歴史は夜にもつくられる
行き先がレストランともなれば尚更で、普段の外出用のまあこれでいいかで済ませられる妥協は封印される。気合いは、かけようと思えばいくらでもかかるものだし、だいたいの場合かかりすぎる。
クローゼットの扉を開けたままは腕を組みしばらく動かない。整然と並んだ衣服達はさながらオーディション開始前の候補者のように静かに自己主張しているが、彼女の視線はそれらを通り越し、どこか遠くの面倒ごとを見据えていた。
赤坂で行われるはずだった夕食会は、今日の朝に茉理経由で場所変更が伝えられた。新たに指定されたのはウォーターフロントのチェコスロバキア料理店で、しかも叔母の冴子は偏頭痛の悪化により不在という。つまり、場の雰囲気も人間関係も一度リセットされたことになり、昨日の時点では確かに完成していたボルドーのシルクワンピースを軸としたコーディネートは見事に振り出しへ戻された。
は一歩だけ後ずさり、クローゼット全体を眺め直す。そこには彼女がこれまで通過してきた「場」が掛かっている。
会食、式典、観劇、再会。布地に縫い込まれているのは季節感だけではなく、その場でどう振る舞うかという一種の設計図だ。赤坂であれば、あのボルドーは実に都合が良かっただろう。灯りの落ち着いた室内で、余計な主張をせず、それでいて存在感を滲ませる沈まない色。叔母の顔を立てる事を前提に、ほんの少しだけ良識寄りに寄せた選択。
だが、ウォーターフロントとなると話が変わる。光は水面で跳ね、夜でも妙に明るい。再開発計画が進行中の場所は広い空き地と海に支配されており、輪郭は曖昧にならず、むしろ余計な所までくっきりする。
加えて、叔母がいない。緩衝材と呼ぶには上品過ぎるが、叔母という壁が一枚取り払われた場の難易度は体感で二段階ほど上がる。同じ装いで乗り込むのは、どうにも無防備過ぎる気がした。
ようやく腕をほどいたがハンガーに指を滑らせる。布が擦れ合う音が、静かな室内に規則正しく刻まれる。その動きは迷っているようでいて、実際には候補を容赦なく削っていく作業だった。選択というより、選外通知の連続である。
薄いグレーのセットアップの前で一度止まり、すぐに通り過ぎる。堅実、あるいは無難。今日はそれらの表現で済ませていい顔ぶれではない。は衣装を叔父の好みに寄せるつもりもなかった。次に、淡い青のブラウスと黒のスカートに視線を留めるが、これも長くは続かない。何かが引っかかる。理由は言語化出来ないが、こういう違和感は大抵当たる。
数分後、クローゼットの奥に掛けられていた一着に手が伸びた。
昨日までは視界に入っていながら、あえて見ないふりをしていたものだ。理由は明確で、そして今はその理由があまり役に立たない。
選び直された一着はミッドナイトブルーのセットアップだ。ワンピースではなく、ノースリーブのロングトップスにストレートパンツ。パンツにした理由は単純で、動ける余地を確保するためだった。叔父の背後には四人姉妹のマリガンが潜んでおり、しかも今日は彼の手綱を締める叔母がいない。座って食事をして帰るだけで済むとは思えないのだ。
付けるはずだったアクセサリーは削り、メイクは派手さを抑えて薄く見せる。もちろん髪型も同様に整える。それは準備というより、むしろ装備の最適化に近い。
そうして身支度を済ませたが階下の居間まで足を運ぶと、既に着替えを終えていた4人の弟達が、ひとりを除いて揃いも揃って「これは本当に人類に必要な布なのか」という顔で時間を潰していた。
特に正装と縁のない終などは襟元の閉塞感へ抗議するように喉仏が上下しており、普段はTシャツ1枚で風と友達をやっている人間が急に礼儀作法という名の檻に収容された結果を全身で表現していた。彼の場合はもはや服というより拘束具に近い。
逆に例外の1名、続だけは窓辺に背を預け、外の光を値踏みするように眺めている。まるで自分の装いがこの日の空気と釣り合うか最終確認しているようで、その光景だけは相変わらず絵になる。もっともには、その格好がどう見ても夕食会用ではなく開戦用の戦闘服にしか見えなかったが。
「似合ってはいるけど、挑発的ねえ」
