曖昧トルマリン

graytourmaline

夢見る者さまざま

 畳の目が昼前の光を吸って淡く緑がかっている。障子越しに差し込む陽射しは未だ熱を帯びておらず揺れる風の葉擦れをそのまま白い薄紙の上に映しており、遠く近くで重なり合う風鈴の音がゆっくりとした時間の層を作っていた。
 土壁の際には座椅子がひとつ、軽く背を預けたが立てた膝を台にして英字を目で追っている。彼女が読んでいるのはアメリカの経済史に関する書籍で、脇に積み上がった塔を構成する本のタイトルも似たり寄ったりであった。
 扇風機の風が部屋の空気を左右に揺らし、その傍らでは数学の問題集を枕にした余が小さく寝息を立てている。開かれたままのノートには連立方程式や面積や角度を求める図形が乱れて並んでいて、筆記用具が座卓の上に転がっていた。
 は一度だけ弟を横目で見たが起こすつもりはなく、視線を戻して座椅子に座ったままページを捲る。静かに眠っている弟の顔はあどけなく、腕の中に収まる程小さかった赤ん坊の頃を思い出していると襖の向こうから声を掛けられた。
「姉貴、入っていいか?」
 他の兄弟に対しては返事を待たない以前に場合によっては扉を叩く手間すら惜しむ終も、姉が単独で部屋にいる場合は必ず入室許可を取る習慣を持っている。無論、異性であるを慮ってではなく、返事を待たず部屋に訪れた際に半裸のを正面から目撃した衝撃と直後に齎された鉄拳制裁という名の激烈且つ正当な躾が数度に渡って繰り返された学習の結果だった。
 家を離れた後も拳で叩き込んだ礼節を忘れなかったのは結構な事だと内心呟き英文に視線を落としたまま返事をしたは、終が入室して襖を閉める音を聞いてから顔を上げる。視線の先には、の元で余が勉強しているなどとは想像していなかったのか少し驚いたような表情をした終が一瞬目を見張った後で感嘆に近い感想を漏らした。
「姉貴の部屋で勉強中に寝るとか、ほんと大物だよ」
「甘えているんでしょう、姉冥利に尽きるわね」
「それで姉貴は弟馬鹿だよなあ」
 隣で眠る末弟に対するのしみじみとした感想を聞いて終は誂うように笑う。しかし馬鹿にしたような様子は一切なく、むしろ慈しむような瞳には彼本来の性根の優しさを見て取り、座布団を勧めると終は遠慮無く腰を下ろしつつ興味深げに周囲を見回した。
 整理整頓がされた部屋の中で若干浮いている本の塔に目を留めた終はに一言断ってから一冊手に取り、表紙も中身も英語で構成されている事を確認すると内容の理解を諦めて元の位置に積み直す。
「姉貴も勉強中だった?」
 辞書を開かずとも書籍から漂う雰囲気から娯楽小説の類ではないと判断したらしく、終の言葉は質問よりも確認の色が濃かった。事実、によって集められた本の全てがとある財閥に関する実用書や専門書であったので、区切りのいいページに栞を挟んでから肯定する。
「そうね、アメリカで出版されている四人姉妹に関する本よ」
「ああ、小森のエロジジイが言ってた」
 兄達も日本で出版されている四人姉妹に関する雑誌や書籍を幾つか購入していたなと終が最近の記憶を探りつつ、同じ路線で調査しない辺りがこの姉だと納得していると、不意にが口を開いた。
「そういえば、その小森だけど、具体的にはどんな資産を燃やしてやったの?」
「まず現金だろ。で、次に不動産の権利書、国債と株券、預金通帳だったかな。時価数十億円のキャンプファイヤーは結構見応えあったぞ」
「数十億円? いいところ、数千万円から数億でしょ」
 一体何を言っているのだとばかりには怪訝そうな表情を浮かべ、終は折っていた指を開き何かまずい事を口にしてしまったのかと己の言動を省みる。
 四人姉妹との関わりがありそうな情報を深堀りしなかったからか、とも考えたが、小森のような下っ端の小物の更に末端のような年寄りが敵対勢力の重要な情報を握っているとは考え難いし、そもそもその手の尋問は年長組の役割であるというのが竜堂家共通の認識なので終に対して放つ言葉ではなかった。
 無言のまま思考を巡らせている弟のその考えを表情で読み取ったは、例えば、と言いながら畳を指先で叩く。
「アンタの所有する日本銀行券を、わたしが根刮ぎ燃やしたとしましょうか」
「そんな殺生な」
「まあ聞きなさい。なけなしの小遣いを燃やされたアンタは復讐としてわたしの通帳を燃やして、その事を知ったわたしはアンタの通帳を燃やし返す」
「姉貴、おれに何の恨みが……」
「いいから聞きなさい。この場合、アンタとわたしが銀行に預けているお金はどうなってしまうのかしら? 無一文になると思う?」
