ベイシティ狂想曲
詩的だが磯と腐臭の混じりの感想を脳に浮かべたは、遠くからでも勢いを増している様子がはっきりと分かる火柱と、足元に広がる東京の夜景を数秒見学した後でコクピットとキャビンで構成されたゴンドラ内部に目を向ける。
大人が1ダースも入れば窮屈に感じてしまう暗く狭いキャビンには遊覧目的の乗客とは考え難い5人の屈強な男達が各々の仕事に徹しており、更に前方のコクピットには機長と副機長が慌ただしい操縦を行っていた。元々航空機は繊細な扱いを要するものである、常識的に考えて高度500mの上空で積載荷重が突如増加する事はありえないのだから彼等の奔走と狼狽は無理もない。
高速道路を走る車よりも遥かに遅いスピードの中で一通りの観察を終えたは跳弾でコクピットの2人が怪我をしないよう祈りつつ、足場の悪さなど物ともせず片肘で窓を割り侵入を容易く果たすと、一足飛びに距離を詰め今まさに振り返ろうとした男の後頭部目掛けて薙ぐような仕草で手刀を入れる。
技術こそ達人に遠く及ばないが威力だけはサンドバックを粉砕しかねない一撃を食らい脳震盪を起こした男が狭い通路へ上半身を投げ出した。巨体が床を跳ねる音が発生する前に座席の背凭れを掴んだはあん馬の開脚旋回の要領で2人目の頬骨を踵で砕きつつ着地、未だ事態を把握出来なかった3人目の顎を掌底で割る。東京の夜景を映す窓を鏡に背後から襲撃しようとした男の鼻っ柱のど真ん中へ裏拳を叩き付け、すぐさま抱え込み宙返りで5人目の背後を取り膝を蹴り砕いた。
プロのテロリストというよりは体操選手か軽業師の要領で侵入から一切の反撃を許さず僅か数秒でキャビン内部を制圧したは、野太い絶叫の中で態とらしく両手のホコリを叩くと自身へ向けられた4つの視線に向かい合い、最後に伸した男の奇妙に方向に曲がった脚を左手1本で狩猟鳥のように掴み上げて態とらしく笑って見せる。
「東京の夜景なんて見飽きているでしょう。視点を変えてみると新たな発見に繋がるかもしれなくてよ?」
言いながら華奢なの指が施錠された扉に掛かり、蝶番の反対方向に動かして内外の空間を一部繋げると左腕を夜の中へ突き出した。
綺羅びやかな摩天楼を頭下で眺める斬新な経験をする羽目になった不幸な男は高度500mで情けない悲鳴を上げ、コクピット内の男達は夏の夜風に煽られながら真っ青な顔で現実離れした光景からゆっくり目を逸らして、互いの存在を確認する。
なけなしの勇気を振り絞って反撃をしようものなら夜空へ突き飛ばしてやろうと考えていただったが、彼等は自身の実力と胆力と彼女との差を正確に理解していたようで、窓と計器と操縦桿に向き直り現実逃避を選択した。
言葉と話の通じる人間形態の化け物相手だからこその理性的な反応だとは頷くと、宙吊りにしたままの男を見下ろして手首を緩く左右に振る。
「貴方の上司か雇用主の居場所を教えていただきたいのだけれど」
「いっ、だ、誰が言うか! 我々を甘く……」
「わたし、女に生まれただけあって姉弟の中で一番腕力がないのよねえ。だからこの通り持久力もなくて」
4人の弟達から一斉に否定されそうな内容を言いながら、ほんの一瞬、左手を開き右手で再度足首を掴むと、悲鳴混じりの喚き声が夜の都心へと散らばりながら落ちていく音が聞こえた。もしも三男坊がこの場に居合わせていたら、おれもこの間あれやったと報告し、次男坊が君の粗雑さは姉さん譲りなんですねと茶々を入れていただろう。
ただし対象スケールだけは若干異なり、終がそれを行った場所は15階建てマンションの屋上に対して、彼女が現在行っている場所は10倍以上高く時速70kmで移動する場所である。もっとも、その事実は何の慰めにも、ましてや自慢にもならなかった。
一応はプロだけあって脱糞も失禁もしなかった男は1秒に満たない空中遊泳に意志を折られて手の平を返し、雇い主達の名や場所、自分の知り得る全てを叫びながら暴露した。身の程を弁えた丁寧な命乞いも聞こえたのではひとまず男をキャビン内へ戻し、しかし逆さに吊ったまま同じ質問を繰り返す。咄嗟の嘘である可能性は低いが、恐慌による勘違いを危惧してだった。
