夢見る者さまざま
夏の終わりはまだ遠いはずなのに空気だけが妙に先を急かし外では蝉が余白を埋めるかのようにこれでもかと鳴いていて、世界がやたらと元気過ぎる印象を植え付けてくる。その喧騒から一歩だけ距離を置いた場所に竜堂家の書斎はあり、はその書斎の扉を前にして腕を組んでいた。
腕を組む行為についての理由は特にない、強いて挙げるのならば、ただなんとなく現場検証のような気分だったからである。
中からは紙の擦れる音、そして時々、独り言。完全に単独行動で迷子になっている人間の音だった。
は組んでいた腕を戻すと軽くノックをする。返事がないのは想定内なので一欠片の躊躇いもなく扉を開けると、予想通りの光景が広がっていた。
机の上に原稿。床にも原稿。椅子の上にも、何故か原稿。そしてその中心に、原稿に埋もれかけている双子の弟。彼女の視界にはもはや整理ではなく紙の海難事故、あるいは整理という言葉に対する一種の反抗声明が広がっていた。
は一歩だけ中に入り静かに状況を観察した結果、助ける前に一度笑っておくべきだと判断を下す。
「遭難ごっこでもしているのかしら?」
誂い混じりのの言葉が耳に入ったのか、始は茶色く変色した原稿から目を離しゆっくりと顔を上げた。その動きが深海から浮上してきた何かのように見えたのは、多分気のせいではない。
「整理をしているんだ」
「書斎にいるついでに整理って言葉を辞典で引いてみたら? 散らかして積む事って書いてあったら謝ってあげてもいいわ」
「分類してる途中だから多少は散らかっているかもしれないが……」
「手近な場所に置きたい気持ちだけは理解するけど、これは多少とは言えないわよ」
足元の原稿を避けながらは部屋の中を歩く。紙の一枚一枚に祖父の字が詰まっていると思うと踏まないように気を遣うべきなのだろうが、現実問題として踏まずに移動するのはほぼアスレチックだった。
持ち前の長身と運動神経を発揮して原稿を踏む事なく始の近くまで辿り着いたは机の端に腰をかけようとして、そこにも原稿があることに気付き、やめた。代わりに再度腕を組んで書斎全体を見渡す。
乾いた過去を閉じ込めていた引き出しを開けて、舞い上がった古い空気が埃と共に辺りに漂い、遺稿の束は始を中央に据えた山を築きながらその端を少しだけ崩していた。扉を開けた事によって流れ込んだ風が紙の端を僅かに揺らし、祖父の書いた言葉達が、まるでまだ息をしているようにさざめく。
「ねえこれ、本当に分類してるのよね?」
「してるだろう」
「敢えて訊いてあげるわ。どこが?」
「ジャンル分けをしているんだ。右半分が教育論、左半分が日本・中国関係論、手元のものが紀行文、奥が近代中国文学研究、それに……」
「詳細はそこまでで十分よ。で、その足元に広がってるのは?」
が視線だけで床を指した先には踏み場を奪っている紙の群れが思い思いの姿で鎮座しており、ジャンルという概念から完全に解き放たれていた。
姉の指摘に始は一瞬だけ言葉に詰まり、視線を泳がせる。
「……保留だな」
「便利な言葉ね。全ての混沌を包み込む優しさがある」
「まだ分類しきれてないだけだ」
「それを世間では混沌って言うのよ」
始は反論しかけて、しかしすぐに口を閉ざした。の指摘が的確だった事と、そもそも自分が何をしていたか思い出したからだろう。
整理とはつまり分類である。そして分類には基準が必要だ。その基準をどこにするかで迷いが生じ、結果、この惨状が生まれたのだ。始は軽く頭を振ると、椅子から立ち上がり、そしてそのまま床に片膝を付いた。
が見ている前で原稿の束をひとまとめにし、それを更に別の山に乗せる。その山を別の山の上に載せる。その山も、という具合で、始は紙の塔を少しずつ建築し始める。整えている、というより、整えようとしている動きであった。
対してはしゃがみ込んで、一枚の原稿を拾い上げる。見覚えのある筆跡。祖父がまだ生きていた頃に何度も目にした文字は、所々が掠れ、所々が妙に力強い。その癖に、いま目の前にあるそれは少しだけ他人行儀に見えた。
「これ、教育論に見せかけた紀行文とかじゃない?」
「それはないだろ」
「『杭州にて教育の本質を思う』云々書いてあるけど」
「……あるかもしれないな」
は紙をひらひらさせて笑う。
どうやら祖父はジャンル分けに対してかなり自由な思想の持ち主だったらしい。
「つまりこれは、ジャンル分けするほど増えるタイプのやつ」
「分類は必要だろ」
「うん、その結果がこの紙の海ね」
「途中だと言っている」
「途中で沈没してるけど」
は改めて部屋の中をぐるりと見渡すと、やはりそこには混沌があった。分類しきれない原稿の山と、それを整理する弟の手つき。それはまるで時間そのものを分類しているような作業だった。そのに倣って始は周囲を見渡す。
机、床、椅子、そして自分の周囲。どこを見ても紙が広がっている。