自他共に認める洒落者の次男が選んだのは白い麻のスーツにコーヒーブラックのイタリアンシャツ。ここまでは続にしては無難だが、問題はエメラルドグリーンのネクタイだった。軽やかなはずの夏素材を、配色ひとつで妙に緊張感のあるものへと変えている。爽やかさを装いながら、光を反射し目線だけは一切譲らない。見る人が見れば風通しがいいでは済まない仕上がりで、叔父の好みとは対極にあるし、続もそれを知らないはずがない。
は一歩踏み出し、続のネクタイを軽く整えた。エメラルドグリーンが光を受け、ほんの一瞬だけ刃物のような冷たい輝きを見せる。夕食会に刃物は持ち込めないはずなのだが、既に抜き身のナイフが1本混ざっている気がした。一応、自身もナイフ寄りの自覚はあるものの、それでも鞘に入るようコーディネートしたというのに。
「姉さんにしてはかなり地味に纏めましたね。ボルドーのワンピースにすると言っていませんでしたか?」
「叔母様がいればそれでも良かったんだけどね、今日は叔母様という審判がいないの。これ以上フィールドを荒らすと試合にならないから抑えたのよ。あと単純に、逃げやすさ重視」
「逃げる前提なんですね」
「保険よ。火災報知器と同じ」
「緊急事態なんて起こるのか?」
慣れない正装に包まれた終が、襟と和解できないまま疑問を投げる。
「続にちょっかい出しそうな四人姉妹の手先が叔父様と接触したからね。備えておくに越した事はないわ」
は軽く肩を竦めて答えた。その仕草は軽やかだが、言葉の中身はあまり軽くない。甘そうな見た目で後から辛味が追いかけてくる、あの手の食べ物に似ている。
その辛味に遅れて気付いた年少組が、顔を見合わせて口を開く。
「姉さん、本当なの?」
「続兄貴狙われてんの? 初耳なんだけど」
「始、アンタの脳味噌を刻んでホウレンソウと一緒にバターでソテーして頭蓋骨に詰め直してあげましょうか」
「……終と余はまだ知らなくてもよかっただろ」
「そうは思わないわ。万が一、続に何かあった時に『教えられなかったので対応出来ませんでした』なんて台詞をこの子達に言わせるつもり?」
「簡単に手を出せるような人間だと思われているのは心外ですね」
三者三様に温度の違う返答が返り、と始と続の間に意見の相違から見えない三角形が出来あがる。四人姉妹が叔父の背後から手を伸ばす可能性から警戒を優先すると、たとえそうだとしても年少組を巻き込みたくない始と、自分は問題ないと自負する続。それぞれ正しく、それぞれ厄介だ。
軽く放たれた始の一言と、続の根拠のある自信が、の周囲の空気を僅かに冷やした。狙われている相手が喧嘩の絶えない次男であろうと、彼女にとっては4つも歳の離れた弟である事実は変わらない。始の沈黙や続の言動が竜堂家全体への信頼と矜持から来る態度だと分かっていても納得出来るかは別問題で、室温とは関係のない冷気が静かに背骨をなぞる。
「いやいや、急にそういう話を昼下がりの居間に持ち込まないで欲しいんだけど」
年長組だけでは換気が必要だと判断した終が、さり気なくネクタイを引き抜こうとしながら軽い抗議の声を上げる。だがその手はに捕まれ、一度解かれた後で、より整った形で再構築された。
「おお、ちょっと楽になった。物理的には」
「精神的には?」
「現状維持かな」
「姉さん、僕のも結び直して貰ってもいい?」
「勿論よ」
年少組のもう片方は終よりも言葉の飲み込み方を心得ている。末弟の一言で張り詰めていた空気が少し緩み、その隙を見逃さず終がぼやく。
「おれ、今日はただ美味いご飯を奢られるだけの予定なんだけどなあ」
「そうね。美味しいご飯を食べて、眠くなるような世間話をして、場合によっては地雷原を素足で散歩するだけよ」
「最後の一文、サービス精神が過剰だろ」
終の抗議はもっともだったが、もっともである事を理由に採用される保証はこの家にはなく、むしろ不採用である確率の方がやや高かった。竜堂家内で出される正論は、しばしば参考意見に留まる事が多い。
「別にさ、荒事が起こるならそれはそれでいいんだよ。でも食事は食事、運動は運動って分けたいな。じゃないと両方に対して不誠実だろ?」
「その理屈でいくと、今日はかなり不誠実な一日になりそうね」
「それ、誰が悪いんだよ」
「環境」
は単語のみで即答し、誰も否定しなかった。反論の余地がなさ過ぎると、人は潔く諦めるらしい。