「……ああ、成程」
 銀行そのものが潰れた訳ではなく、口座も無傷なのだ。不慮、過失、故意のいずれにしろ預金通帳を紛失しただけならば所定の手続きに従って再発行すればいいだけのことである。そもそも人間という生き物はうっかりその手の書類を破損する事がままあるので、本人が存命である限り銀行側にも手続きの準備が予め整っていた。
 そしてこの条件は預金通帳だけに当て嵌まらない。書類はあくまで紙とインクで構成された物に過ぎず、不動産の権利書、国債、株券を燃やしたところで契約情報が記載された物体が灰になっただけであり実際にそれらを保有する権利を失った事にはならない。
 昨夜の小森自身も場の雰囲気に飲まれ茫然自失としていたが、今頃正気に戻って部下か秘書か弁護士辺りに必要な書類の作成を命じているに違いない。若い女に現を抜かす性欲に塗れたどうしようもない男であろうとも石油の直輸入を成功させ元売業者の会長にまで昇り詰めた実力はあるのだから、その程度の指示は片手間で済ませられるだろう。
「って事は、あのエロジジイ、現金だけで済んだのか」
「国債に関しては記名国債しか再発行出来ないから断言は出来ないけど……この辺りをちゃんと考えていない年長組の再教育は諦めてるから、終、アンタがしっかりしなさいな」
「嫌がらせの為に見識を深めろって推奨する姉は弟に悪影響だと思うなあ。そもそもおれ、投資とかする予定ないし」
「それと、当然アンタと余の間にある借用書をうっかり山羊に食べさせても借金そのものは帳消しにならないから心に留めなさい」
「な、なんでその事を……」
「貸与者当人から聞いたの。わたしとしてはね、アンタが借用したお金を全額わたしから余に渡して、立て替えた金額分をアンタから取り立てる方が圧倒的にスムーズな返済になると思うんだけど」
 返済の催促をしないどころか更なる借用すら二つ返事で認めてくれている天使のような末弟に代わり、税務署と闇金の執念を掛け合わせて煮詰めたような地獄の徴収を執行するであろう長姉が登場する未来を幻視した三男坊は会話を逸らす為の糸口を掴めないまま上下の唇を軽く離す。しかし、一言目が声に出る前に眠りの精から別れを告げられた余が眠たげな目を擦りながら起き上がり、半ば程度進んでいた数学のノートを閉じて小さな欠伸をした。
 この奇跡のようなチャンスを逃してなるものかとばかりに、終は余の隣に陣取って必要以上に明るく声をかける。
「余、起きたか。お前、勉強の途中なのに姉貴の目の前でよく寝られるな」
「おはよう、終兄さん。うん……でもね、数学の問題集を見ていると頭がぼうっとしてくるんだ。ぼくね、数式の羅列って入眠作用があると思うの」
「気持ちは分かる。なんかもう数学ってさ、分かるやつだけ分かれって顔してるんだよな」
「数式に顔はないわ」
「あるんだよ。俺には見えるんだ、高尚で生意気な手柄顔してる」
 数学が天敵という訳ではなく勉強そのものが全体的にうっすら好きではない終は余の寝惚けた感想に強い共感を示し、さりげなく話題を逸らしながら数式と睡魔を等号で結ぼうとする弟の姿を見たは呆れがちに溜息を吐いた。
「共和には夏休みの宿題はないけど、休暇明けのテストはあるんでしょう?」
「存在する事にはなってる。でもおれ、勉強に向いてない才能があると思うんだよな」
「我が家の三男坊は自然淘汰が人間にも当て嵌まるか否かの検証でもしているのかしら」
 嫌味の矛先は向いているものの普段通りと言っても差し支えない空気に、終は胸を撫で下ろす。勉学の件でお小言を頂戴するのは日常茶飯時であり、たとえの言葉だろうと終にとっては微風に等しい。明らかに分の悪い金銭の話題と比較すれば余が同席中の今の会話の方が遥かに楽であった。
 氷が溶け切っている薄い麦茶を口に含んだ余はというと、まだ2割程度が覚醒していない頭で兄を見て、子供の仕草で首を傾げる。
「終兄さん、夏休み明けのテストの目標も赤点回避なの?」
「当然。30点未満が赤点だから、30点狙いでいく」
「最低限の人生に必要な最低限感が著しいわ。最早生命維持ラインよ、それ」
「無駄を省きつつ赤点を回避する。それが竜堂終様の美学」
「努力のミニマリストだね」
「結果もミニマムだけどね」
 姉にも弟にも理解されない独自の美学を高々と掲げた終は辛辣な評価に耳を貸す事はなく胸を張った。だがその胸の張り方は誇りというよりは空気を入れすぎた紙風船のように頼りなく、溢れ出る自信からも今から何か言いますという予告編の成分を多分に含んでおり、は冷たくも熱くもない視線を向けながら終の言葉を待つ。
