オールスター登場?
「分割納付が嫌なら一括にすればいいじゃない」
「そういう問題じゃないんだが」
「高いとは思うけど住宅用地の特例措置を受けてるから相応の額でしょう。それとも節税の為にお祖父様が建てた家を取り壊して更地の上に新築にする? 何年かは建物にかかる分の税が半分になるわよ、わたしは反対したい案だけど」
「そういう問題でもない」
本当にこの姉は、と恨み言の一つでも吐き出す寸前の始をは無言で制し、テーブルの上に広がっていた封書と紙束をエプロンのポケットに突っ込む。
家長が払う気がないのなら長子である自分が支払うとでも言い出しかねない状況に始は腰を浮かせるが、それより早くの舌が動いた。
「なら、品のない舌打ち寸前の顔を今すぐどうにかなさいな」
涼しい音を奏でるグラスを始に差し出し、誰も座っていないソファの前に残りの2つを置いたは居間の窓を開けて、午後の日差しに焼かれる前の風を屋内に通しながら入り口を顎で指す。姉に促されて始の視線もそちらに向かうと、いつの間にか自室から下りてきていた末弟が改まった表情で廊下に立っており、遠慮がちに姉兄の顔色を伺っていた。
用意された麦茶が3人分だった事から余がかなり前から話しかけるタイミングを図っていたと気付いた始は慌てて表情と感情と姿勢を同時に取り繕い、頼れる家長というよりは優しい兄として10歳離れた弟を隣に呼び寄せる。普段から悠然としている余が神妙な雰囲気を纏う原因を、2人の姉兄は理解しているつもりだった。
「お茶請けも持って来る?」
「ううん、大丈夫。ありがとう、姉さん」
余を挟むようにして始と反対側に座ったは双子の弟と対峙した時とは似ても似つかない慈しみが溢れんばかりの声で話し掛け、短くそっかと納得の言葉を続けると若々しい頬を擽るように撫でる。
三男以上の弟達には中々見せないの母性溢れる愛情だが、だからと言って取り立てて振り撒いて欲しいと思った事もない始は白い指が膝の戻ったタイミングを見計らい深く穏やかな声で余を呼んだ。
「昨夜はどんな夢を見たんだ? 話してごらん」
気が塞がっている原因を言い当てた始に、余は素直な頷きで敬愛と信頼を示してみせてから一度を振り返り手を握る。力は込められていないが絶対に離さない意志が幼い手の平から伝わり、良くない類の夢を見たのだろうとも自分よりも小さな手をやんわりと握り返した。
元々余が見る夢は常識の範疇に収まらい事象であると祖父の司が存命である頃から長子組の共通認識であったが、それにしてはいつもと様子が異なるとあらゆる感覚から感じ取った2人は可能な限り重苦しい空気にならないよう保護者の顔に努め、何を言われても驚かないよう平静を保ちながら余の言葉を待つ。
「兄さん達とぼくの、4人だけ、中国風の衣裳を着てるんだ。いつか京劇で見たような、皇帝だか王様だがの、立派な服を着て、宮殿の中にいて、その宮殿がね、やっぱり……」
「中国風の宮殿なのかい?」
「そう、それでね、夜空に月がないんだ」
月、という縁起が良いとはいえない単語に双子はお互いだけが分かる反応をして一瞬視線を交わし、余と向き合っていた始が問い掛けを行った。
「月が出てないという事かい」
「違うんだ。月じゃなくてね、空に地球があるんだ。だから、きっと月に宮殿があってね、そこで4人で何か話し合っていたんだけど、内容は覚えてなくて」
ぼんやりと脳に染み込むような夢の話を引き出して覚束ない説明をしながら、ぼくがもっときちんと覚えていたらと囁きよりも小さな声を出す。しかし姉兄がフォローを行う前に、でもまだ覚えている事もあってねと顔を上げながら余は続けた。
