなら、茉理の拉致じゃない?」
「相手が変わっても代わり映えのしない目的と脅迫になる訳か。退屈だなあ」
「じゃあ、どんな内容だったら胸が踊るのよ」
の問いは軽い。だがこの家では軽い問い掛けだからといって安全という訳ではなく、危険物質を内包している事が多かった。開けると中から常識の断片が煙のように逃げていくタイプの箱である。
終はしばらく考え、CMに入ったテレビの画面に視線を移した。そこに答えが書いてある訳ではないが、この家の人間の思考プロセスは稀にそのような迂回路を好む。
「そうだなあ。世界征服したいのでまずは話し合いからお願いします、とか?」
「連中は既にアメリカの頭を抑えてる、現状既に世界征服してるも同然よ。却下」
姉は即答し、加えて四人姉妹とは何かを説明した。
「四人姉妹は通称で、アメリカの政界、財界、軍部を支配する4つの大財閥がそう呼ばれているの。ロックフォード、マリガン、ミューロン、デュパンの頭文字を取ってRMMD連合とも呼ばれているわ。欧州のユダヤ系財閥ロスシールド、ドイツの軍需財閥クナップ、南アフリカのリッペンハイマー財閥なんかも四人姉妹の子分や弟分ね」
「要は四人姉妹は世界中の大金持ちの親分って事だろ? 規模が巨大過ぎていまいちピンと来ないんだけど、財界っていうと、銀行とか?」
「銀行ならアメリカの9割。でも、すべての分野に影響を与えていると思っていいわ、食料品や衣類、テレビ番組、それにアンタの大好きなB級やC級の映画だって、幾らかは四人姉妹の援助を受けて作成されてる」
「へえ。おれ、映画の役者でなら出てみたいなあ。目指せ、スタントを使わないアイドル・タレント!」
「代償としてアンタの腹を開かせろって言われてもいいのなら、そうしなさいな」
「それは嫌だ」
「じゃあ、地球の重力をちょっとだけいじらせてください、とかは?」
終の冗談が一区切りして、次に余が案を上げる。こちらはやや理系寄りの発想だが、危険度はしっかり保っている。
「一日だけ全員ふわふわ浮く社会実験。スポンサーは不明」
「楽しそうだけど後始末が割と地獄ね、家具が全部天井に貼り付くわ。冷蔵庫が天井にある生活は、まあ、ちょっと面白いけど」
「いや、面白さより絶望が勝つと思う。コーンフレークはそこら中に散らばるだろうし、牛乳は丸まったまま注ぎ口から出てこないんだぞ」
「それはそれで、朝がドラマチックになるわね」
いつだって末弟に甘い長姉のコメントはどこまでも前向きだ。重力すら娯楽に変換するその精神力はもはや人類の範疇を越えている。もっとも、この家において人類というカテゴリは、だいぶ前に棚の奥へ押し込まれているが。
テレビでは黒竜が海面を割り、紅竜が蒸気と共に再浮上していた。カメラが揺れる。アナウンサーが繰り返し使用している、これは前代未聞の、というフレーズが1秒毎に更新される前代未聞に対応し切れていない。
「それにしても、世界と文明の為に利用したいって言い方は立派だよね」
「言い方だけはね」
は呆れたように肩を竦める。
「中身は、便利だから使わせろ、の上位互換よ。包装紙が厚いだけ」
「贈り物みたいに言うなよ」
「逆にぼく達が贈り物になった方が面白いかも、開けたら中から竜が出て来るびっくり箱」
「サプライズとしては満点ね。受け取り拒否されるでしょうけど」
既に黒竜と紅竜と対峙し、どちらにも防戦一方からのボロ負けを喫したはあっさり言い切る。受け取り拒否どころかでなければ配達員ごと消し飛びそうなサプライズだが、その辺りの配慮はこの家族の辞書には載っていない。
しばらくの沈黙。テレビの向こうで水柱が上がり、定点カメラが揺れて東京タワーの赤がブレる。映像の中では黒竜が紅竜に押され始めていた。
「結局さ」
終がぽつりと呟く。
「相手が何を言ってきても、おれ達がやることって変わらないよな」
「そうね。断る、無視する、壊す。その3択よ」
「だよなあ」
終は溜息を吐くも否定はしない。否定できる材料が、この家には存在しないからだ。
「でも、もしもさ、君達の力を使って最高に面白い世界を作りたい、って言われたら?」
弟が挙げた選択肢には一瞬だけ考えた。そしてその間、テレビでは小柄な紅竜が黒竜の巨大な背を押し曲げていた。海水が派手に飛び散り、ニュース番組が一瞬でアートフィルムに変わる瞬間だった。
「その場合は」
が映像から視線を逸らし、ゆっくりと口を開いた。
「まず、面白さの定義を確認するわね」
「確かに、そこは大事だな。連中の言う面白いの中におれ達の意見が含まれてるかどうかで話が変わる」
「含まれてなかったら?」
「その時は当然」
は微笑んだ。とても穏やかな、しかし相手の逃げ場を許さない笑みだった。
「こちらから、面白いの何たるかを教えてあげるだけよ。懇切丁寧にね」
