曖昧トルマリン

graytourmaline

歴史は夜にもつくられる

 外は潮の匂いとアスファルトの熱がまだ抜け切らない。そのような中で東京湾岸の夏の夜に浮かぶ飛行船は、未完成の埋立地に浮かぶただの白い異物だった。
 だが一歩キャビンに入った瞬間、その印象は裏返る。空気の密度すら違い、静かで、乾いていて、そして計算されている。この船内だけまるで別の都市が切り取られて、無理やり東京の夏に貼り付けられたみたいだった。
 キャビンの内側には別の季節が閉じ込められており、ひやりとした冷気は単なる空調のそれではなく、選ばれた場所だけに許された特別な温度という顔をしている。
 床は厚みのあるカーペットが音を吸い込み足音は存在を主張しない。壁面には無駄な装飾がない代わりに、鈍く光る金属とガラスが寸分の狂いもなく並んでいる。
 豪奢というよりも、資本そのものが形を持ったような空間だ。もし日本の不動産屋がこれを見たら、広さも立地も説明できない超一等物件とでも呼ぶしかないだろうと、ナミテントウは甲虫にはおおよそ考えられない思考で周囲を観察した。
 しかし、これは家ではない。空へ浮かぶための器だ。
 窓の外には、まだ骨組みのまま眠っているウォーターフロントの景色が広がっていおり、クレーンの影が夜の海にゆっくりと溶けている。遠くで工事灯が滲み、都市は未完成のまま呼吸していた。
「ようこそ、ミスター・ツヅク・リュードー、貴方を心から歓迎しますわ」
「お招きにあずかって嬉しく思います、マダム」
 そのような環境で続を出迎えたのは、うら若いとは言えないものの美しい女だった。
 女は、季節で言えば初夏ではなく、収穫を目前にした果樹園の匂いを纏っている。積み重ねた決断の数が輪郭に出ており、誰かに愛されるために整えられたものではなく、何かを成し遂げる過程で削ぎ落とされてきたような線をしている。
 外国人であることは疑いようがないのに、日本語は水面のように滑らかで固有名詞以外の音は引っ掛からない。長くこの国にいたのか、それとも言語という道具を扱うのが根本的に長けているのか。いずれにしてもその流暢さは親しみやすさとは別の場所にあり、便利で、冷静で、そして少し距離がある。
「わたしはパトリシア・S・ランズデール。貴方の叔父様の友人です。一応独身なのだけど、貴方がマダムと呼んでくださる、その響きを好ましく思いますわ」
 会話の隙間を縫うようにして低く唸るような機関の振動がナミテントウの身体にじわりと伝わってくる。人間の体ではほとんど感じないそれを小さな甲虫は全身で感じ取っており、規則正しさと静かな獣の心臓が合わさった震えは招待者も相俟って不愉快で、人間の爪の先ほどもない翅を広げると船内の探索を開始する。
 いざとなれば人の身に戻り壁や窓を破壊しての降船も可能だが、出来ればそれは最終手段としたい。冴子から伝え聞いた続に興味のある女は彼女だと結論づけたナミテントウは、グリーンのありふれたスーツの横を通り過ぎ、排気口から各部屋の様子を確認していると、ある部屋に10人程の男性を発見して存在しない肩を落とす。
「しかし、まだるっこしいな。こんな豪勢な飛行船まで用意してよ。2、3発ぶん殴ってワゴンで拉致すりゃいいのに」
「言うな。レディLはあのガキに大層執着してるんだ、出来るだけ無傷で捕らえなきゃ金にならん」
「無傷で捕えて何するつもりかねえ、ほら、あの部屋見たか? 日本のラブホテルみたいなベッドの部屋だよ、金持ちが考えなんて庶民と変わんねえなって悟りを開けた部屋」
「マリガンの代表面しといて結局は性欲かよ。若い女を用意しろと抜かしてたジジイが、若い男を用意しろって命令するババアに変わっただけか」