「ぼくと兄さん達との4人で輪になって、中心には真珠みたいな色の、輝いて見える大きな珠があった。それと、宮殿の中に楕円型の大きな鏡も。そこから突然光と音がして目が覚めたんだ」
春先まで見ていた抽象的な夢とは異なり、かなり具体的な形を持つ夢の内容を告げられた始は顎に手を当てて数秒考え込み、姉には絶対に向けない類の笑みを浮かべて優しい色合いの髪を力強く撫でる。
存在している土地も姿形もはっきりしない竜から、中国風と知覚し突然人身を取る4人の兄弟。竜身に変じた際、余に意識は無かったが、あれは間違いなく東洋の竜であった。しかしそれでも船津老人とロキから齎された情報を伝えてしまった故の変化であるとも受け取れるタイミングだから頭から信じるのは危険だなと始は内心でのみ判断し、それを外に出さないよう注意を払いつつ、まだ幼い末弟に降り掛かった夢を譲り受けた。
「分かった。話してくれてありがとう、余。後は兄さん達に任せろ」
「そうね。今は折角の夏休みだもの、難しい話は若年寄に全部振ればいいのよ。私は更に難しい昼食と夕食と仕事の準備に取り掛かるから後は頼んだわ」
「食事の用意が面倒なら別に素麺で構わないんだが」
応酬の為に態と挿入したであろう若年寄には振れずに避け、続のように場を混沌化させる為の厭味からではなく悪気なく心からの気遣いとして始がその台詞を吐いた直後、居間の空気が体感で2℃程下がった。
ここ数ヶ月、不慣れながらも台所に立っている余は自分の夢の事など構っている状況ではないと慌てての腕に縋るように大きな体を押し留め、始兄さんあのね、まで口にした。残念ながらそれで止まるようなではなく、地獄の底から煮え滾るような声が彼の頭上から降り注ぐ。
「食べる人間がアンタだけなら52週3食オプションなしで出してやるわよ、愚弟」
作らないという選択肢を挙げないのは姉としての最後の優しさだろうが、それでも双子の弟の腹を開いて吊るして一夜干しにしかねない長姉を見上げた末弟は、何故彼女が怒っているのか通じていない長兄に視線を移してもう一度あのねと強い口調で言葉を放った。
「料理してくれる人に対して、でいいよ、は使わない方がいいと思う。一番料理出来る姉さんと比べて自分でも作れる素麺でいいって意味だろうけど、言われた方はじゃあ自分で作ればいいのにって遣る瀬なくなるから。それとね、今の時期って素麺を茹でるの重労働なんだよ、特にぼく達はよく食べるから大鍋でお湯沸かすよね、その後に10人前以上茹でて冷水で締めて、薬味とおかず用意して、洗い物済んで食べようって頃には皆が食べ終わってて、自分が食べたらすぐ残りの洗い物で、めんつゆも補充しないといけないんだ。始兄さんが人工的な冷気嫌いなのは分かるけど、エアコンも付いてない中だとそんなに頑張れないよ」
「……余、アンタよく喋るのね」
「姉さんも、始兄さんにただ理不尽に怒りをぶつけるんじゃなくて、どうして自分が不快に思ったのか、腹を立ててるのか説明しないと駄目だよ。茉理ちゃんにももっと沢山話し合うように言われたよね。始兄さんと姉さんはぼくよりずっと長く一緒にいた双子だけど、会話しないと理解し合えない事って沢山あると思うから。1人分の素麺なら片手鍋で楽に済むけど家族全員は全然違う事とか、素麺が食べたいって言い直すだけで受け取り方が良くなるとか、今日は体調が優れないとか、何時間も向き合えなんて難しい話じゃなくて、ほんの数秒か長くても数分で済むんだから面倒臭がって拗れさせないで」
昨日の茉理よりも更にストレート且つ遠慮のない正論と指摘を10歳年下の中学生から受けた長子組はどちらともなく目を合わせ、同じような表情で申し訳無さそうに頭を下げる。