テレビの中でついに紅竜が姿を消す。次いで黒竜も姿を消し、映像は再度最初から流れ始めるもアナウンサーは中身のない感想文めいたコメントをコメンテーターに求めるだけだった。語彙が殉職したらしいが、無理もない。人間が歴史の中で構築してきた語彙は、神話上の生物に対してあまりにも非力だ。
もっとも、語彙が殉職しても時間いっぱいまで番組は続く。それを保たせるのがプロというものだ。言葉が足りなければ声量で補う、意味が足りなければ間で誤魔化す。結果としてスタジオには言語学としてのフィラーが積層され、地層のように厚みを持ち始めていた。
と終と余の3人はその言語的堆積物をしばらく無言で聞き流したあと、ほぼ同時に興味を失った。テレビを眺めるよりも姉弟と会話した方が有意義だと判断したようである。
「で、面白いの定義って具体的にはどうするんだ?」
「簡単よ。退屈しないこと、これに尽きるわ」
「ハードル低いのか高いのか分かんねえな」
は世界の命運を左右する時と同じくらいの軽さで人指し指を立て、終が眉を顰めた。
ニュースの番組内では、深夜にも関わらずついに専門家とやらが登場している。肩書きが画面の下に並んでいるが、国際安全保障、生物生態学、危機管理という、どれもそれらしく見えるが今この瞬間に役立つかどうかは別問題の学者が真剣な表情で冗談みたいな現実を討論していた。
『現段階では、確認されている情報は限られており……』
「確認されてない事だけが無限に増えてるな」
終がぼそりと言い、余がに質問する。
「情報って、増えるほど分からなくなるんだっけ?」
「良質なものなら整理されるわ。質が悪いと、ただのノイズよ。今のこれは後者」
画面の中で専門家が頷く。頷くが、頷いている理由が本人にも分かっていない顔だった。頷きは万能だが、万能ゆえに空虚でもある。
「それにしてもさ、四人姉妹の目的が文明の為っていうの、言葉だけは随分立派だよな」
「立派な言葉ほど便利に使われるからねえ。正義とか、未来とか、希望とか。どれも中身を入れ替えやすい容器よ」
「便利なタッパーみたいなもんか」
「ええ、密閉性は高いけど、開けると大体臭うわ」
終と余はの家庭的で分かりやすい比喩に思わず笑った。竜堂家では変に悲観ぶったり真面目に受け取るよりもそちらの反応が正しい。まず笑う、後で考える。何故なら、彼等に降りかかるものは考えてもどうにもならない場合が多いからだ。むしろ考えた結果として、やっぱり壊すしかないという結論に至る事が多く、だったら最初から笑っていた方が精神衛生に良いという経験が蓄積されている。
一通り軽く笑っていると廊下の向こうから電話の呼び鈴が響いた。深夜を越えたこの時間に電話を掛けてくる相手は1人しかいない。
3人を代表して終が受話器を取りに行くと、入れ違いで年長組が居間に現れた。その背後から、必要最小限の情報伝達を短時間で完了させた終が顔を覗かせる。
「茉理ちゃんから電話があったよ。叔父さんと2人で、無事に帰ったって。でもって、午前中は眠って、お昼になったら差し入れに来てくれるってさ」
「ありがたいな。じゃあ、それまでおれ達も眠るとするか。機動隊や自衛隊が押しかけて来たら、それはその時の事だ」
始の出した結論は備えとしてはあまりにも雑だったが、竜堂家においては最適解に近い。何かが押しかけて来たらその時に考える。押しかけて来なければそれはそれで平和だ。どちらに転んでも睡眠は取っておいて損がない。むしろ、寝不足のまま対応すると判断力が鈍る分だけ被害が拡大する可能性があるので、結果的に周囲の安全にも寄与する。極めて利己的なようで、ほんのり公共心が混ざっている判断だった。
居間でBGMとして活躍する爆発音も、竜の大立ち回りも、テレビの中に収まっている限りは日常の範囲内だと判断する。その判断速度は、もはや呼吸と同じくらい自然だった。
テレビは相変わらず騒がしい。専門家が憶測で言葉を交わし、コメントが増え、しかし有効な情報は増えていない。映像だけが鮮明で言葉は曖昧だった。画面の隅に最新映像と表示されても、竜堂家にとってみればすべてが既知の情報である。
テレビの電源を落としたと余がソファから立ち上がり、軽く伸びをした。関節が小さく鳴る。生きている音だ。
「じゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
外の世界は相変わらず騒がしい。遠くで陰謀が張り巡らされ、遅れて彼等に害が及ぶ。けれど、少なくとも今日という日の中で竜堂家の夜はいつも通りだった。互いに型通りの挨拶を済ませると、彼等はそれぞれの部屋へと散っていく。
そして数時間後、きっと何事もなかったかのように朝が来る。何事もなかった事にはならないが、少なくともいつも通りではある。そのいつも通りが、少しばかり常軌を逸しているだけの話だ。
世界も世間も騒がしいのに、この家だけは何があろうと落ち着いている。
それが竜堂家の日常だった。