 麦茶を飲み干して体に水分を行き渡らせた余はそのままテーブルへグラスを置き、そのタイミングを見計らって、終は若干大袈裟な身振り手振りを交えて熱が籠もっているのかいないのか判断の付けられない口調で言葉を並べていった。
「いいか、余。満点を取る為には全教科の1学期分の範囲を全て復習する必要が出てくる、これは労力に対しての効率が非常に悪い。だが赤点を回避するだけなら、必要な知識は限定される。つまりおれの作戦は戦略的撤退ではなく、戦略的生存だ」
「それ、言い方を変えてるだけで普通に逃げてる気がするなあ」
 空になった麦茶のグラスから滴る水滴に手を濡らした余が遠慮なく核心を突いた。窓の向こうで鳴く蝉の声が、終の理論と同じくらい頼りない揺らぎを見せる。
「いいや、逃げじゃない。これは最適化だ。考えてもみたまえ、決められたゴールに向かって満点狙うとか虚しい人生だろ。それに上ばかり見ていたら足元を掬われる、下限を攻める限界への挑戦、これこそが人を人たらしめる重要な要素だと思う」
「最低限で構わないって考えは最低限の未来しか呼ばないわよ、選択肢は広げるべきね」
 の展開する短い正論を受けても終は窮する事なく、厳かに独自の合格ライン理論を展開した。
「いいかね、諸君。勉強嫌いにとってテストとは、赤点ギリギリを取るための戦略ゲームとでも捉えなければ苦しみから解放されないのだ」
 終の語り口はどこか講義めいていて、本人の中では既に一つの体系として完成しているらしい。机上の空論でありながら、妙な自信と勢いだけは一人前で、聞く側に反論の余地を与えずそれっぽさを纏っているのが厄介だった。
 はそんな終の様子を、呆れと観察が半々に混じった視線で見つめる。論理の筋は通っていないのに語りのリズムだけは妙に整っているせいで聞き流すのが勿体なく、つい合いの手を入れたくなってしまっているのだ。
 一方で終は、自分の言葉に自分で納得しながら話を進めている節があった。勿論反論は想定しているが、詭弁だとは理解しつつも結論を据えた上で、その理由を後付けしていくような語りである。結果としてその理論は、どこかで聞いたような言葉と都合のいい解釈を巧みに継ぎ合わせた、歪だが妙に関心を引く構造を成していた。
 もっとも、それが現実の点数にどれほど寄与するのかはまた別の問題であり、幾つもある死角の一点をは突く。
「戦略ゲームと銘打っている割にはチャートが甘過ぎないかしら。玄人は全部完璧に埋めてから比較検討して取捨選択するものだと思うけど?」
「終兄さんってゲームでいうと、最低限クリアだけしてサブクエ全部無視する人だよね」
「それこそ素人の意見だと言わざるを得ない。まず、テスト範囲を全部勉強するのは凡人、おれは出る確率が高いと踏んだ問題だけをやる。これが玄人の選抜方式」
 人はそれを山勘と呼ぶのではないかしらと余は思いつつも、気の優しい彼は口を閉じて選挙演説じみてきた兄の言葉を大人しく拝聴する道を選んだ。だからこそ、というべきかは分からないが終の弁舌は留まる事を知らず、若干の熱を帯びていく。
 対しては呆れを通り越した半眼で、終の美学が如何なるものであろうとも同意する気は端からない。そんな姉の心、弟知らずな三男坊の言葉は淀みなく流れる。
「古の哲学者曰く、無知の知とはよく言ったもので、人間というものは自分が無知だと知ればこそ謙虚に学び続ける事が可能であり、その姿勢こそ人間が人間たるべき唯一の道であるとの事である。この謙虚さこそが、人間にとって最も尊い美徳である。おれはそう信じてやまない。そして、それは事実であると確信している」
 だからこそ、その謙虚さを胸に彼はテスト勉強をしないと宣言した。
 余は兄の熱弁に対して無邪気な拍手で応え、は口はそこそこ達者な弟の様子を観察する事にしたようだった。
「テスト勉強とは何か? それは自分が無知だと知る事であり、その無知を自覚する事で人間は謙虚に学び続ける事が可能となり、ひいてはより良い未来へと至る事が出来るのだ。おれはこの無知を学び続ける姿勢こそ人間が人間たるべき唯一の道であると信じている」
 一呼吸を置いて、終は厳かに主張した。
 だが、当然ながらも余も感銘を受けた様子はなく、特には凪のように穏やかでありながら、それでいて波音を打ち消す渦潮のように重い溜息を吐いた。
「アンタの主張は大変に結構な事だと思うわ。でもね」
「でも?」
