曖昧トルマリン

graytourmaline

オールスター登場?

 自衛隊の演習場で大規模な災害が発生しようとも、日本で最も有名な遊園地が夏休み開始早々物理的に大炎上しようとも、家族の身が安全且つ健全である限り空腹という状態は常にやってくるものである。
 普段と変わりない時間に自然と目を覚ましたは一晩が経過しても特筆すべき変化の見られない己の肉体や周囲の環境を一通り確認し終えると日課となっている諸々を体が動くままに熟し、朝の一大作業に当たる朝食作りの為に夏の暑さがまだ侵食していない台所に立った。昨夜作ってしまった料理は昼に回すとして、と独り言を呟いたは冷蔵庫の前で腰に手を当て夏バテや暑気による食欲減退などとは無縁の家族の顔と自分が食べたいメニューとを脳内で比較する。
「洋食だけど、ご飯の気分なのよね」
 そもそもパンは家族全員が満足するまで行き渡る数の買い置きがない、けれどがっつりとした和食を作る気分でもない。オムライスやピラフは面倒なので丼にしよう。そんな消去法から生まれた折衷案を誰に言うでもなく溢し、丁度ご飯も余っているからと保温状態の炊飯器を横目に手を動かし始めた。
 昨日は昼も夜も外食だったからと冷凍庫や野菜室から次々に野菜を出している最中、ふと階上から誰かが起きる気配がしたので手を止め顔を上げる。飛ぶような速さとまではいかないが、それでも若干慌てた様子で階段を下りて来たのは末弟の余で、冷蔵庫の前に立つ姉の姿を確認すると強張っていた表情をふやけさせ朝の挨拶を口にした。
 それに返答すると共に悪い夢でも見たのかと続けようとしたは声にする直前で舌を止め、昨日の今日なのだから心優しく家族が大好きな末の弟は心配くらいするだろうと自分自身に苦笑しながら手招きをする。
「約束したじゃない。アンタ達を置いて、黙って家を出たりしないわよ」
「……うん」
 ロキに肉体の支配権を奪われるかもしれない懸念が現実になり、また、既に敵の位置を把握している事からが人知れず家族と距離を取ってしまうのではないかと不安だったのだろう。エプロンの裾を握る弟の頭を力強く撫でたは出来るだけ明るい表情と声で沈み込みそうな空気を吹き払った。
「さてと、残りの欠食児童共が起きてくる前に朝食を作らないと。余は身支度してから新聞を取りに行って、その後で味見係をしてくれないかしら」
「つまみ食いもしたいけど、ぼくも一緒に作りたいから教えて欲しいな」
「あら、ありがとう、助かるわ。じゃあ手順を説明するからスープの担当をお願いね」
 10歳年少の弟をどうにも甘やかしてしまう長女と、親代わりの姉に甘やかされるだけでなのは嫌な末弟が穏やかな朝に相応しい空気を醸し出し、一通りじゃれ合った所で余が新聞を取りに行く為に部屋を出る。
 その間にスープで使う食材以外を刻みレンジで鶏肉を加熱していると、肉に火が通る匂いで起床したらしい三男坊が寝癖だらけの髪のまま台所にやって来た。
「おはよ。良かった、いい匂いするから居るとは思ったけど、やっぱり姉貴居た」
「おはよう。まったく、年少組は心配性ね。約束したんだから何処にも行かないわよ」
「でもさ切羽詰まったら適当な理由付けて約束破るだろ、特に姉貴は。姉貴と始兄貴は長子と家長だからおれ達に心配かけたくないって結構抱え込むけど、弟としてはそういうので行方不明になるくらい思い詰められる方が心配なんだよ」
 朝の一発目から正論を展開する終をどのように言い包めようかと思案する前に、当の三男坊が玄関の方を見ながら年相応の笑顔を浮かべ何かあったら相談してくれよと言い残し姿を消す。微かに聞こえる声と足音から、どうやら竜堂家の健康的で文明的な生活を維持する作戦司令官こと鳥羽家の女神が到着した様子だった。