その沈黙を、ぐう、と間の悪い音が破った。終の腹である。犯人は即座に咳払いで誤魔化したが、成功したとは誰も思っていない。
「食事の話してたからなあ、おれの胃が準備運動を始めたんだ」
「身体が正直ね」
「正直すぎて裏切りがない分、扱い易いけどな」
軽口がひとつ転がり、さっきまでの張り詰めた空気が少しだけ緩む。戦闘だの警戒だのといった単語は、ひとまず食欲の前では優先順位を下げるらしい。
続は窓から視線を外し、壁掛け時計に一瞥をくれた。
「そろそろ持ち物と服装の最終確認に取りかかりましょうか。叔父さん、そういう事にだけはうるさいですからね」
「そうなの? 始兄さん」
「うるさいというか、自分が主催の時だけ特別扱いするタイプだな」
「うわ。それ、かなり面倒な部類だろ」
「しかも妙なところで細かいのよね」
がため息混じりに肩を竦めると、終がネクタイを指で弾きながらぼやく。
「あの人の貸し借りの管理ってさ、独特過ぎないか? 帳簿が脳内にある感じで」
「しかも年単位で熟成されるやつね」
「発酵食品みたいに言うなよ、余計に怖いだろ」
「実際、味が出る頃に請求されるから質が悪い」
じわじわと現実的な不安がテーブルの上に並び始める。料理の話題から自然に金勘定へ移行するあたり、この家の会話は妙に実務的だった。
終は一度、真顔で考え込むと、ぽつりと漏らした。
「鳥羽の叔父さんに、うかうか御馳走になっていいのかなあ。あの叔父さん、奢って貰った事は忘れて、奢った事ばかり憶えてるタイプだぜ」
「どうせ恩に着せられるなら、思い切り高価い料理を御馳走になりましょう。それが、奢って貰う者の心得です」
続の言葉はやけに堂々としていた。もはや心得というより戦術である。
は一瞬だけ目を細め、それから肩を竦めた。
「随分と前向きな寄生ね」
「寄生ではなく投資ですよ。叔父さんの記憶に高額案件として刻ませる事で、こちらの印象を固定する」
「嫌な方向に固定される未来しか見えないんだけど」
続の屁理屈を聞いた終が即座に突っ込む。ネクタイを緩めたい衝動と戦いながらの発言なので、説得力が妙にある。とは言うものの、冷静に計算出来る余裕は生まれているようで、の手で再度ネクタイを直される事はなかった。
「まあでも、理屈は分かる。どうせ後であの時奢ってやっただろうって言われるなら、そのあの時を最大火力にしておくって考え方だよな」
「でもぼくは、高価い料理よりも美味しい料理が食べたいなあ」
「案ずるな、弟よ。1周目にメニューの端から端まで制覇すれば、2周目に美味い料理だけを選んで食べられるぞ」
終の発言は一見すると理に適っているようで、よく考えると財布と胃袋の両方に対して攻撃的だった。はゆっくりと瞬きを一つする。
「それ、途中で誰かが食い倒れる前提よね」
「いや、ローテーションを組めばいけるって。前菜担当、メイン担当、デザート担当で分業すれば」
「駅伝か何かかしら?」
「バトンがフォークになるだけだな」
始が呆れがちな顔で補足し、余がぱっと顔を明るくする。
「それならぼく、デザート担当やりたい」
「立候補する行動力は評価する、ただし、デザート担当は競争率が高い。争奪戦になるぞ」
「待ちなさい、そもそもその制覇前提の作戦、誰が許可したの」
「え、姉貴じゃないの?」
「そんな許可出すわけないでしょう」
「じゃあどうするんだよ、作戦なしで突っ込むのか?」
終の問いに、は軽く息を吐き、わずかに口元を緩めた。
その表情は、ここまでの混沌を一旦まとめる指揮官のそれに近い。
「高価そうな料理は最初に言い出した続に任せなさい。私は美味しそうな料理にのみ標的を絞るわ。流れに身を任せてその場で最適解を選び取る……ただし、最適解が高い肉になる可能性は否定しない」
「姉さん、それは作戦なのか?」
「いいえ。ただの宣言よ」
は言い切った後でこれで話は完結とでも言うようにほんの僅かに顎を引いた。会議でいうのならば議事録が閉じられ、あとは各自で善処してくださいと丸投げされるフェーズに入っている。
終は口を開きかけて、閉じた。議論の余地がないと判断したときの人間は、だいたいこういう動きをする。対して余はきょとんとしながらも、どこか楽しそうに状況を見ており、こういう混沌は嫌いではないらしい。