「その理屈、都合のいいところだけ抽出されているのよ」
 実際に何かが割れたわけではないのに、終の中のどこかが小さくひび割れる。
「え、どこが」
「全部よ。無知の知は『だから学ぶ』に繋がる概念であって『だから何もしない』に着地する思想じゃないわ」
「いやでも、無知を自覚するって事は重要だし……」
「ええ、とても重要よ。自覚して満足して終わるなと言っているだけ」
 だけと言うの言葉は軽いのに着地が重く、まるで紙飛行機に見せかけた鉄板だった。余はそんな姉と兄のやり取りを見て黙って傍観に徹している。
 それは無知の知を主張する終に共感したからではなく、事なかれ主義による消極的肯定でもなければ、竜堂家の家訓に従い口を挟まない訳でもない。ただ単純に、が何を言わんとしているかを理解しているからだ。
 彼女は弟の主張に対して一石を投じる為に言葉を選んでいる。その姿勢は真摯で誠実だ。
「他にもね、終。ここに100問の問題があるとするでしょう。そのうち30点分だけ当てるために絞って勉強するのと、60点分理解しておいて結果的に30点でも取れる状態、どちらが安定すると思う?」
「……後者」
「ええ、そうね。前者は全て当たらなければ勝てない、後者は半分までなら外しても致命傷にならない。これが戦略よ」
 余が成程と小さく頷く横で、終は腕を組んだまま微妙な顔をする。
「でもそれ、結局勉強量増えるだろ」
「増えるわね」
「ほら見ろ、非効率だ」
「効率のスパンが違うのよ。アンタはその1回のテストでの効率しか見ていない、でもわたしは今後のテストを含んだ効率を見ているの」
「……あ」
 終の口から、ぽろっと間の抜けた音が漏れる。それは、彼が自分の主張が如何に一面的で偏狭であったかを自覚するに至った音であり、同時に、の論旨に理解と納得を得た証左でもある。
 そして、そんな弟の反応を見て、姉は満足そうに微笑んだ。
「一度理解したものは、次に似た問題が出た時に低コストで解ける。勉強したけど出なかった問題だって次に出てくる可能性がある。つまり、最初に少し多めに投資することで将来的な負担が減るのよ。学年末とかにね」
「サブクエスト回収したらメインクエストの後半が楽になるやつだね」
「そういうこと」
「くそ、ゲームで例えられると納得しちまう」
 終は頭を掻きながら大袈裟に視線を逸らした。その仕草が、彼が自分の非を認めた行動だと分かっているは、内心で小さく笑う。横では余が麦茶を飲み干したグラスを両手で弄びつつ、兄と姉のやりとりを半ば娯楽のように楽しんでいた。
 終は態とらしく咳払いを一つして、なんとか体勢を立て直そうとする。しかし状況は、既に転んだ後に今のは準備運動だからと言い張る人間のそれに近い。
「いや待て、俺の理論だって完全に間違ってるわけじゃないぞ? ほら、あれだ……短期決戦型というか、瞬間火力特化というか」
「言い換えれば、持久力ゼロって事ね」
「ボス戦でMP切れて通常攻撃しか出来ないタイプだね」
「姉貴も余も容赦ねえな!」
 終は座卓を軽く叩いて抗議するが、その音は妙に軽く、反論としての威力はなかった。
 終は、自分が勉強嫌いである自覚はある。彼はただ、勉強をするという行為に意味を見出せないのだ。そして、その無味乾燥で面白みのない行為を好き好んでやろうとする人間の気持ちも分からないし理解するつもりもない。終にとっての勉強は、せいぜいが学生生活における暇潰し以上の価値を持たない代物だった。だからテスト前に詰め込むだけで、それ以外の時は放置するし、そもそも試験前であっても教科書を開く時間は最低限に留まっている。
 その姿勢でも、彼の人生において大きな問題も起こらず、また彼自身が何か致命的な失敗をすることもなかった為、今日まで続いてきている。だがそれは同時に、勉強という行為に対しての無味乾燥な印象を補強する結果となっていた。
 しかし彼の保護者たるは、はいそうですかと一言で済ませる訳にはいかない。彼女とて満点を取れと言うつもりはないが、毎回のように赤点スレスレを低空飛行しているからこそ弟に対して誂いながらも諭すような口調で語るのだ。
「でもさ、終兄さん」
 余が少しだけ真面目な顔で続ける。
「毎回テストの度に今回はどこ出るかなって考えるのは結構疲れそうだね」
「しかも外したら即死判定よ」
「だったら満遍なく勉強した方が精神的には楽だと思うなあ」
「ぐっ……」
 終は小さく呻いた。じわじわと追い詰められる感覚は先程までの勢いのある反論とは対照的で、まるで逃げ場のない詰め将棋のようだった。だが、それでも彼は諦めない。
