ベイシティ狂想曲
おおよそ一般家庭では使われないサイズの鍋からは湯気が上り、豚ミンチとニラのピリ辛炒めに似た大量の何かが出来上がっている。見た目は悪くない、香りも食欲を十分に唆る、にも関わらず、味だけは微妙な具合に仕上がっていた。
そもそも弟達に晩御飯を食べて帰って来るよう伝えたのは自分自身なのに、一体どれだけ動揺しているのかと自身の精神状態に舌打ちする。それに相槌でも打つかのように炊飯器が白米の炊きあがりを告げ、虚しくなったは今度こそ溜息を吐いた。
「作ったものは仕方ないわ。明日食べましょう」
鶏ガラスープの元か味噌を加えて明日の朝食か、適当な食材を加えて昼食にでも生まれ変わらせようと声に出して気持ちを切り替える努力を行いながら調味料の棚に手を伸ばす。喉や手に震えが出ていない事を確認しながら甘味と塩味と辛味がどの割合で足りないのだろうと首を傾げ、取り敢えずピリ辛炒めの名に恥じない料理に作り変えようと豆板醤を手に取ったところで陽気な帰宅の挨拶が鼓膜を揺らした。
普段ならば敷地に入った時点で絶対に気付けるはずの弟達の気配や車の音すら脳が認識出来ない精神状態にあると改めて突き付けられ舌打ちを堪えたは、フェアリーランドから自宅までの帰路を何事もなく移動し平和を象徴する家庭の匂いに釣られてただいまの掛け声と共に真っ先に姿を現した弟を目視で確認すると、いつも通りの呆れがちな表情と声でおかえりと挨拶を投げる。
「……姉貴、何があったんだ?」
しかし、日常の会話はそこで終わった。
豆板醤片手に常日頃と何ら変わりない言葉を交わしたはずなのに姉の心理が異常値に振れていると一目で見抜いた終は表情を厳しくして足早に距離を詰める。昼の日差しにも似た強い光を宿した瞳に真っ直ぐ見据えられ、疑問ではなく断定の形で問い掛けられたはというと早々に煙に巻く行為を諦めた。
切り出し辛い内容ではあるのだが、だからこそ、彼女の身に起こった異変は絶対に、そして早急に家族全員と共有しなければならない類のものだった事もある。既に起こってしまった事実に対して目を背け先延ばしするだけで解決出来ると考えるような幼児性は彼女の中にはなかった。
締まりのない味を整える事を諦めて調味料を元の場所へ戻し、残りの弟達が揃って台所に顔を出してから大事な話があると切り出すと兄と同様に異変を肌で感じ取った末弟が彼女の隣に並び、不安の滲む黒く大きな目で見上げながら服の裾を掴む。幼い頃のも母の具合が優れない日を感じ取ると同じような仕草で心配をした過去を懐かしく思い、姉弟だなと優しいが寂しそうな笑みを浮かべた。
年少組と同様に双子の弟も、普段は出会い頭に嫌味を言うすぐ下の弟も剣呑な表情を浮かべ無言で続きを促す。
一つ、大きく呼吸をしてからは口を開いて結論から述べた。
「ロキに体の支配権を乗っ取られたわ。あの大嘘吐き、確かに人格は乗っ取られていないけど、そういう事じゃないのよ」
数ヶ月前に伝えた懸念が現実になったと告げた長姉に弟達は驚きの視線を向け、弟達を代表して長兄が何があったのかと当然の質問を投げ掛けたのでホテルで起こった一連の出来事を淡々と伝え、ついでに体を乗っ取り殺人をさせた側の言い分も付け加える。
「前川を殺したのは猿でも分かる見せしめ、選んだ理由は4人の中で一番権力やマスメディアとの距離が遠かったから。奈良原は警告後の2度目だったから半殺しでも手緩いっていうのが向こうの言い分よ」
「だとしても、やり過ぎだろう。しかも、姉さんの体を使って」
「ロキとしては尻込みする女の代わりに自分が手を汚してあげた、くらいの押し付けがましい意識があるみたいだけどね」
アレの価値観はカミサマ基準で人間の物差しでは測れないと今迄散々言い続けてきた内容を説明し、両脇で心配そうな表情のまま寄り添う年少組の髪を若干乱暴に撫でながらは気丈な女性の振る舞いをしてみせた。
「そんな事よりも碌な抵抗も出来ないまま完全に肉体を乗っ取られた方が問題よ。何処の誰とも知らない中年の死因なんてどうでもいいわ、考えるべきはロキに操られたわたしの手がアンタ達に伸びる危険をどう回避するかでしょう?」
殺人の加担をどうでもいいの一言で済ませるに始は口を開きかけたが、それが姉の本心ではないと悟り舌を止めた。
意識が伴わない状態での故意の殺人。これを突き詰めるとだけではなく、1ヶ月前に竜身に変じて竜堂余としての自我がないまま超常の力で船津老人を死に追い遣った末弟にまで論及しなければならなくなると気付いたのだろう。