「ババアは言い過ぎだろ。レディLは、あれはあれでいい女だと思うがね」
「そりゃ見た目はな。だけどあの気の強さは好かん、自分が格上だって隠しもしない態度も含めてな。おれはもっと奥ゆかしい美女が好きだね」
「奥ゆかしい美女はお前みたいなゴリラに靡いたりしねえよ」
「おれはそっちより、また女子供を生きたまま焼き殺してえな。火炎放射器担いで、ベトナムやニカラグアでやったみたいにさ」
 英語で交わされる不愉快な雑談の内容からパトリシア・S・ランズデールがレディLと呼ばれている事と、続に興味があるという情報は正確であった事だけ頭に入れたナミテントウは、それ以上会話から得られるものはないと切り上げて男達の姿や装備を確認する。
 男達が執事然とした格好であれば、まだ説明は付いた。しかし彼等は揃いも揃ってヘビー級ボクサーのような立派な体躯に迷彩服を着込んでおり、先程の会話も含めてどの角度から見ても荒事専門である以上は看過しておけない。護身用としてぎりぎり説得が出来る拳銃やナイフは兎も角、サブマシンガンまで装備しており、傍らには鋼鉄の太いワイヤーロープが置かれている。そこでふと、ナミテントウは違和感を覚えた。
 竜堂家の人間に銃火器による脅迫が通用すると思っている人間が、拘束に金属製のロープを用意するだろうか。仮に用意したとしても、あの太さは明らかに過剰と言える。手錠でも天然素材のロープでもない物が用意されているというのに、無力化する手段のみがあまりに一般的過ぎた。
 ならば、相手の武器は薬か、あるいはガスか。
 数ヶ月前、船津老人は後者を脅迫の道具としてを東京から連れ去った事がある。あの時は黒塗りの高級車の後部座席だったが、今は飛行船内だ。排気口がある以上、無差別に人を襲うガスの可能性は低い。完全な密室に竜堂家の人間を閉じ込める手段は限られており、現状では鳥羽家で療養している冴子を人質に取る以外に方法がない。しかし、彼女に懐いているに対してならばまだしも、続に対して叔母という脅迫は効果が薄いように思える。
 より有り得そうな観点から薬に的を絞り、排気口から室内へ侵入したナミテントウは持ち込まれている装備を再度確認する。傍らには麻酔銃、そして長いコードが伸びる金属製のベルトを見つけるも気がかりは消えない。彼等の初期装備がサブマシンガンなのだ、捕えるつもりならば全員が最初から麻酔銃を装備している方が合理的だ。
 他に薬を盛る方法など、と考えた甲虫の脳裏に、嫌な考えが閃く。
 叔父が、あるいはマリガンが、あの店の厨房で薬を盛ったのだとしたら。可能性としては十分有り得る。料理か、もしくは食後のコーヒーか、混入させやすいのは後者だろうか。
 続を連れて脱出すべきという判断を下しながらナミテントウは人間の姿に戻り、一瞬の躊躇いもなく男達に襲いかかった。脱出の邪魔をされるのが煩わしいので先に片付けるという単純な理由だったが、突如室内に成人女性が出現した事に対応しきれなかった男達は呆気に取られ、結果としての不意打ちを真正面から食らう事となる。
 のヒールの爪先が軽く床を叩き、次の瞬間、空気が遅れて靡いた。
 彼女の姿が視界から消えたと認識したのは3番目に意識を失った男だった。最初の男は何も理解出来ないまま崩れ、次の男は自分の腕があらぬ方向に曲がるのを見てから脳が揺れるのを認識する前に倒れた。
 音が追い付き、骨が砕ける鈍い衝撃と空気を切り裂く短い唸りが連続して弾ける。
 同士討ちを避けられる左側面に回り込んでいた男が反応し拳銃の銃口が振られ、引き金が引かれるも銃声は一度しか鳴らなかった。弾丸は彼女のいた場所を正確に貫いていた、しかし、そこにはもう何もいない。