 終は最後の抵抗とばかりに口を開く。
「じゃあ逆に聞くけどさ、理解したとしてそれ全部覚えてられるか? どうせ忘れるだろ」
「忘れるわね」
「忘れるね」
「ほら見ろ!」
 一瞬で息を吹き返した終に、は静かに続ける。
「でも思い出すのは早くなるのよ。一度理解したものは、完全に消えるわけじゃない。痕跡が残るの。だから次に触れた時、ああこれかって戻って来れる」
「セーブデータみたいな感じ?」
「良い例えね」
「……成程なあ」
 終は今度こそ、はっきりと納得した顔をした。腕を組んでいた力も抜け、上がっていた肩が少しだけ落ちる。
 傍から見ると少し落ち込んだようにも感じられる仕草だったが、その終の口から出た内容は存外ポジティブなものであった。
「じゃあ俺、今まで毎回ニューゲームで挑んでたってことか」
「しかも難易度ハード固定ね」
「縛りプレイ好き過ぎない?」
「縛りプレイこそ人生の醍醐味!」
 半ばやけくそ気味に叫んでから、終は更に肩の力を抜いた。
「……でもまあ、分かったよ。ちょっとは理解する方向でやるわ」
「ちょっとね」
「保険かけてるね」
「いきなりフルスペックは無理だからな。段階ってもんがある」
 終はそう言って余の問題集を軽く叩く。さっきまでの面倒な敵を見るような目ではなく、どこか扱いづらいけど使えなくはない道具を見るような顔だった。
 その変化を見て、余は朗らかに笑う。
「終兄さん、結構情報に踊らされるタイプだね」
「無邪気と真理の剣で横から弟に刺された感想は?」
「ま、まだ致命傷じゃない」
「言葉に詰まってる時点で致命傷でしょう」
 終は数年前に学んだはずの問題集に視線を落として観念したようにページを開き、数式の並びをしばらく睨み付けた。だが、その視線は真剣というよりも、知り合いかどうか思い出そうとしている人のそれに近い。
「……なんか全部重要そうに見える」
「あら、ちゃんと覚えてるじゃない。重要である事が分かるのも勉強の結果よ」
 終は芯の出ていないシャープペンを持ったまま机の上でリズムを刻む。どうやら脳内でやる気という名のエンジンが暖機運転中らしいが、なかなか点火しない。
 その様子を見ていた余が、ふと首を傾げる。
「でもさ終兄さん、さっきから気になってたんだけど」
「なんだよ」
「その理解するの大変そうって顔、凄く慣れてるよね」
「慣れてるってなんだ」
「こういう場面、何回もやってる感じ」
「……まあ、そりゃあな。人生で何回テストあると思ってるんだ」
「なのにそのスタイルなんだね」
「うるさいな」
 兄の反応に笑いながら、余は少しだけ身を乗り出した。
「ちなみに今まではどうやって勉強してたの?」
「机に向かうのは1日30分まで。それ以上は脳が疲れて吸収効率が落ちる」
「この間、勉強開始直後にお菓子食べてたよね」
「弟よ、それは崇高な儀式に他ならない。儀式の最中に5分だけ一極集中を行うと30点を取れるようになる上級者の技だ、くれぐれも漫画には手出ししない自制心が重要なのだ」
「アンタが25分食べ続ける量のスナック菓子って何袋分なのよ」
「儀式の準備も含めてだからさ。まず小腹を満たす為にカップ麺を用意してお湯沸かして食べるだろ、これで10分。その後に口直しに甘いお菓子を5分かけて味わう。で、5分勉強したら、労いの儀式としてしょっぱいお菓子を5分で食べる」
「残りの5分は?」
「儀式の供物の選定時間」
 終は生真面目かつ凛々しい顔で答え、は額に手を当てて軽く首を振る。そして、そんな姉兄の様子を楽しそうに見ていた余は両手で頬杖をつきながら、ことの成り行きを見守る体制に入った。
 始やの長子組と三男坊の掛け合いは、これで結構面白いのだ。
「終、それは勉強じゃなくて食事の合間に5分だけノートを開いている人よ」
「違う、違うぞ。あくまで主軸は勉強だ」
「主軸が5分で、周辺が25分って時点で比率がおかしいのよ」
「効率重視の結果だよ」
「効率の定義が迷子になってるわね」
 に扱き下ろされようが終はどこ吹く風とばかりに更に理論を積み上げようとする。対してはというと、その理論を論破しようというよりは弟の価値観を知り諭すことの方に関心が向いているようだった。
「いいか、食事で脳にエネルギーを供給する。そして糖分と塩分のバランスを整える事で集中力を最大化し、そのピークの5分で問題を叩き込む。これはもう科学だ」
「その科学、論文は出てるの?」
「出てないけど体感はある」