始は各々が好きにすればいいという放任から無言を貫き、続はと言えばに反発するかと思いきや、壁にもたれたまま高価そうな料理という曖昧で巨大なターゲットに照準を合わせ始めていた。
沈黙が一拍。
次の瞬間、終が小さく肩を竦める。
「じゃあおれは量で攻めようかな。全種類制覇は難しいかもしれないけどさ」
「チェコ料理もスロバキア料理もシンプルで素朴、ボリュームは満点だから、飽きないようにだけ気を付けなさいね」
「その点については心配無用!」
終がそう答えた時、時計は5時前を指した。タクシーに乗り込む時間が迫っている事を自覚した5人は玄関へ足を向け、玄関ホールの大きな鏡の前で履く機会が著しく乏しい靴を並べる。その最中に、始がぼやくように呟いた。
「しかし、ウォーターフロントってのはどうも鬼門だな。先日のフェアリーランドの件があるし……」
「でも、行ったらいきなり機動隊に包囲されるって事もないでしょう。たとえ包囲されたところで、何ほどの事もありませんよ」
続の言葉は軽いが内容は軽くない。しかし玄関ホールの空気は変わらず、誰も深掘りしない辺りが竜堂家らしかった。
は鏡越しに自分達5人を順に見渡す。装いは整っている。問題は中身だが、それはいつものことだ。
靴音が1つ、2つと重なり、床に小さなリズムが生まれる。扉を開ければ、蝉の声がどこかから流れてきた。
「でもさ、もし機動隊が来たらどうする?」
「その時はその時よ、マスコミが来る前に迅速に片付けましょう。明日の朝刊に、中野区の5姉弟、夕食前に包囲される、って馬鹿みたいな見出しが踊らないようにね」
「それはそれで歴史に残るね」
「残り方が嫌過ぎるだろ。もうちょっと愉快な方向性が良いなあ」
余は新品に近い革靴で終に続き、年長組が更にゆっくり2人を追う。
玄関の外に出ると夕方の光がじわりと肌に纏わり付いた。昼の熱と湿気を引き摺ったままの空気は、いかにもこれから夜に移行しますと言いたげだが、そのわりに往生際が悪い。
タクシーはまだ来ていない。予定通りと言えば予定通りだが、この数分が妙に長く感じるのは、きっと全員がそれぞれ別の意味で落ち着かないからだ。
終は一歩先に出て、玄関先の段差で軽く背伸びをした。普段と違う靴のせいか、微妙に重心が定まらない。
「まあ、機動隊は置いておくとしてさ、仮に何も起きなかった場合が一番厄介だよな」
「何が厄介になるんだ」
「肩透かしで終わると、後で必ず纏めて来る」
軽口のようで、しかし否定出来ない三男坊の言葉に、年長組は視線を交わしてから各々の表情でそれを肯定する。
は小さく息を吐き、指先で髪を整える。外に出てしまえばもう後戻りはない、とはいえ、引き返す理由も特にないのだが、こういう時に限って矢張り止めておけばよかったという選択肢が頭の隅でひっそりと息をしているのが厄介だった。
この一歩で、今日という日が少しだけ輪郭を持つ。予定は夕食会、目的は食事、しかし実態はそれだけではない。大体の場合は何かが起き、その何かは往々にして面倒臭い。
だからこそ、軽口が必要だった。
「いい? 今日はあくまで御馳走になる日よ。必要以上に暴れないこと」
「必要な分ならいいのか?」
「定義が難しいわね」
「じゃあ基準は?」
「私の気分」
「雑だなあ!」
終の声に笑いが混ざる。
その時、通りの向こうからタクシーがゆっくりと近付いて来るのが見えた。タイミングとしては申し分ない。むしろ出来過ぎているくらいだ。
タクシーが目の前で静かに止まり、ドアが自動で開いた。それぞれが一歩ずつ、順番も特に決めずに乗り込む。足並みは揃っていないのに不思議とばらけない、こういう所が妙にスムーズなのが竜堂家の仲の良さを窺わせる。
シートに腰を下ろすと外の熱気がガラス越しに切り離され、エンジンの低い振動が足元から伝わって日常から少しだけ距離が生まれる。窓の外で、見慣れた街並みが後ろへ流れて行く。さっきまでいた玄関先ももうどこにも見えない。
車内には、少しだけ静かな時間が落ちた。
それは嵐の前の静けさというほど大袈裟なものではなく、ただの移動中の間でしかない。会話はまたすぐに再開されるし、きっとくだらないことで盛り上がる。
ただひとつ確かな予感は、この先に待っている夕食が、ただの夕食では終わらないだろうという事だった。
タクシーは速度を上げ、5人を夜の方へと運んでいく。