それまでも関越自動車道での誘拐未遂事件のように一般的には過剰防衛に該当するが竜堂家としては正当防衛を行使して運悪く命を落としてしまう加害者達がいたが、あれは反撃の結果として死に至らしめてしまうだけであり、故殺となると少々話が異なってくる。今後末弟と同じような変身を遂げてしまう可能性を持つ弟達が罪悪感に囚われない為にも、は血に塗れた両手を鼻で笑いながら濯ぎ、長子として平然としなければならないのだ。
姉兄と同じ結論に達した続もまた軽はずみな揶揄を止め、納得行かない様子の年少組が何か言う前に言葉を紡ぐ。
「姉さん、ぼく達はホテルにいた連中とは違いますから心配する必要はありませんよ。約束通り、不審な動きが生じたらぼくが責任を持って顎を蹴り砕いて戦闘不能にして差し上げるので安心してください」
「操られていなくても思わず反撃したくなる台詞に嬉し涙を禁じえないわ。可愛い弟が立派に責務を果たすと宣言に対する感謝として先にコメカミに向かって回し蹴りを入れても構わないかしら」
「知らない内に弟は成長するものですよ。実際に初撃で昏倒出来るか確認する為に、この場で1度味わってみませんか?」
「ああ、なんて逞しいのかしら。弟の成長ぶりに感嘆してしまったから、女性に優しい豆知識を披露しましょうか。睾丸は医学的に急所じゃないから股間を蹴っても正当防衛が成立する可能性が極めて高いの、ビンタ程度の攻撃に反撃として金的を選択しても法的には過剰防衛にはならないのよ?」
「そうなの!?」
「嘘だろ姉貴!」
「ロキと違ってわたしは嘘は吐かないわ」
重苦しかった空気がの一言で一変し、物騒の意味合いが180度変わった台所の中で唯一の女性は青褪める年少組に挟まれたまま自信を持って力強く腕組みをした。
「医学的に急所なら切除したら死ぬでしょう、でも医療技術が発達していない時代でも宦官は普通に生きて個人名も役職も記録に残ってる、だからアンタ達が後生大事にぶら下げてるモノを膝で蹴り潰しても何の問題も生じないの」
「いや、姉さん、問題はある。しかも、かなり大きな問題が」
「男性に優しくない暴論を展開するのはやめてください」
年少組ほどではないが、それでも男性に生まれついた存在として顔色を悪くしている年長組を正面から眺めたは、弟達からの抗議になど耳を貸さず攻撃的な笑みを浮かべて大回転の上に胴体着陸させた挙げ句、黒煙を吹き出しながら爆発炎上中の話題を締め括った。
「因みに切除すれば痛みからは開放されるから個人的にはそっちを勧めるわ」
「なんか話だけで痛くなって来たから、おれもう今日はシャワー浴びて寝る」
「ぼくもそうする」
元々はとても大切な話をしていたのだが、どうにもシリアスな雰囲気が維持出来ない家風に若干うんざりとした様子で終が姿を消し、余もそれに追従する。
竜堂家の浴室は男兄弟が全員入浴しても十分な広さを確保可能な一般家庭には規格外の浴槽と洗い場があるので不穏な空気から逃れる為に年長組もその場を辞そうと廊下側に足を向ける。そこで、は2人の弟を硬い声色で呼び止めた。
始と続が振り返った先にあった姉の表情は鋭利な刃物じみており、冷たく尖った視線は次男を射抜いている。
「冗談じゃなく、骨の2、3本折ったとしても止めに来なさいよ。乗っ取られた時に格闘こそしなかったから体幹と足捌きからの推測になるけど、ロキは武術を修めてるわ。それに、アンタがただの人間に斬られた事も知ってる」
「……分かりました、心してかかります」
自分達と同等の力と上回る技術を持った相手だと告げられ、続は真面目な表情で頷いてから台所を出る。次いで始が何事かを言いたそうにを振り返ったが、適切な言葉を見付けられず視線を合わせただけで弟達の後を追って行った。
冷めつつある鍋の中身を肩越しに振り返ったは誰もいなくなった台所の中で疲れを目元に滲ませ、床下に収納してある芋焼酎の一升瓶に視線を移してから自嘲気味に唇を歪め肩を落とす。
「そうね、もう下戸じゃないんだった」
これから暫く、上手く眠れるだろうか。そんな言葉を飲み込んでは自分の白い手の平を静かに眺めた。
灰皿を握った感覚と頭蓋を潰した感触とを未だ忘れられないまま、それも彼女は時間を掛けて瞼を上下させると、竜堂家の長子としての風格を全身に纏い直し、静かで暑い夏の夜に背を向けた。