 ぐうの音も出ず、また相手もいない事から反論を諦めたは爽やかでまだ涼しさの残る夏の朝に相応しい従妹と恭しく荷物持ちに徹する弟達を眺めた後で軽く片手を上げる。
「おはよう、茉理。来てくれたのね」
「おはようお姉ちゃん。昨日は楽しかった?」
「ええ、遊園地なんて久し振りだから年甲斐もなく満喫しちゃったわ」
 声色に含まれた小さな棘に、どうやらニュースで昨夜のちょっとした破壊活動を知った茉理は家事のついでにお説教をしに来たらしいと悟る。かといって追い返す必要性もないので爽やかだが意味有りげな笑みを浮かべる少女を台所に通したは今日は余と一緒に作るからと先に断った。
「そうなの? 偉いぞ、余君。今日のおやつは余君の分だけちょっと多くしてあげる」
「ありがとう、茉理ちゃん」
「姉貴! おれも手伝う!」
「報酬目当てで参加する輩の申請は却下。あとアンタ、結婚してもわたしを相手するみたいに手伝うなんて単語は絶対に使わないようになさい」
「ええ……あー。うん、分かった。そうだよな、奥さんは保護者じゃないから旦那のおれが守ってやらないといけないもんな。気を付ける」
「理解力が高くて助かるわ。ま、ただしその辺りは結婚する相手にもよるけどね。茉理は始が手伝いを申し出ても怒らないどころか喜ぶだろうから」
「じゃ、じゃあ、わたしは洗濯の準備してくるから!」
 日常会話からショットガン並の流れ弾を食らい頬を染めた茉理が叫ぶように言い訳をしながら慌ただしく台所を出ると、入れ違いに身嗜みを整えた体の上に怪訝な顔を乗せた続が姿を現す。
 茶色っぽい瞳から放たれる視線は今しがた消えたばかりの従妹を追い、数秒してから姉に向いた。
「また姉さんは、茉理ちゃんに一体何を言ったんですか」
「茉理は結婚したら旦那に何されても惚気けそうねって感想を述べただけよ」
「成程、姉さんに非はないようですね。コーヒーとお茶、どちらを淹れましょうか」
「お茶淹れて。余は鍋にお水を張って、お湯が沸くまでに油揚げ切りましょう」
 油揚げと野菜のピリ辛味噌風ミルクスープなる料理の説明を始めた姉と、慣れない手付きで包丁を握る弟の姿を目に入れた続は、手持ち無沙汰になっているすぐ下の弟に対し急須を片手に視線を向ける。
「余君には感心させられますね、終君も不肖の兄として余君を見習っては如何ですか」
「報酬目当てだからって却下食らったばっかりなんだよ」
「姉さんにですか? なら茉理ちゃんに付いて行けばいいでしょう、何も家事は料理だけではありませんよ」
「あ。確かにそうだ、おれも向こうに行ってくる」
 不貞腐れていた表情を外の天気のようなからりとした快晴に変えた終は身軽な動きで台所を出て行き、その様子を見た年長組が互いに顔を見合わせて苦笑する。
 変に逆ギレなどせずありのままの言葉を真正面から受け取って動ける終を、この捻くれた性格の姉弟は隠す事なく好いていた。良い意味で素直な三男坊とは異なり常に喧嘩腰な長姉と一の言葉に対し十や二十にも上る過剰な嫌味を言わずにはいられない次兄は無言で意思疎通を行うと互いの持ち場へ戻り、そんな2人を見上げた末弟は天使のような無垢な笑顔で仲の良い家族を喜んでいた。
 スープ以外の朝食が手際よく作り上げられ、人数分の温かいお茶が食堂の大きなテーブルに並ぶ頃、まだ若干耳の先端を染めている茉理が終を連れて戻り、続が再度入れ違いで台所を出ていく。恐らく、この時間になっても下りてこない長兄の起床を促しに行ったのだろうとは考え、更に終は姉が茉理に無茶振りする前に動いたのだろうなと兄の思考と行動を正確に把握した。
 そうして家長が起床する前にアボカドとツナとトマトのサラダ丼と鶏とキュウリの梅肉和え、絹ごし豆腐の黒蜜きなこが並び、少し遅れて味噌風味のミルクスープが食卓に上る。
 丁度いいタイミングで始が食堂に姿を現し家族全員が食卓に着くと、いつも通りの騒がしい朝食が始まった。ただし、1つ普段と異なる点は茉理の様子で、先程まで染めていた頬や耳の色を戻した彼女は忠告じみた言葉を口にする。