「一番信用ならないやつじゃない」
「体感は大事だろ! プラセボ効果だって科学だし!」
「アンタの場合は眠いから寝るくらいの信頼度しかないのよ」
 の冷静な一刀両断を受けても終はまだ悪足掻きを続けたい様子で反論の糸口を探り、シャープペンの尻を軽くノートに打ち付けながら考え込むものの、言い返そうとすればするほど自分の理屈の足場が砂で出来ていることを自覚してしまいそうになる。
 こういう口の上手い所がと続はよく似ている、という明らかな失言は流石に飲み込み外を眺めると、窓の外では夏の始まりを告げるような風が木々の影を揺らしており、重なり合う風鈴の不規則な音と部屋の中に響く時計の秒針の規則的な音も相俟って昼下がりの空気を掻き混ぜながら思考をほどよく鈍らせ始めた。
 その恩恵を一身に受けたような存在である余は緩やかな空気に溶けるようにゆっくりと瞬きをして、こくりと船を漕ぐ。つい先ほどまで眠っていた名残が再び首をもたげ、意識の縁が少しだけ曖昧なようだった。完全に覚醒しているわけでもなく、かといって眠っているわけでもない、中途半端な意識の水面を漂っているような顔である。
「……余?」
 終が声をかけると、余はゆっくりと瞬きをしてから視線を戻した。その動きはわずかに遅れていて、まるで意識が一拍遅れて帰ってきたようである。
「なあに?」
「お前、なんかぼんやりしてないか」
「少しだけ、眠いかも」
 そう言いながら、余は小さく欠伸をした。熱気が完全に立ち上がる前の、空気そのものが微かに震えまどろみを誘うような夏の午前特有の淡い時間帯。窓の外では蝉が鳴いているのに、窓と障子を隔てるとその音すら子守歌のように聞こえた。
 勉強の話をしていたはずなのに、余の意識は明らかに別の場所へと滑り始めている。こういう時の余は無理に起こしても意味がないことを終は経験的に知っており、彼は弟の額に手を当てて小さく笑った。
「そういや、最近はどんな夢見るんだ?」
「月にいたんだ……ぼく達4人が。中国風の宮殿で、中国風の衣裳を着て、空に地球が浮かんでた」
「月ねえ」
 それだけ言葉にすると再び訪れた眠りの精に誘われて畳の上で眠ってしまった余を眺め、春先から急激に関わりが深くなりつつある天体の名称を口にした終はを見る。
 終にとって今までの人生の中で月と関わり合いがある事といえば秋のお月見ぐらいで、しかもや祖母が用意した団子や月見蕎麦、ファストフード店の月見バーガーにばかり気を取られ月もススキも碌に目に入れていなかった。
 規則正しい寝息が畳の上で小さな波紋のように広がる傍らで、の目はいつものように冷静でありながら、どこかほんの僅かだけ測るような色を帯びている。姉が先んじて口を開くつもりがないと悟った終は、ぽつりと呟くように会話のきっかけを投げた。
「……にしても、4人か」
「含みのある言い方するじゃない」
「だってさ、余がこういう夢の話する時って絶対姉貴いねえじゃん。余、平気そうにしてるけど不安なんじゃねえかな」
 そう語りつつも、終の口調はどこか自分に言い聞かせるようなものだった。
 余の見る夢、特に現代日本とは異なる背景を多分に内包する夢は、その全てにが出てこない。まるで最初から存在していないかのように夢の中の彼女はいないものとして扱われている。自身は昔から余が見させられている夢は誰かの干渉からなるそういう類のものなのだと言っていたが、弟達からしてみれば自分が生まれた時には既に姉であった存在がいないのだから不安を覚えるのも仕方がない事だった。
 そんな姉を眺めている終の脳裏に、四海竜王の四文字が浮かぶ。
 鎌倉の御前こと船津忠巌が言い遺した竜堂兄弟の正体がそれだとする事に、終は今更反発を覚えたりはしない。実際、ほんの数ヶ月前に余が黒竜に変じたのだから事実として間違いなく竜ではあるのだ。
 しかし、その竜の正体が四海竜王だと言われても終にはしっくりこない。終にとって自分達は竜堂家の五姉弟であり、竜王四兄弟ではなかった。
 終は自分達が人間以外だとしても構わないし、悩まないし、苦しむつもりもない。生まれついてのものを理屈で捏ねくり回したところで何かが変わるわけでもないとシンプルな思考で達観と楽観の双方を兼ね備えた彼は、兄弟が既に揃っているのだからあとは姉であるさえ夢に出て来れば完全無欠だと一人納得した。
「もうちょっと分かりやすい夢だったら良かったのになあ。月とか宮殿とかさ、スケールがでかい割に説明が足りないんだよ。夢で月に行くなら土産話くらい用意してあってもいいのに何も無いとか、親切設計ってもんがあるだろ」