 彼女は既に男の懐に入り込んでいた。腕を振るでもなく、押すでもなく、ただ触れたように見えた。それだけで男の体は床に叩き付けられる。衝撃が遅れて波紋のように広がり、床材に蜘蛛の巣状のひびが走った。
 飛行船の狭い室内で、残りの7人が一斉に動く。
 間合いを詰める者、距離を取り射線を確保する者、役割は瞬時に分かれる。だが、その連携は人間同士を前提にしたものだった。
 はその前提の外にいる。踏み込み一つで距離の概念が壊れ、腕の振り一つで防御という行為が意味を失う。
 正面から殴りかかった男の拳がの肩口に届く寸前で弾かれ、が体を捻り肘を入れた。それだけで、男の意識は切断されたように消える。
 背後からナイフが閃くも彼女は振り返らずに、ただ半歩だけ横にずれる。刃は空を裂き、同時にの踵が男の膝を払うと乾いた小枝よりも脆く関節が逆方向に折れ、絶叫が夜気を震わせる。
 他の部屋や区画から応援が来ないのは、他に人員がいないのか、それとも完璧に整えられた飛行船の防音対策が効果を発揮しているからなのか。
 ほんの数秒で仲間の半数が戦闘不能となるが、それでも彼らは止まらない。が少し動いた素振りをするだけで視界の端で仲間が消える。距離が狂う。時間が歪む。
 彼等の訓練は、状況を分析し、最適解を導くためのものだった。だが今、状況そのものが成立していない。銃を構えても、銃口を向けても、実弾を発射しても、は動きを静止する様子が微塵もなかった。
 逃げ場のない、音が跳ね返るだけの四角い檻の中の彼等は、確かにプロフェッショナルであるはずだった。相手は1人、しかも大学生か社会人になったばかりに見える若い女性で、ノースリーブのロングトップスにストレートパンツ、そしてヒールという格好をした、おおよそ戦闘とは無縁の姿。本来であれば1秒も要することなく冗談を言い合いながら片手で制圧出来る相手のはずだったのだ。
 しかし、既に仲間の半数が戦闘不能の状況に追い込まれている。それが現実だった。
 5人の男は目線で会話をした後で配置に付き、互いの隙間を埋めるように陣形を組む。誰かが撃てば誰かが補う、経験が染みついた陣形だ。
 は一歩だけ動き靴底が床を鳴らした、その音が合図になった。拳銃の銃声が鳴るよりもの動きは確かに遅かった、しかし結果として倒れたのは引き金を引いた男で、腹部を殴られた事により骨が折れ、潰れた内臓から滲み出た血混じりの胃液を吐き出している。
 その隙にの背後を取った男がサブマシンガンを振り上げるも軽くステップを踏んで振り返ったの腕が伸び、奪うと呼ぶよりも取るような動きで男の手から銃を手に入れる。そのまま引き金に指をかけることなく銃床で頭を殴り昏倒させると用済みとばかりに床へ投げ捨て、ナイフを構えて距離を詰めてきた男を視認した。
 踏み込まれた勢いをは利用し、男に腕を何気なく取ると横へ流して足払いをかけ、既にひびの入っている床へ投げ付ける。緩く屈んだ背後に気配を感じ前方へ逃れると、そのまま壁を蹴り宙で半回転しながら男の頭頂部へ強烈な踵落としを食らわせた。
 その犠牲を無駄にしてなるものかと着地地点を読んでいた最後の1人がの胴に銃弾を複数発食らわせる。誰がどう見ても致命傷で、これで仲間の敵を打てたと喜ぶ感情が湧き上がった直後、ネイルに彩られた五指が彼の頭部を掴み、そのまま壁に叩き付けられた。
「……はあ。まったく、嫌になっちゃう」
 静寂が降り立った室内では独り言ち、何事もなかったように軽く首と肩を回す。息は乱れておらず、汗もかいていない。それが当然であるかのように、足元には10人分の敗北が転がっていた。
 彼女はそれを一瞥し、興味を失ったように視線を外す。溜息の元凶は戦闘不能になった男達ではなく、窓の外、正確には眼下に広がっていた。