「昨夜のお遊びで、さぞお腹が減ってるでしょうし、話は食事が済んでからね。あんまり消化によくない話は、今したくないから」
 やっぱりと言いたげに年長組3人は顔を見合わせたが、兎も角、茉理の言う通りまずは食事だと全員が気持ちを切り替えて箸を持つ。特にの場合、余が慣れない手付きで作ったスープをげんなりとした気分のまま口に運びたくはなかった。
 時計の長針が200度ほど移動し、朝食と後片付けまで終えた竜堂家一同のうち年少組は殊勝にも勉強の為に部屋へ戻り、逃げ場のない年長組は食後のコーヒーを携えて居間へと移動する。ソファに腰を下ろして真っ先に口を開いたのは、当然従妹の茉理であった。
「でね、始さん、続さん、それにお姉ちゃん、昨夜のフェアリーランドの件だけど……」
「そうね、TVじゃ自称専門家の勝手な憶測が流れてるけど、犯人はわたし達よ」
 悪足掻きのような見苦しい言い訳をしようと試みた始よりも先にが何でもないように肯定し、何があったか聞きたいかしらとコーヒーカップに手を伸ばしながら逆に尋ねる。彼女のはぐらかさない姿勢を良しとしたのか、茉理も過去の事を一々掘り返す程悪趣味ではないと返し、ミルクと砂糖に手を伸ばした。
 女同士が作り出す夏の暑気が後退るような短い静寂にすら耐えられなかったのか、今度こそ始は謝罪の言葉を口に出す。
「悪かった、茉理ちゃん」
「どうして謝るの? 始さん達が先に手を出したなんて、わたし思ってないわ。始さんは、殴られた瞬間に殴り返す人だけど、相手より早く殴り付ける人じゃないもの」
「そうかしら、こいつ結構喧嘩っ早いわよ」
「うーん。でも、始さんはお姉ちゃんよりずっと平和主義者だと思うわ。としても、ちょっとやり過ぎね。どれぐらいの損害が出たか、知ってるでしょ。冗談じゃ済まないわよ」
「冗談にするつもりはないもの、世間様に犯人だって自首する気もないけどね。茉理が相手だから誤魔化さず、卑小化せずに真摯に答えたの」
 キャットファイトとはまた異なる雰囲気の、まるでノーガードの殴り合いを見ているようだった。舌戦ならば得意だと自負している続も姉と従妹の応酬に参戦したくないのか口を噤んで観戦側に回り、元々口喧嘩が得意ではない始は長子からの無言の圧に屈し家長として沈黙を守った。
 長男と次男の舌が、熱く苦いはずのコーヒーの温度も味も感じなくなっている間も、彼女達の会話は途切れる事はない。
「でもやっぱり、皆には自重して欲しいの。小物相手に、ちょっと周囲への影響が大き過ぎたでしょ。いざ大物を相手にした時、どうなる事やら、心配になってしまう」
「無理ね」
「お姉ちゃん」
「だって無理だもの。常識的且つ良識的な行動を心掛ける事は出来るわ。でも許容範囲を超えたら全力で立ち向かう。自重して、それで家族が怪我しようものならわたしは絶対に後悔する。たとえ島1つ、大陸1つ消す結果になっても絶対に譲らない」
 そこは何があっても駄目だと言葉と眼光と態度で語るの威圧を正面から受けて、茉理も説得を諦めた。引き際から考えて元々この竜堂家長子を言葉だけでどうこうするのは不可能だと理解していたが、それでも耐えきれなかったのだろう。
 茉理が折れた事により話は終わったが、張り詰めたままの空気は身体に悪いと思った続がすぐさま姉を槍玉に挙げて揶揄をする。
「姉さんはネズミ相手に本気を出すライオンですからね」
「ネズミに噛まれた小さな傷から破傷風になって兄弟が死ぬくらいなら、最初から全力で狩りに挑むべきじゃなくて?」
「勿論そう思います」
 空気が戻る代わりに竜堂家の過激派2人が攻撃的な意気投合をする様子を茉理は溜息で流し、少し躊躇いを見せた後でテーブルに軽く身を乗り出して会話の相手に始を指名した。
