曖昧トルマリン

graytourmaline

夏休みはおとなしく

 空から見下ろすフェアリーランドはさぞ滑稽に映るだろうなと、ゴシックハウスから延びた120分待ちの列に別れを告げようとしているは手持ち無沙汰な蟻の気持ちを味わいつつ、木々と建物の隙間をゆったりと横切る飛行船を眺めながら声に出さず呟く。
 気象庁が宣言した梅雨明けも今年はきっちり当たっていたようで、夏休み最初の日曜日も残り4分の1を切った空には早朝から続く見事な青が広がっていた。空気には十分過ぎる湿度が含まれていたが、それでも中々乾かない5人分の洗濯物の山を家中に吊るしていた日々が嘘のような空模様である。
 これならば夜間パレードにも支障は出ないだろうと数時間先の天気を見通したの視線が人の列へ戻る前に、肩より下の辺りに柔らかな身体が寄り掛かり服の裾を掴まれた。
 4人いる弟の中で最も可愛がっている末弟の余の行動だとすぐに分かり、風通しのいい海辺とはいえコンクリートに遮られた噎せ返るような暑気と代わり映えしない人混みに気分が悪くなったのかと慌てて肩を支える。しかし、幼さが抜けない黒目がちな瞳は僅かな敵意を混ぜて斜め後方をじっと見ていた。
 化粧程度では覆い隠せない攻撃性が顔に出ているとは異なり内も外もおっとりとした気質で満たされている余がここまで不満を表に出すのはかなり珍しい。理由の判断が付かず、一体何に対して不機嫌になっているのだろうと同じ方向を眺め、間を置かず理解した。
 大学生か新社会人か、と同年代か少し年下の男性グループが彼女を見ながら話し合っており、人垣越しに視線が合うと何やら浮ついた様子で指をさしながら身振り手振りを交えて大袈裟なリアクションを取る。アレはないやら巨人やら分かりやすい単語も拾えたので、同性は勿論、異性の平均身長すら軽く凌駕するを揶揄している時に見られる日常茶飯事の反応だとすぐに気付けた。無論、相手との間に面識はない。
 遅れながら弟の異変に気が付いた三男坊の終も即座に原因を看破し、数秒だけ後ろに送っていた視線を前に戻した後で、下らない暇の潰し方する連中がいると吐き捨てた。
 竜堂家の人間は血縁者以外から身内を中傷される行為を酷く嫌っており、これは常日頃家族内で苦言を呈されているでも例外扱いされていない。特に物心付く前に両親を亡くした年少組にとって年の離れた長姉は親代わりでもある為、一切の遠慮を必要としない軽口を叩き合っていいのは自分と兄弟と従姉だけだと考えている節がある。
「姉貴に言い寄る度胸も隣に並べる自信もないからイソップ童話の狐みたいな事を言ってるんだぜ、きっと。つまんない人間だよな」
「あら、入場料を支払っているとはいえ二足歩行させた動物を人類と同等扱いする価値観は独善的で賛同しかねるわ、服を着せる事も含めてね」
 淡々とした表情を崩さないまま、あれがヒト科の生物に見えるのかと疑念に塗れた眼で返したに、軽蔑の感情を浮かべていた三弟は抱えていた苛立ちを掻き消し釈然とした様子で腕を組み大きく頷いた。
「おれさ、続兄貴が毒舌化した原因って姉貴の教育だと常々思う」
「余が反証として育ってるから口の悪さは当人の資質でしょう。大体、続だったら相手に聞こえるよう直接食って掛かるか、既に怪我人出してわよ」
「今まさにフェアリーランドで遊んでる最中の台詞じゃないって意味もあるんだけど。あ、3人です」
 ダークグリーンのエプロンドレスを着た無表情の女性キャストに人数を告げる事で会話を打ち切った終は、通された先の広い通路での左に寄り、何かを示し合わせていたかようなタイミングで余も右に並ぶ。
 年少組に挟まれる形となった長姉は一体何事かと2人の旋毛を見下ろし口を開くが、頭の中の言葉が声に変化する前に柔らかさの残る手が彼女の右手をしっかりと握った。
「姉さん、傍にいてあげるから怖かったら出るまで握っていてね。兄さん達には秘密にするから、我慢したら駄目だよ?」
「いつも思うけど意外だよなあ。姉貴にも人並みに怖いものがあるなんてさ」
 一体誰が、何時、機械仕掛けのお化け屋敷如きを怖いと宣言したのか。
 思わず尋ねそうになった台詞の頭に10年以上前の記憶の手が伸び、押さえ込み、辛うじて飲み下す。
「……ま、本物の幽霊が現れたら任せるわ」
「うん。何かあったらぼくが守るから」
「なんだ余、やけにやる気じゃないか」
 実力はあるのだが年齢を理由に守られる立場に回される事が多い弟の反応を見て、姉は男の子ねえと軽く口元を押さえながら目を細め、兄は少々呆れがちな反応をした。