数秒の沈黙の後、彼は静かに結論を出した。
「一区切り付けるよ」
「あら、ようやく判断力が人間並に回復したようね」
「最初から人並みのつもりなんだが」
「ちょっと怪しかったわよ。深海生物寄りだった」
は軽く肩を竦めてから、もう一度だけ足元を確認した。確認したところで安全地帯が増える訳ではないが気持ちの問題である。実際、この部屋では気を付けるという行為そのものが一種の儀式に近い。祖父の字で埋め尽くされた紙の群れは整えられようとして整えきられずに、ただそこにある。過去の時間を切り分け分類するつもりが、逆に絡め取られているような不思議な圧迫感があった。
「ちなみに、どこで区切るの?」
「この山を一つに纏めたら」
始は机の右側にある比較的整った原稿の束を指す。少なくとも整理と呼べる形状を保っているのはそこだけだった。
はその方向を見て、それから足元を見た。まだ名前のない断片達が祖父が遺した言葉を当時のまま留めている。
「そこに辿り着くまで、あと3回くらい遭難しそうだけど」
「大袈裟な」
「そうかしら、現実的よ」
彼女の双子の弟は同年代と比較すると速読であるが、それ以上に書痴である事は自他共に認めるところだった。
始は、片付けながらも祖父が書いたものを読みたいのだ。だから彼の言う一区切りは大抵区切りにはならない。山に辿り着くまでの途中で気になる一枚に出会い、立ち止まり、読み込み、気付けばその周囲に新たな未分類という名の山脈と海原を築く、それを何度か繰り返した結果が今この光景だった。
そしての懸念通り、始は既に手元の原稿に目を落とし視線で文字を追っていた。先程までの会話がなかったかのように、自然に、まるで呼吸の延長のように紙の上に綴られた祖父の言葉を脳に送っている。
はそれを見て小さく溜息を吐く。彼女と始は生まれる前からの付き合いなのだ、行動の予想は容易く、最早怒る気にもならない。
「ねえ、お祖父さん、これ全部書いたのよね」
「そうだな」
「よくこんなに溜めたって思わない?」
「溜めたというより、残ったんだろう」
原稿に目を向けたまま始の声は淡々としている。その言い方はどこかで線を引いているようにも聞こえた。
「……じゃあ、これ、全部片付いたら、ちょっと寂しくなるかもしれないわね」
言った後で、少しだけ可笑しくなりは笑う。こんな状況でそんな感想が出る自分が、少しだけずれている気がしたからだ。
始は答えず、代わりに視線を上げて近くの原稿を一束、きちんと揃える。紙と紙が擦れる音が静かに重なり、そしてまた静寂が訪れる。ここで気の利いた言葉を選べないのが竜堂始という男であることをは知っていたので静寂を静寂のまま受け止め、自分の内側に降り積もった感情をそっと払い落とした。
その静けさは、しかしすぐに破られる。次男の続が扉を叩いて来訪を告げ、困惑とも皮肉ともつかない表情で現れたからであった。
「兄さん、いますか。おや、姉さんもいたんですか」
「始に用があってね。なんだか嫌な空気を感じるんだけど、その封書は?」
「叔父さんからの招待状です。8月3日、つまり明後日にね、ぼくを赤坂のレストランに招待してくれるそうです」
「そいつは結構な事じゃないか」
「断りなさい」
正反対の反応をする双子の姉兄を見て続は肩を竦めてみせた。面倒な予感がするが、それでも行けばいいと軽口を叩く兄と、だからこそ行くなと即応する姉の返事は彼の予想の範疇だったようだ。
ひとまず、彼は普段の優先順位通り、始への返答から行う。
「本当にそう思いますか、兄さん?」
「思うね。まさか靖一郎叔父が、料理に毒を入れもしまいさ」
精々高いものを奢らせてやれよ、と口にした始に続は微笑む。
「じゃ、一緒に行きましょう、兄さん」
「うん? どうしておれが」
「だって招待状はあと4通来ているんですからね。はい、これが兄さんの分です。それで、姉さんはどうしますか? こういうのは大抵、食事そのものより話が本体ですからね。情報を引き出すのなら頭数が多いに越した事はありませんが」
「家族全員か……それなら、わたしも行くわ。それと、始は一度手を止めて話を聞く態勢を整えなさい」
姉の返事に続は招待状を差し出し、は渋い表情でそれを受け取った。そこに書かれているのは日時と場所、そして差出人の名前である。鳥羽靖一郎と冴子夫妻連名ではなく、靖一郎単独の招待だった。
「さっきまで叔母様に会っていたんだけど、そこで興味深い話を聞けたわ。一昨日、保守党参議院議員の紹介状を持った女性が共和学院に1000万ドルの寄付をしたいと申し出て来たの。しかも、既に寄付の一部として25万ドルの小切手が切られてる」
「景気の良い話、の一言で片付けられない大金だな。寄付金の出処は?」
「マリガン国際財閥」