「わ、私達を、雇ったのは4人の男です! 一宮正親、高沼勝作、藤木健三、前川菊次郎。彼等はっ、今、ホテル。高輪のホテルで指示をだ、出しています! きょっ、兄弟を取り逃がした報告は、まだ、していませんっ!」
「舌は縺れているけれど今のところ偽りはなし、と。でもあそこ該当しそうなホテル乱立してるじゃない、それに雇用主の詳細も知りたいわ」
が四角形にくり抜かれた夜景に視線を配らせると男は血が集まって赤くなっていたはずの顔を青くしながら必死に詳細を語り、ホテルの名前と部屋の位置、4人の役職を次々に説明する。その中に道徳再建協議会の専務理事にして教育家として振る舞う男が登場すると彼女は失笑したが、そういえば船津老人も哲学者の他に教育家の肩書が付いていた事実を思い出し苦い表情に変化させた。
「私が、知っているのは全部、これで全部ですっ。だから、どうか」
「そうね、ご協力感謝するわ。一先ず解放して差し上げるから今日はそこに転がっている連中共々、巣にお帰りなさいな」
足首を離され数分振りに上下逆さまの世界から帰還した男は折れている痛みすらも無視して一も二もなく頷き、コクピットの2人に指示を出そうとして、はたとを見上げる。この後どうするのか、まさか共に地上に降りるのではないかと分かりやすく表情に疑問を浮かべた男に対して、は笑顔で答えを遠ざけた。
「わたしは優しいから、一度は見逃すわ。でも、もしも貴方の情報が偽物だった場合は戻って来るから遺書を認めおくことね、三度目は期待したところで無駄よ」
穏やかな声色に対して物騒な内容を一方的に言い捨てると相手の反応を待たずは夜空とキャビンの境界に手を掛け、男が浮かべる驚愕の表情を眺めるために体を半回転分捻りながら重力に任せるように体の全てを空中に投げ出す。
相変わらずのフォルムの飛行船が遠ざかる姿を見上げながら宙で再度体を捻ったは眩しい東京の夜を遥か下方に眺めながら五指を変じた翼を広げ、夜風に乗りながら港区の方向へと飛翔する。
人間の足ならば交通機関を使っても時間を要する移動も、地上の障害に左右されないウミネコの姿ならばものの数分で辿り着く距離である。
光点が帯となっている湾岸道路を横目に東京湾岸の夜景を遥かに見渡す城塞のような白亜のホテル上空まで滑空した白い翼は、一際大きな上層階の窓から見える部屋で5人の男がソファに身を沈めている光景を目にした。スーツに身を包み葉巻やブランデーグラスを片手に脂ぎった額を突き合わせる姿は各々の種類や価格こそ違えどキャバクラに来る客と何も変わらず、ウミネコの姿ではうんざりした表情を浮かべる。
雇用主は4人と聞いていたが残りの1人は秘書かベルボーイだろうか。しかし無関係の人間を立ち会わせるのは考え辛い。人間の思考に直結された鳥の目が室内の男を再度観察しようとした矢先、引っ張り出された記憶と共に羽毛に覆われた肉体が上昇し、充分な高度から窓に向かって一直線で降下した。
夜景を僅かに反射するガラスに激突する寸前、人間の姿に戻ったは速度を維持したまま派手な音と共にホテル内部に侵入すると、突然の強襲に呆然とする男達の間を抜けて目的の人物の頭蓋を掴み上げる。
「お久し振りね、奈良原さん」
「な、がっ……!?」
「見逃す条件を伝えたはずでしょう? 二度とわたし達に手を出すな、って。ほんの数ヶ月で破るなんて熱烈な自殺願望にでも目覚めたのかしら」
ゴールデンウィーク頃に竜堂家を襲撃し無様に敗走した警備会社社長の顔と名前をはしっかりと覚えていた。あの時は内閣官房副長官の腰巾着で、主人が死亡しても大人しくしていたからお礼参りをしなかったものの、と内心で呟き、長い腕を上げ自分よりも遥かに重量のある男の踵を高級そうな絨毯から離す。
この愚物をどうしてやろうかと考える間もなく彼女は腕を振りかぶり、電話機に手を伸ばそうとした銀髪の中肉男に向かって投げ付けた。筋骨隆々の奈良原をまともに食らった男、藤木健三は肥満したカエルのような声を出しながら仰向けに倒れ、それを冷えた目で見下ろしたは直前まで奈良原が座っていたイタリア製のソファを片手で持ち上げると部屋の入り口に向かって放り投げる。
男2人で持ち上げなければ動かせない調度品が女1人の片腕で宙を舞う光景を目の当たりにした4人の男は腰を抜かし、フルオーダーメイドにしても似合わないスーツの股の間を悪臭で濡らす。