先に口を開いたのは誰よりも末弟に甘いで、逆に始は長兄としてのプライドが僅かに残っていた為に出遅れた。
「お昼はデリバリーで適当に済ませて貰っていいかしら。昨日は結構お酒飲んだから食欲なくてね、夕飯の準備はするから少しの間だけ寝かせて」
「姉さん、始兄さんだけじゃなくてぼく達にも言ってね。完璧には無理だけど今夏休み中だから家事も全部代われるからね」
体調不良を宣言され腕から胴へと縋る場所を変えた余には何とも表現し難い顔をして視線を逸らすと弟を貼り付けたまま立ち上がり、姉に対して優しい言葉を掛ける習慣のない始はかなり戸惑った後で無理をしないようにとだけ背中に投げかける。
双子の弟に体調の心配をされるのは何時振りだろうと緩む表情を見せないまま片手を挙げて返事の代わりとしたはグラスを回収しつつ危なげない足取りで居間を出て、コアラよろしく器用にしがみついている末弟の脇に片手を通すと正面から抱き締める態勢に変え足を踏み入れた台所の隅に座り込んだ。火を使用していない台所の床は冷たいとはいかなくとも体内にこもった熱を逃す役割は辛うじて果たせる温度で、投げ出した両脚の布越しに血液の冷却をしながら祖父母の時代からある古い時計を見上げる。
始は居間から追って来ない。理由は明白で、余の口数が多くなった原因を緩和するのに自分は不向きと判断したからだった。2人に長子は末弟を気に掛けているが、その甘やかし方や心配の現れ方は微妙に異なっている。
子供のように抱き締めて、情によって癒やす役割はのものだった。
いつもよりも速度が遅く感じる秒針が半周してから、肩越しに余が呟いた。
「また、姉さんが何処にもいなかった」
「……そうね」
「ぼくも、兄さん達も、いないのが当然だって雰囲気だった」
「そうなの」
「前にも、姉さんはぼくの夢は見させられているから意識とは関係ないって言ってたけど、でも、いつもよりはっきりした夢だから嫌だった。姉さんはぼく達の大切な家族なのに、夢を見てる時は探しもしないぼくが嫌だった……なんで、姉さんがいない夢ばかり見ないといけないんだろう」
それは四海竜王ではない自分が異物だから、と既に何度も告げている言葉を繰り返してしまえば余を深く傷付けてしまうだろうからと、は小さな背中を擦るに留まる。
首筋に触れた柔からな頬の感触が濡れていない事を確かめてから、は再度時間を確認して余の名前を呼びつつ視線を合わせた。彼女と同じ黒曜石の瞳は濡れていたが正常な量の生理的な涙に過ぎず、目から溢れて流れ落ちる事はない。
強い子、という言葉はしかし、余の耳に届く前に宙に散っていった。
「ねえ、余。夕飯の仕込みが終わったら、抱き枕になってくれないかしら」
「……一緒に寝たら、今度こそ姉さんの夢見られるかな」
「保証は出来ないからロキの胸倉掴んでお願いしておきましょう。自称神様なら偶にはご利益があってもいいでしょうから」
「姉さんらしいや」
神様に対して無茶振りをする姉を見てやっと笑顔が戻った余は僅かな慰めでも立ち直れたのかの上を退き、ふと脚に触れたエプロン越しの紙の感覚に首を傾げる。
「気にする必要はないわ。余の夢に比べれば些細な事よ」
そんな事より今日は茄子とじゃこの炊き込みご飯がメインよと夕食の献立を披露すると余は手を叩き、副菜は冷蔵庫から適当にと指示を出した。
居間に置いてきた双子の弟が、本来残っているはずの紙が手元にない事に気付かないよう祈りながら、彼女は自身よりも小さな弟の肩を抱き4人分にしても少ない生米を量るよう指示を出すのだった。