「夢にユーザビリティを求めるのはやめなさい、と言いたいところだけど、同意するわ」
 呆れよりも笑いの成分を含んだの言葉が返って来たので終はやや意識したような弾んだ声で続ける。
「兄貴達とおれと余で月にいるならさ、せめて何してるかくらい分かって欲しいよな。観光なのか、仕事なのか、それともなんか……罰ゲームなのか」
「罰ゲームで月に送られる世界、嫌過ぎるわね」
「じゃあ、月で暮らしてたとか? 竜の住処なら竜宮城になる訳だけど……でも浦島太郎は海中の話だからなあ。おれ達がいたのは宇宙だったし」
「あら、そういう浦島太郎も存在するわよ。逸文だけど『丹後国風土記』に登場する水江浦嶋子は亀に化けた仙女に連れられて、夢と海を経由して天空に行くの。タイやヒラメの代わりにプレアデス星団とヒヤデス星団が出迎えるのよ」
「え、そうなの?」
「今度書斎で読んでみなさい、って言いたいところだけど、家にある『丹後国風土記』が収録されてる書籍って羽衣伝説の方しか載っていないのよね。ま、図書館に行く用事があったらついでに探してみなさいな」
 はそう言って肩を竦め、終は感心したような声を出した。しかしその感心の半分は内容そのものよりも、細かい話が淀みなく出てくる辺りに長兄と長姉が似たような面を持つ双子であるという事実を実感したからである。
 終にとって神話や伝説というのはフィクションとして楽しむものか、誰かが何か凄い事をして最後にそれっぽい教訓が付く話、くらいの雑な分類に入っている。だからこそ、が当たり前のように出典や星の名前まで挙げて語ると、それだけで妙に学術的な匂いがしてしまうのだ。彼の脳内では既にこの先難しい話ゾーンと書かれた札が立っており、その先に足を踏み入れようとは考えていない。
「まあつまり、浦島太郎にも空ルートがあるってことだな」
「随分と雑に纏めたわね」
「大体合ってるだろ?」
「否定はしないけど」
 は小さく息を吐き、間違いとも言えないためそれ以上は突っ込まなかった。終の理解は大雑把だが、最終的な着地点だけは掴んでいる事が非常に多い。
 姉に肯定された事で終はどこか満足げに頷き畳の上で眠る余を一瞥した。夢の話題はそれなりに広がったが結局のところ詳細は何も分かっていないのだ、そう割り切ると興味の熱は急速に引いていく。
 代わりに顔を出してきたのは、もっと現実的で、もっと切実で、そしてもっと彼らしい欲求だった。
「そういやさ」
「何?」
「さっきからずっと話してるから結構エネルギー使ってるよな」
「まあ、脳を使うものにはエネルギーが必要だからね」
「だよな。つまり今のおれは思考によるカロリー消費状態にあるわけだ」
「また変な理屈を組み立て始めたわね」
 の視線は冷ややかだが終は構わず続ける。むしろ、この程度の温度差は彼にとって追い風ですらある。
「でさ、さっきの話じゃないけど、脳を働かせた後には適切な栄養補給が必要不可欠だと思う訳だ」
「さっきの儀式をここで展開するつもり?」
「いや、あれはあくまで赤点回避用の簡易プロトコルだから」
 終は一度大袈裟に咳払いをし、姿勢を正した。その仕草はやけに芝居がかっていて、ここから本題ですと言わんばかりである。
 対してはその様子を見て、ほんの少しだけ眉を上げた。腹を空かせた三男坊が、どこまで理屈を積み上げてくるのかを観察するためである。
 終はゆっくりと息を吸い込み、いかにも厳かに口を開く。
「姉貴、今から『外食奢り交渉』を開始します」
「はいはい、聞くだけ聞いてあげるわ」
 は腕を組み、座椅子の背にゆったりと体重を預けた。声音は一定で淡々としているが、完全に突き放しているわけでもない。その聞く気はあるが期待はしていないという絶妙な距離感に、終は内心で小さく拳を握る。ひとまず、話は聞いて貰える大勢は整ったのだ。
「今回は論理と感情のハイブリッド戦法で挑む」
「へえ、実利路線なのね」
 終は態とらしく人差し指を立て、どこかで聞きかじったような横文字を口にする。姿勢だけはやたらと堂々としているが、説得力が伴っているかはまた別の話である。
 は興味深そうに、しかしどこか小馬鹿にした様子で続きを促す。その反応にやや怯みながらも、終は続けた。
「外食はおれだけじゃなく、姉貴とっての投資にもなるんだよ」
 それはまるで、大言壮語を語りながら身振り手振りで表現する道化師のような姿だった。だが彼は大見得を切った手前、もう止まることはできないのだ。