丹精込めて仕立て上げた職人が嘆きそうな情けない姿をゴミを見る目で見下ろすに向かい、最初に声を張り上げたのは藤木だった。
「お前、この女! 私達を誰だと思っているんだ、日本を支配するするパワー・エリートにこんな事をして無事に」
「死んだ船津忠巌もそう言ってたわよ」
失禁し、おまけに奈良原の下敷きになったまま凄もうとした藤木には平坦な口調で嘘を吐く。たったそれだけで4人の男は悍ましい存在に出会ったかのように青褪め、口々に言おうとした台詞を全て飲み込んだ。
その反応に大体の事情を察したはこの男共をどうしてくれようかと逡巡する。
彼等は飛行船で伸した連中や奈良原のような雇われ者とは異なり権力と財力を小物ながらに持ち指示を出す側である、ここで見逃すのは悪手だが脅すだけで引くような繊細な神経など持ち合わせていない。それぞれの手足を折って逆恨みされても困るが他にどうすればいいのか分からず、沙汰を待ちながら震える4人を女帝の表情で睥睨する。
数秒の沈黙を経てから、は不愉快そうに表情を歪めた。それは彼女の内に存在する神を自称しロキと名付けた何かから情報を受け取った故だったが、そうとは知らない男達は文字通り縮み上がり中には土下座をする者まで出始める。
吐き気を催す滑稽な光景に苦虫を噛み潰した表情のまま、彼女は唸り声のような低さで質問を言葉にした。
「道徳再建協議会の専務理事、前川菊次郎は誰?」
肩書付きの質問に手を挙げる者はいなかった。
しかし、自身の命が惜しい3人の男が一斉に髪の薄い小太りの男を見て前川を売り払い、訳も分からず指名された60歳前後の男はというと孫と年齢の変わらないを絶望の表情で見上げ、慌てて膝を揃えると両手の指先が白くなるまで強く組んで床に肘を付き泣き叫びながら拝み始める。
不愉快さだけが増した空間の中では前川菊次郎を知りたいとだけ告げたロキが何をしたいのか分からず腕を組もうとし、全身が意図しない方向へ動いている事に目を見開こうとして、それすらも失敗した。
右手は長い葉巻が消し潰されたチェコスロバキア製の重い灰皿を掴み、両脚は前川の頭の前で停止する。そうして口も舌も縫い合わされたように動かず、表情すらも無に近しい彼女の前で何の躊躇もなくガラスの鈍器が振り下ろされた。
鈍い、頭蓋骨が陥没する音がして、哀願が終わる。
絨毯をドス黒く染める血と潰れたピンク色の脳がの目に焼き付く前に未だ自分の意志で動かせない右腕が小刻みに痙攣する死体のベルトを掴み、窓の役割を半ば失った空間から外へ投げた。それだけに留まらず、彼女の体は藤木の上で固まっていた奈良原に近寄ると這うようにして逃げ出そうとした襟首を掴み、惨めったらしく命乞いをする筋骨隆々の男の体重など関係ないかのように前川と同じ方向へ投げ捨てる。
地上20階から絶叫が遠ざかり、濡れタオルが叩き付けられたような音が割れた窓から聞こえた。その音と被るように、の両手が二度、打ち鳴らされる。
「今の私が何を望んでいるのか、お分かりいただけますか」
の唇と舌と表情筋が意志に反して大層柔らかく動き、そして全てが彼女へと戻る。
突然の状況に呆然と立ち竦むにまで気が回らない3人の男達は死への恐怖で満たされた頭蓋を絨毯に擦り付け、金やら権力やらと口々に下らない内容を喚き散らす。
俗物に対する嫌悪感が彼女の理性を辛うじて繋ぎ止め、乱れた呼吸のまま喉を絞るようにしてロキではなく自身の望みを声に出した。
「弟達に手を出さないで」
「そっ、それだ、それだけでっ」
「家族の安全以外、要らないの」
「な、なんて慈悲深いっ! まるで女神のような方だ!」
「ありがとうございます。ありがとうございますっ!」
「二度と貴女様にこのような事はしないと違います!」
「……うるさい。二度と、その醜い面を見せないよう、生涯気を付けなさい」
内心を悟られないよう区切りながら言い捨てたは、顔を伏せ縮まる還暦を過ぎた男達を一瞥すると奥歯を噛み、助走を付けて窓の外へと身を躍らせた。
昼の熱気を含んだままの生暖かい夜風を含んだ一対の翼はそのままホテルの上空に舞い上がり、何処か遠くから聞こえるサイレンの音が小さな鳥の薄い鼓膜を揺らした。