 が乱闘している最中に飛行船は離陸していたようで、既に通常の手段では帰宅がままならない状況に陥っていた。しかし、裏を返せば通常とは異なる手段ならばあるのだ。現には数日前に東京の上空に浮かぶ飛行船に途中乗船からの帰宅という人類には為し得ない実績があった。
「約束の10分は経過しているでしょうし、続を回収して帰りましょうか」
 仮に薬を盛られたとしても睡眠薬程度である事を祈りながらは隣室への扉を開き、ナミテントウの姿で訪れたキャビンに人の姿で戻る。幸いその部屋には誰もおらず、隣室から人の気配がするのでそちらに移動したのだろうと当たりをつけた。
 自分の弟が優雅に談笑しているはずもない事を知り尽くしているはノックもせず扉を開き、部屋の内装よりも先に飛び込んできた光景に思わず失笑する。
「あら、ごめんなさい。お邪魔だったかしら?」
「まさか。いい加減うんざりして帰ろうと思っていたところですよ」
 レディLの両腕が首に回された状態の弟を見たは堪えきれなかった笑いを手で隠し、視線を逸らしながら肩を震わせた。そんな光景を姉に目撃された続はというと苦虫を噛み潰したようにレディLの腕をもぎ離して霜のような視線を双方に送る。
「すみませんが、マダム……ぼくは面食いなんです。ですから、マダム、貴方のお誘いを受けるのは、ぼくにとって耐えられない事なのです」
「それよりも大きな問題は年齢じゃないかしら。三十路間近の人間が10代の未成年に一方的な恋愛感情を抱くのは現代社会を生きる上で開示すべきではない、かなり後ろめたい性癖だと自覚した方がよろしくてよ?」
 竜堂家の中でも特に人の感情を逆撫でする行為を得意とする姉弟からの暴言を浴びる事になったレディLの両眼が敵意に燃える。だがその一方で、と続はというとまるで火に油を注ぐ職人のように飄々としている。他の兄弟からしてみれば、何故5人の中でよりにもよってその2人の組み合わせを引き当てたのかと影で同情するような人選なのだ。
「そう、わたしを拒否するのね」
「ご理解いただけて光栄です、マダム」
「再考の余地はないの?」
「貴方を抱くのも、四人姉妹に抱き込まれるのも、御免被ります。貴方はぼくを南海紅竜王陛下と呼んだ。陛下と呼ばれる者が、誰かに膝を屈し、飼われて快しとするはずがないではありませんか」
「……言ってくれるじゃない」
 レディLは唇の端を意識して持ち上げる。笑みの形をしているが、そこに愉快さは一欠片もない。
「さて、愚弟。アンタ今、自分が安全圏にいると思っているでしょう?」
「思っていませんよ。むしろ今、命の危機を感じています」
「念の為、もう一度訊くわ。本当にそう思ってる?」
「ええ」
 では、薬を盛られたかもしれないという予測はの考え過ぎだろうか。しかしどの道、飛行船は遊覧中なので生身の続にとっては安全圏とは言えないだろうとは己の考えを否定しなかった。
 続は淡々と答えながら、レディLから自然と距離を取る。その動きは無意識に見えて、実際にはかなり計算されている。相手の射程と、自分の逃げ場。その両方を測る癖が染みついている。はその様子を横目で眺め、小さく笑った。
「命の危機、ね。さっきまで首に巻きつかれていた人間の言葉とは思えないわね」
「蛇に締められている気分でした」
「蛇に失礼よ。彼等にはもっと知性と品性があるわ」
 軽口が交わされる。だがその軽さは、場の緊張を和らげるためのものではなく、むしろ逆に、わざと軽くすることで相手の感情の置き場を奪っていた。
 2人の安い挑発にレディLは一歩だけ踏み出す。
「随分と楽しそうね。家族団欒かしら?」