 終は机の上に軽く手を置き、言葉を積み上げていく。彼の中では筋が通っているらしく、語尾には妙な確信が宿っていた。
「じゃあ、その投資で何のリターンが得られるのかしら?」
 は間髪入れずに切り返す。声音は穏やかだが、問いの芯は鋭い。逃げ道を塞ぐように、真正面から論点を突いてくる。
「家で一番忙しいのは姉貴だろうし、時間と栄養を最適化したいはず。まず準備から片付けまでの行程を金銭で解決出来る外食は姉貴にとってもメリットが大きい。そして何より、おれが外食する事により、この家庭に温かさがある、という実感を持てる訳だ。しかもおれの笑顔には周囲への癒し効果がある。姉貴もストレス多いだろ? 外食するだけで、今日の疲れが取れる可能性が高い」
「わたしの癒しがアンタの胃袋に依存してるみたいに言うな」
「それとさ、姉貴も腹減ってるだろ?」
 終は自信に満ちた顔でに尋ねる。それは問いというよりも確認に近いものだったが、はそれに答えることなくただ小さく溜息を吐いただけだった。彼女の沈黙を肯定と解釈した終の表情はどこか得意げである。
「つまり、外食に行けば満腹になるだけじゃなく、おれが食べる=姉貴が癒される効果も付随する。これは実質プレゼントです」
「成程、新手の詐欺かな?」
「詐欺じゃない、純粋なプレゼントだって。しかも今ならなんと、おれの笑顔もセットで付いてくる。姉貴はおれが笑顔で感謝したら嬉しいだろ!」
「……まあね。それで? 結局何を奢れって?」
「えっ、今ので折れてくれたのか? どの辺が決め手だった?」
「正直、交渉内容は全然響かなかった。けど、わざわざ宣言してまで奢られに来ようとする根性に1食分の価値を見出したわ」
「よっしゃ、交渉成立! ありがと、姉貴!」
 終はガッツポーズを小さく作る。その仕草はどこか幼く、しかし同時に彼の持つ愛嬌が滲み出るものだった。ストレス緩和や癒しと呼べる程のものではないが、それでもが微笑ましいと笑みを溢すくらいには、概ね終の自己評価は正確であった。
「ただし、余のお昼寝が終わってからね。その間に行きたい店、決めておきなさいな」
「店はもう決めてある」
 まるでこの瞬間を待っていたかのように、終は間髪入れずに言い切る。その声音には先ほどまでの交渉の熱とは別種の、妙に具体性を帯びた確信が混じっていた。多少の迷う素振りすらなかったのは、元々終がの部屋に訪れた目的がこの外食交渉だったからである。
 どうやら今回の交渉は思い付きではなく事前に仕込まれたものだったらしい。先程の大仰な理屈も空腹に任せた衝動というよりは、ここに至るための前座に過ぎなかったのだろう。
 もっとも、その前座の出来栄えがどうだったかは別問題であるが、それでもは許可を出した以上は手の平を返すような真似はしなかった。
「それで、何処で何を食べたいの?」
「今日も暑くなりそうじゃない。暑い日には、暑い国の料理が一番いいんだぜ。『シヴァージー』のインド料理なんていいだろうなあ。あそこのナンは、えらく美味いんだ」
 終は既に味を思い出しているのか僅かに頬を緩めた。タンドール窯で火入れされた焼きたてのナンの香ばしさやスパイスの効いたカレーの熱気が、まだ口にしてもいないのに頭の中で立ち上っているらしい。
 はそんな弟の様子を横目に今日何度目かになる息を小さく吐く。だが、その溜息には先程までの鋭さはなく、どこか緩やかな温度が残っていた。そして畳の上では、余が静かな寝息を立て続けている。外では蝉の声が変わらず鳴いており、7月も明日で終わる夏の時間はゆっくりと流れていた。
 絵に描いたような、平和な日だった。
「分かったわ、書斎の連中にも伝えておいて。今日のお昼は外でインド料理、わたしの奢りだってね」
「了解!」
 終は元気よく返事すると、そのままの勢いで廊下へと駆け出していく。その勢いにつられたかのように、何処かで風鈴が一度だけ鳴った。それは夏の日差しと熱波を一瞬だけ忘れさせるような涼やかさだった。
 は畳の上に寝転ぶ余の姿を眺めながら、小さく笑った。
「ま、たまにはこういう日があってもいいわね」
 急ぐ理由はない。余が目を覚ますまでの間、ゆっくりしていればいいのだ。行き先はすでに決まり、あとはその時を待つだけという、酷く穏やかな時間を堪能しようと目を瞑る。
 終の計画は、多少強引で、論理はだいぶ怪しかったが、結果として一つの目的地に辿り着いた。そしてその過程すらも含めて、いつもの竜堂家らしい昼前の一幕として、静かに形を結んでいた。