の口から出た名前に始と続は思わず顔を見合わせる。アメリカの政界、財界、軍部を支配する大財閥の連合、四人姉妹の中でも上位に位置するマリガンが、共和学院を支配する為だけに日本に現れたとは到底考えられない。
ここ数ヶ月に起こった状況と情報を総合すると標的は間違いなく竜堂兄弟であり、共和学院や靖一郎は謂わば踏み台に過ぎないと考えるのが妥当な思考だろう。ダミー団体すら噛ませない辺りに四人姉妹の絶対的な自信が窺えるが、相手が市井の人として暮らす五人姉弟なのだからその自己評価と姿勢はむしろ正しい。
「だが、叔父さんもそんな自慢をする為だけに態々赤坂まで招待するか?」
「まだ終わってないわよ。マリガンから派遣された女性、パトリシア・セシル・ランズデールと名乗ったらしいけれど、彼女、続に興味があるらしいの」
「それはどういう意味での興味ですか?」
「分からないわ。叔母様の話では、茉理に一個人の男性として続をどう思っているか聞いた事があまりに唐突で不自然だったらしくてね、叔父様の秘書に尋ねたら、ランズデール女史は続に興味があるとはっきり言っていた、との事よ」
「笑えない話ですね」
続は不愉快そうに呟き、そして始を見る。しかし彼は弟の視線に気付かず、ただ眉を顰めて考え込んでいるようだった。
敢えて敵の懐に入り込み情報を手に入れるべきか、それとも今はまだ逃げるべきか、眉間に皺を寄せ視線はどこにも定まらないまま、しかし確実に内側へと潜っている。紙の山も、弟の不機嫌も、姉の視線も、いまの彼にとっては背景に過ぎない。
同じ様にも続も招待状を指先で軽く叩きながら思考を巡らせている。表情は渋いが完全に否定に傾いている訳でもなく、むしろ面倒だが無視するには惜しいという、あまり嬉しくない種類の感情が浮かんでいた。
部屋の中で古い原稿用紙が数枚、音もなく滑り落ちる。誰もそれを拾わず、その代わりに続が口を開いた。
「逃げる、という選択肢は現実的ではありませんね」
声は落ち着いているが棘がある。
「向こうがこちらに興味を持っている以上、接触を断っても別の形で来るだけです。場所と時間を指定してくれる分だけ今回の方が親切と言えますよ」
「親切ねえ。料理に毒を盛られた上に、消化に悪そうな空気になる未来が予知出来るわ」
「ぼく達に1mgでも毒を盛れるような度胸が備わっているのなら、叔父さんはお祖父さんの存命中から共和学院を乗っ取れたでしょうね。それよりも今回の問題は、誰と何を食べるかではなく、誰と何を話すか、でしょう」
その言い回しには少しだけ眉を顰める。続の指摘は言葉遊びのようでいて、本質を突いている。
始はそこでようやく顔を上げた。
「行くしかないな」
長い思考の割には短い結論だった。けれど、その一言で部屋の空気が僅かに締まる。
そう、僅かにだった。
残念ながらその緊張感は長くは続かなかった。理由は単純で、この部屋には緊張を長持ちさせるだけの余白がなかったからである。どこを見ても紙が目に留まり、しかも整然としていない。緊張が居座るにはもう少しばかり秩序というものが必要だった。
案の定、数秒後には机の端に積まれていた原稿の一角が、ゆっくりと、しかし確実に崩れ始めた。最初は1枚、次に2枚、やがて束になって滑り落ちる。音は控えめだが、視覚的にはなかなかの迫力である。
せっかく少しだけ引き締まった空気が、目の前で物理的に崩れていく妙な状況に3人はただ黙って原稿を見守るしかなかった。今更慌てたところでどうしようもないのだ。
結局、最後の一束が床に到達して軽い音を立てたところで、ようやく時間が再開する。
始は無言でそれを見下ろし、続はわずかに視線を逸らし、は小さく息を吐いた。
重苦しい話題と、あまりにも生活感のある崩壊現象の落差がなんとも言えない。先程の行くしかないなという決意めいた一言も、こうなるとどこか喜劇じみてくる。
敵が待ち受けているであろう赤坂の高級レストランよりも、まず目の前の紙の雪崩をどうにかするべきではないか、という至極真っ当な疑問が浮かび上がった。
マリガン国際財閥だの、四人姉妹から送られて来た刺客だの、赤坂での食事だの、どれも十分に面倒でな話題である。けれど、それらは今この瞬間、床に散らばっている原稿よりは遠い。
優先順位というのは、案外いい加減に入れ替わるものだ。始は拾い上げた紙を軽く揃え、机の上に戻した。戻した先も、決して安定しているとは言えない場所だったが、それでも戻したという事実だけは成立している。
深刻になりきれない、なる気がない。
どちらにせよ、この部屋にいる限りはどんな重大な話も一度は紙の山に足を取られる運命らしい。
家長が決定し、年長組は異論を唱えなかった以上、結論は出ている。行くしかない。
ただし、その前に、せめて足の踏み場くらいは確保してからにしたい。
そんな、あまり格好のつかない現実的な問題が3人の前にしっかりと横たわっていた。