「お姉ちゃんの説得は無理だと思ってたから諦めるけど、始さん達には、大小様々な秘密があるんだから、ほんとに注意してよ。従姉妹のわたしだって、不思議に思っている事がいくらだってあるんだから」
「たとえば、どんな事?」
「たとえばね、始さん達5人とも、誕生日が1月17日よね。まあ、始さんとお姉ちゃんは双子だから横に置いて、これって、面白い偶然だと思ってたけど、考えてみれば、出来過ぎた話だわ」
 それに関して竜堂家の面々、少なくとも始と続は奇妙に思っていた事だった。逆に、ロキを寄生させているは幼い頃からその理由について説明を受けていたのか117という数字には呪術的な意味が込められていると豪語しては弟達から物笑いの種にされていたが。
 ぼんやりとした祖父の作為、そして船津老人がはっきりと語った内容から姉のそれを妄言と片付けられなくなったのはつい数ヶ月前の話だ。
 けれど、長姉を除く竜堂家全員が、それを鵜呑みにすべきではないと思っていた。
 ロキや船津老人が語った全ての説を是とした場合、四海竜王に含まれないはこの家族の中で異物という事になる。たとえ姉当人すらそれが正しいと嘯いても、弟達は血の繋がった姉を決して異物呼ばわりしたくなかった。どれだけ横暴で、口が悪く、手に負えない烈女でも、は生まれた時から今日まで絶えず4人の弟に確かな愛情を注いできた長姉であったからだ。
 始と続の雰囲気が変化した事に茉理は気付いたが逆には飄々としており、また船津老人もロキも知らない故に、彼女は笑い話を混ぜ込んだ。
「もっともね、わたしの同級生に昆虫学者の娘で、揚羽って子がいたけど」
「アゲハチョウか、成程ね」
「始さん達と全く同じ双生児でね、弟が門司郎っていうの」
「……それはそれは」
 その揚羽という子もこの姉のように、否、こんな蝶ではなく女王蜂のような女性がそこら中に転がっているものかとその場に居る半数が内心で突っ込み、そこに含まれない茉理が更に続けた。
「わたしの名前だって、あんまり普通とはいえないものね。姓が後野だったりしたら、いい笑い話だわ」
「大丈夫、茉理の名前は普通の意味で生涯通るでしょうから。ねえ、始?」
「姉さん、あのなあ」
「じれったいわね。続、夏休みのうちにこの2人を縛ってラブホテルに突っ込まない?」
「お姉ちゃん!?」
「その程度の強硬手段で進展するのなら、とっくにぼくから提案しています」
「続!」
 ストレート過ぎると続の言い分に、茉理は冷めていた頬の熱を再発させ、始も首から上を赤くしながら悲鳴に似た声を上げる。対して、黒曜石に似た瞳には苛立ちが混じり、茶水晶に似た瞳は呆れを含んでいた。
「さてと、じゃあわたし今日仕事だから仮眠取るわ。茉理にはもう説明したけど、お昼は昨日の作り置きをラーメンにして食べて」
「分かりました、ぼくはお昼まで図書館に行ってきます」
「あらそうなの。じゃああとは2人でゆっくりと今後の人生設計でもしてなさい」
 互いに顔を紅潮させたまま絶句する男女を残し、と続はごく自然な動作で居間を出ると丁寧過ぎるくらい静かに扉を閉め、廊下を歩きながら同時に深い溜息を吐く。
「明日何が起こるか想像も出来ない今のぼく達に人生設計は難易度が高いですよ」
「確かに、それもそうね。でも、茉理はまだ知らなくていい事よ」
 シリアスな考えを断ち切る為なのか、逆に今が全てというならばベビードールでも着せて始の部屋に突っ込もうかしらと冗談なのか本気なのか判断の出来ない台詞をは吐く。そんな姉の隣を歩きつつ、多分それでもあの兄は鋼の理性で耐えるのだろうなと、どちらかといえば不名誉な考えを続は一切を表に出さないまま思い浮かべた。
 しかし直後、どうせあのカタブツは手出し出来ないでしょうけど、と声に出され、彼は遂に反応しないという反応を返し消極的な同意を行ってしまったのだった。