「だって終兄さんも幽霊が苦手でしょ?」
「違うって、苦手じゃない。どう退治していいのか分からないから嫌いなだけだ」
 モンスターもゾンビも怪獣すらも実在していたら鼻歌交じりで立ち向かえるが幽霊だけは物理攻撃が効かないから好きではないと説明し兄の威厳を保とうとする終を、余はただ優しい目で見つめている。
 どこまでも微笑ましい年少組のやりとりに、自分の様に弱者の振りをして譲ってやればいいものを、となどは思ってしまうのだが、唯一の弟に守られるなど言語道断という三男坊の気持ちも分からなくはない。彼女自身、仮にこの相手が双子の弟や次男坊ならば終以上に譲らずサルミアッキを口に含んだような顔で相手が根負けするまで訂正を繰り返すのは想像に難くなかった。
 小動物のような可愛げがある方の弟達に挟まれながら青年の肖像画が飾られた薄暗い部屋に通されたは己の身長を考慮して壁に背を預け、天井から降ってきた屋敷の主の音声を右から左へ聞き流しながらプレショーを楽しむ左右の頭部を穏やかに見守る。
 その内の左側の癖毛を見下ろし、先程言葉を止めた記憶の形を確かめてから誰の耳にも入らないくらい小さく呟いた。
「そういえば、あれも夏休みに入ったばかりの頃だったかしら」
 がまだ中学生に上がったばかりのある夏の夜の一幕である。
 長男と次男のどちらがチャンネルを決定したのか、が台所で片付けを終えて居間に顔を出すと夏の風物詩とも言える心霊特集の番組がテレビに映し出されていた。
 当時まだ幼稚園児だった終も兄に挟まれた場所でそれを視聴しており、がやって来た事に気付くと今まで大人しさが嘘のように小さな腕を目一杯広げながら慌ただしく駆け寄って来た。そうして普通の幼児には出せないような力で膝を付いた姉に抱き着くと、不安げな顔と涙に濡れた大きな目で訴えかけたのだ。
「ねえちゃん。おれ、オバケやっつけれないのヤダ」
 怖いでも眠れないでも風呂やトイレに行けないでもなく、倒せない。
 攻撃の対義語を逃走でも防御でもなく反撃と答える竜堂家の家風を立派に引き継いでいる幼子に、さてどのように宥めようかと数秒だけ考えてから、彼女は話題を逸し自らが弱者になる道を選んだ。
「やっつけようと頑張れるなんて、終はとても強い子なのね。お姉ちゃんはオバケが怖くて動けなくなるの、だから、オバケが出たら終が手を引っ張って逃げて欲しいな」
 当時から既に、物理法則を捻じ曲げてでも心霊現象を蹴り上げ再度地獄の門を拝ませるべく死ぬまで殴り続けていそうな暴力の権化だった姉から飛び出したあんまりな嘘に、テレビから姉弟へと視線を移していた中学生の始と小学生の続は何事かを訴えるように顔を見合わせたが、まだ清らかな純粋さを失っていなかった終が小さな拳で涙を拭いながら何度も頷いていたからか流石に口を噤んだ。
 その記憶が10年間訂正されず、しかし年を重ねる毎に細部から剥がれ落ち、いつしか終の中に残ったのがは幽霊が怖いという情報だけだったのだろう。
 まあ、少年らしい可愛い勘違いなのだからそのままにしておこうではないか。
 頼り甲斐のある肉親振りたい弟にそれ以上は触れないまま次の部屋に移動し、伸びる絵画や一瞬だけ現れる首吊り死体の演出に感心しながら、は暗闇に慣れた目で短い列の最後部に並ぶ。少し前には例のグループが並んでいたが、趣向を凝らした内観になど目を向けずしきりにを振り返っているのはアトラクションに慣れているからなのか。
 TPOさえ許せば彼等を1000人目以降の亡霊達として推薦してやれるのにと中々物騒な考えを真顔で考えているの顎の下では年少組が何事か話し合っており、館の主からの案内音声に混ざりながら終がよし決まりと頷いた。
「おれが先に1人で乗って、姉貴と余のペアにしよう」
「折角3人乗りなのに残念だね」
「うちのサイズの3人乗りじゃなかったのが盲点だったなあ」
 年少組の視線の先で流れている黒い卵型のポッドは大人2人の子供1人が乗れるような3人用で、そういえばこれくらいのサイズだったとは先程の勘違いを訂正するべきだったと早くも後悔した。
 どうせなら年齢と感性の近い年少組を纏めてポッドに乗せた方が存分にアトラクションを楽しめただろうに、しかし既にその組み合わせで満足し切っている2人に水を差すのも悪く感じ、結局、キャストに促されるまま彼女は余と共に固い座り心地のポッドに乗り込む運びとなる。
 ポッドの内部では幽霊を模した音や声がスピーカーから立体的に響き、怖がらせるというよりは驚き、楽しませるような軽快な悪夢を演出している。