「毒の回し飲みみたいなものです」
「最低ね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
 は誂うように肩を竦める。その仕草一つとっても、相手を値踏みしている気配が隠しきれていない。視線は柔らかいが、観察は鋭い。どこまで踏み込めば崩れるか、その境界線を探っている。
「それで、レディL。ご用件は済んだのかしら? まさか本当に、うちの弟を攫いに来たわけじゃないでしょう」
「攫う、ね。面白い言い方をするのね。そこまで安っぽい趣味はないわ」
 どのように侵入したかも分からないが本来知り得ない情報、彼女をレディLと呼んだ事にほんの僅かに反応したが、レディLはそこで感情を留め、追求はしないようだった。
「それは良かった。市場価値が暴落したかと思いました」
「元から高値はついていないと思うけど?」
「姉さん、追撃が雑になってきている自覚はありますか?」
「雑でも刺さる相手だから問題ないわよ」
 姉弟の会話は、まるで最初から台本でもあるかのように淀みがない。レディLはそこに割り込むタイミングを計りながら、言葉を選ぶ。
 竜堂家の人間は長兄を除き基本的に人を言葉で翻弄する術に長けているが、その中でも特にと続は群を抜いている。相手の呼吸を読み、その間隙に滑り込むような話術を使うのだ。それは時に相手を嘲弄し挑発する事も厭わないので、逆に相手から冷静さを奪う事にも繋がる。そしてそれが分かっていてもなお彼等の言葉に踊らされる人間は後を絶たない。
 レディLは、自分がその罠に嵌まる事を嫌い、会話のペースを乱される事も嫌っていた。
 だが、それでも彼女は口を開く。
 続が彼女の言葉に対して反応し、それをが更に煽る。そしてそれに続が反応し、という悪循環に敢えて自ら身を投じたのは、それを崩すためだ。
 レディLは軽く咳払いをし、2人の注意を引き付けると口を開いた。それは彼女にしては珍しい行動だったかもしれない。彼女は常に指示を出す権力者であり、誰かに請われて意識を向ける側の人間だった。
「……いいわ。今日は顔を見に来ただけだから、また後日、お会いしましょう」
「うーん、お手本のような悪党の負け惜しみ。今のこの瞬間を額縁に入れて模範解答として飾りた気分」
「負け惜しみでなければ、随分物騒な挨拶ですね」
「そうかしら? わたしは礼儀正しいつもりよ、坊や」
「礼儀の基準がぼくと貴方とでは違うようですね」
「そうね。あなたたちと同じ基準で生きていたら、いつか飽きて死んでしまいそうだもの」
 レディLは踵を返しドアに向かう。その足取りに迷いはなく、最初から決めていた事のように滑らかだった。
 だが、その背中には言葉をかけた。
「それは大丈夫よ。貴方が飽きる以前に、わたし達が退屈しているから」
「……退屈ですって?」
「飽きると退屈はほぼ類語として扱えるけど、日本語のニュアンスが少しだけ違うのよね。面白い相手に興味を持って、いつか興味がなくなる事が飽きるという意味。でも、わたし達は退屈なの、最初から貴方に興味も関心もないもの。当然でしょう?」
 柔らかな声音だが内容は刃物よりも冷たい。
 丁寧にお前は最初から眼中にないと説明されたレディLはに向き直り、数秒の沈黙の後で小さく笑う。
「だったら、窓の外を見てみるべきね。お分かりかしら? 飛行船は既に離陸していたの。トーキョー上空800メートルよ。逃れる道はどこにもないわ。さあ、どうするの、美しいドラゴンの末裔」
「あら、この期に及んで絵に描いたようなお間抜けさん。飛んでいる事を知っているからこの愚弟を迎えに来たのよ、帰る手段もなしに乗り込む訳がないじゃない。それよりも続、アンタ体調に異変はないの?」