 末弟に手を握られたまま、それでも乗ったからにはと人並みに機械仕掛けのオバケ達の動きを満喫していただったが、ふとした違和感を覚え、次いで以前の記憶と照合して確信すると同時に片目を閉じた。
 ポッドが、コースが外れている。
「余、ポッドが停止したら荷物持って終と合流なさい」
「何か変だなって思ったけど、気の所為じゃなかったんだ。終兄さん大丈夫かな」
「捕まったりはしていないでしょうけど、やり過ぎない保証が、ちょっとね。あの子は昔からトラブルと親友付き合いして騒動を大きく育てる才能があるから。じゃあ、今言った通りにするのよ」
 握られていた手を離して言い聞かせるように余の髪を撫でている最中、僅かな光源が頼りの暗闇の中でセーフティーバーが自動で動き出した。
 それが上がり切る前には閉じていた目を開いてポッドの外へ軽やかに飛び出し、勢いを殺さないまま着地点にいた人影を2人分薙ぎ倒す。
 遠くで姉貴ズルいぞと抗議の声が上がったがは止まるつもりはないと行動で示し、女相手に先手を取られると予測していなかった男の懐に潜り込むと袖を掴んで引き寄せながら掌底で顎を砕いた。歯を撒き散らしながら気絶した大柄な肉体を高々と振りかぶり、奥で固まっていた一段に向かって投げ付けた次の瞬間には新たな獲物の頸を目掛けて踵を蹴り上げ意識を刈り取っている。
 ポッドが停止した音を耳にしてが背後を振り返った時には既に足元に瀕死の男達が1ダース程転がるばかりで、無傷なのは彼女自身と、やっと暗闇に慣れた目で近寄って来た2人の弟だけだった。
「あーあ。1人で全部片付けてやんの!」
「アンタ達に勝手させるとアトラクション壊すでしょう」
「壊したくて壊してるんじゃないや。ちょっと暴れると壊れちまうんだよ」
「やり方がなっていないだけじゃなくて? 少し気を使えばこの通りで済むのよ」
「ポッドも止まっちゃったし、ぼく達だけコースから外れたままけど、これからどうしたらいいのかな?」
 3人の中で最も建設的且つ有意義な意見を述べた末弟に姉兄は言い争いを一時停止し、終はを見上げて指示を仰いだ。このような非常事態に陥った場合、竜堂家の人間は必ずその場の最年長者に意見を求めるのが慣例となっていたからである。
「尋問するから少し待ってなさい。それから外の2人と合流しましょう」
「でも、上手く合流出来るかな。兄さん達も襲われてるかも」
 待ち合わせ場所に既に2人の兄はいないのではないかと余が口にすると、まだ意識のある巨漢の1人を片手で持ち上げながらも肯定した。
「でしょうね……待ち合わせ場所の近くにサービスステーションがあったかしら。向こうに非常口が見えたけど、地上だと待ち構えられているかもしれないから地下を通ってあそこまで行きましょう」
「迷子のお知らせでも放送して貰うつもりかよ」
「その素晴らしい案の実行役は終に任せるわ。余は一緒にサービスステーションの裏手まで来なさい、始の事だから尋問するにしても人目を避けたがるでしょうから」
「やっぱり姉貴は続兄貴の姉貴だ」
 なおざりな対応をされ嘆く三男坊には目もくれず、は足元に転がるハンドガンを軽く蹴り浮き上がらせると、正真正銘の飛び道具として通路の分岐点方向に投擲する。竜堂姉弟が万が一逃亡した場合に備え待ち伏せしていたらしい男は暴発こそしなかったが銃の本体で内臓を突き破られ、その場で昏倒し血と胃液を濁流のように吐いた。
「まったく、まだまだ湧いてきそうね。終、通路側を警戒して、余は反対の非常口側。銃撃に気を付けながら迎撃に徹して、深追いは厳禁」
「了解」
「任せて」
 安全な作り物のスリルから安っぽい本物のスリルへと移行した日常をごく当たり前のように享受した年少組は元気良く返事をする。そんな弟達に笑みを零したは吊り上げた男の胸元からナイフを探り当てると艶やかな笑みに切り替え、この暗闇では効果がないと思い出し引っ込めた。
「さてと、記念すべき1000人目の亡霊にならないよう貴方達の諸々について手早く吐いていただけるかしら?」
「死か。そんなありふれたものを怖がっていたら、この仕事は務まらんさ。お嬢さん」
「あらそう。立派な職業精神疾患を患ってるようね、左腕から始めましょう」
 言いながら、アトラクションの最中に姿を消した自分達こそ先程のグループに亡霊扱いされているのではないかと単純な疑問が脳裏を過る。
 そんな緊張感に欠ける事を考えながらはナイフを逆手に持ち替え、ハードボイルド気取りの男の二の腕に躊躇なく切っ先を突き刺して、癇に障るやせ我慢を瞬く間に崩壊させたのだった。