「異変ですか? 一体何を」
 そこまで言いかけて、続の舌が強張るのをは見た。全身が崩れ落ちる前にが続を支え、その姿を見たレディLがサディスティックな笑みを浮かべる。勝利を確信した者の笑みだった。
「ようやく効いてきたようね。貴方の叔父さんに言いつけて、貴方のコーヒーに筋弛緩剤を入れておいたのよ。象でも立っていられないくらい強力なやつを、しかも大量にね。貴方の叔父さんは、媚薬だと信じているけど……」
「嘘でしょ、まさかあの人、現実に媚薬が存在するって信じてるの? AVの見過ぎで脳から性病に罹ったのかしら」
「姉さん、余裕ですね……」
「だってわたしは盛られていないもの。アンタは休んでなさい、どうにかしてあげるから」
 生まれて初めて見る息を切らせる弟に、が一切動揺していないと言えば嘘になる。しかし、当面の敵が目の前にいる以上、彼女は表に出して狼狽えるわけには行かなかった。
 続もそれが分かっているのだろう。姉は矢張り女傑だと関心しながら力を抜く、がどうにかすると言ったのだ、ならば、どうにかする目処はあるという事だ。伊達に19年間、姉と生活を共にはしていない弟の判断だった。
 姉弟のそれがただの強がりと見て取ったレディLは勝利を確信した声で哄笑する。
「この飛行船は、このまま横田の米軍基地に直行する事になっているわ」
「あらそう、準備が宜しいこと」
「陳腐な負け惜しみね。そしてそこで、ゆっくり、貴方の弟の美しい身体を、わたし達の利益の為に役立てて貰いましょう。いえ、訂正するわ。世界と文明の為にね」
「勝ったと思うのは、早過ぎますよ。ぼくの兄弟達も黙ってはいません。少し心配なさった方がいいと思いますね」
「ところが、貴方や貴方の兄弟を怒らせる事が、差し当たっての目的なのよ。竜王兄弟がひとたび怒った時、そのパワーはどう発揮されるのか。興味を持たずにいられないわね」
「飽きるどうこう言った側から……ま、そこはいいわ。続、アンタ軽口叩けるくらいの余裕はまだありそうだから、予定通りここから帰るわよ。それにしても、邪魔が入らないのは良いわね。先に別室で待機していた連中を伸しておいたのは正解だったわ」
 の言葉をただの強がりだと思っているのだろう。レディLは余裕の笑みを崩さず2人の姉弟が非常口へ向かって行く様子を黙って観察していた。
 しかし扉が開けられ、夏の夜風が強烈に皮膚を叩く感触を受けると、レディLの顔色が明らかに変化する。外にあるのは綺羅びやかな東京の摩天楼だけで、脱出出来るような手段はどこにも見えない。
「それでは、御機嫌よう」
 折角手に入れた人質を何もせずに見送った事を上層部に知られるがいい、そんな笑みをは浮かべ、全てを諦めたような表情の続と共に夏の夜空へと飛び降りた。
 時間にして数秒、続を抱えていたの肉体は巨大な黒い竜へと変化し、その大きな頭上に乗せられた続は安堵の息を吐く。
「ドラゴン……まさか、本物の竜!?」
 黒竜が東に頭を向ける際に、飛行船の非常口から顔を出したレディLと続の視線が合う。しかし続は彼女への興味を持つ価値はないと判断して敢えて視線を外し、東へ戻ろうとする黒竜の角を掴んだまま、ようやく肩の力を抜いた。
「……助かりました、姉さん」
 呟きは短く、言葉が夜に溶ける。礼としては簡素過ぎるが、黒竜は気にした様子もない。何故なら続に盛られた筋弛緩剤は刻一刻と彼の体力を奪っているのだ、飛行船からの脱出は成功したものの危機が去ったとはとても言える状況ではない。長く巨大な胴が夜気を切り裂くたび、低く重い風の層が後方へ流れていった。
 黒竜はその巨躯に見合わず無音で弟達の元へ向かう。
 夜は深く、まだどこまでも続いていた。