夏休みはおとなしく
騒々しいが落ち着いた雰囲気を滲ませる中野区の住宅街の一角で水を撒く音が加わる。古びた洋館の広い庭に両腕に収まるサイズの虹がかかり、水を止めたホースを手にした麦わら帽子の女性が儚い涼風を全身に受けるように伸びをして燦々と降り注ぐ太陽の光で白い肌を焼いていた。同時に、何処かから強い風が吹き付け帽子を宙に攫い、顕になった明るい茶色の髪を絹で織られた天鵞絨のように揺らす。
傍らを駆け抜けた風と陽光に目を眇めても品を失わない顔立ちに現役のモデルや女優すら霞むようなスタイルは女性にしては規格外の180cmを超える身長と相まって場所が場所ならばさぞ人目を惹いた事だろう。年の頃は二十歳を少し超えたくらいだが、女帝を思わせる重く固い風格を持ちながらも従容自若とした姿は同年代の中で浮いているように見えた。
もっとも、どれだけ威厳に溢れていようとも、今現在彼女が手にしているのは何処の家庭にも備わっている散水ホースに他ならず、やっている事も庭の水撒きと大変所帯じみたものなのだが。
高貴な身分を隠して庶民の生活をしているような、どことなく歯車が噛み合わない印象を他者に与える女性、この家の長子である竜堂はというと、特段自分の容姿や行動を気に留めずホースを片付け、色の褪せた男物のジーンズの裾を水滴で濡らしながら帽子を拾いに歩き出す。
しかし、彼女の長い脚は帽子へ辿り着く前に停止した。深い黒色の視線の先には一人の男性が立っており、その白い手が帽子を拾い上げたからだった。
腰を屈め帽子を取るだけだというのに一枚の絵画のように錯覚してしまう程の絶世の美貌に洗練された身のこなし。凡そ常人とは言い難い遠い国の王子様めいた男性が自分の持ち物に触れれば世の女性は色めき立つものだが、は平然とするどころか半ば呆れがちな表情を浮かべ腰に手を当てるに留まった。
それもそのはずで、王子様の名は竜堂続といい、ミルクから離乳食を経て現在進行系で食事を含めた諸々の世話をしているの二番目の弟だった。その類稀な美しさから世間で称賛を浴びる青年も実姉にかかれば生活能力が残念なただの弟に過ぎず、2人の間に流れる空気には熱がなく、夏の暑さと交ざり斑模様となっている。
「ただいま帰りました。暇そうですね、姉さん」
「おかえりなさい。アンタ程じゃないけどね、愚弟」
開口一番は辛うじて保ったが、二番以降で既に非友好的な態度を取り始めた両者は互いにうんざりした表情を浮かべ、同時に溜息を吐く。気温に便乗して強力に自己主張する湿度の中で口論したくないと先に折れたのはで、顔面に向かってフリスビーのように投げられた帽子を片手で難なく受け取ると続を通り過ぎ玄関へと足を向けた。
「お昼ご飯食べてないわよね。今から作るけど、冷やし中華とジャージャー麺、どっちが食べたい?」
「その2択なら冷やし中華をお願いします」
息をするように悪態を応酬しながらもそれはそれとしてごく普通に昼食の決定権を投げ掛けたは返球を受け取ると、じゃあ肉味噌は焼いた厚揚げに乗せようと独り言でメニューを取り纏める。姉の横で靴を脱いでいた続は、もしもジャージャー麺を選んでいたら冷やし中華は一体何に変身していたのだろうかと気になったが、態々声に出してまで訊く内容でもないので黙っての背中を追った。
続が再度口を開いたのは台所に入ってからで、冷蔵庫横の家族の予定が書き込まれているカレンダーを捲りながらボールペンを手に取り、話しかける。
「姉さん、7月22日の日曜日なんですが、フェアリーランドに行きませんか」
「日曜ならいいわよ、お店も休日だから。そうね、終と余が夏休みに入るものね」
もで振り返らず鍋で湯を沸かし始めてから卵を片手に取り、宙を眺めて脳内のスケジュールを確認すると、その一言だけで続の目的を悟り了承した。
竜堂家の人間は偶に世間や社会から逸脱した能力を発揮する場面もあるが、根本的な価値観は日本人の庶民と大きな違いはない。遊び盛りの三男と四男、高校生の終と中学生の余の為に家族レジャーを計画する次男の提案を長女は快く受け入れた。
続が挙げたフェアリーランドとは浦安市の総面積の1割を超える巨大遊園地で、日本はおろかアジア各国からここを目的とした観光客が訪れる人気のテーマパークである。自身は友人に誘われ何度か訪れた事があったが家族として行くのは初めてだった。というのも、竜堂家の姉弟は最年長と最年少の間に10歳の開きがあり、弟の年齢や身長制限、姉の受験や就職活動等が理由で今まで姉弟全員の都合が付く年がなかったからである。
「始には訊いたの?」
「これからですけれど、多分大丈夫でしょう」
竜堂家の長男で家長でもある始はと双子の姉弟で23歳になるが1ヶ月程前から失業中ということで、自由に使える時間が少なからずある。元は竜堂姉弟の祖父である司が創立した共和学院で常任理事と高等科の教師として勤めていたが、紆余曲折を経て義理の叔父で学院長である鳥羽靖一郎の手で体良く追放されてしまった。
現在進行系で祖父の遺した古書整理を黙々としている姿を脳裏に浮かべてすぐ消したは、まあそうねと気のない同意を返しながら卵をボウルに割り入れて、シャワーを浴びたら尻から根を生やしている活字中毒者を地下から引っこ抜いて来いと指示を出す。
「ああ、それと今日は同伴だから早く出るわ。料理だけ作っておくから夕飯はお願い」
「分かりました。それにしても相変わらず、世の中にはお金と暇を持て余す奇特な男性がいらっしゃるようですね。自動販売機よりも上背のある女性に食事や金品を貢ぐなんて」
「うるさいわね、四捨五入すればアンタと同じ身長よ。それよりお腹空いてるでしょ、アンタの分の冷やし中華だけ湯気通しにしてあげるからさっさと浴室行きなさい」
フライパンに卵液を流し薄焼き卵を作りながらほぼ生麺を出すと脅す姉を前に、続は肩を竦めながらも己の発言を訂正しなかった。
始とは異なる経緯で本業と副業を同時に失う羽目となったは数日後には就職先を確保し、現在六本木のキャバクラのキャストとして連日働いている。叔父一家虐殺の殺人犯として顔写真付きの冤罪を食らった人間を雇うキャバクラなどあるのだろうかと自身も初出勤日まで半信半疑であったが、高身長を売りとする店且つ、ラウンジ時代の太客を複数引っ張って来た事が功を奏したらしい。
そんな失業直後に姉が夜職に転職すると知らされた弟達の反応は様々で、春先に口にした冗談が現実となってしまった終は盛大に狼狽え、姉の性根を熟知している始は怪訝な顔をしたが、逆に余は体を壊さないよう無理だけはしないでねと若干心配しつつも笑顔で肯定していた。そして当時も今も散々揶揄している続はというと、嫌味を連綿と口にしつつもキャストとしての経験値と実力は承知しているからなのか本心を隠すように淡々としている。
まったく続らしい反応だと苦笑を浮かべたは遠くで微かに聞こえるシャワーの音を聞きながら手際良く材料を細切りにし、麺を茹で、グリルで厚揚げを焼く。無論、湯気通しは冗談で、3人前の2.5倍程の量がある麺は大鍋の中でしっかり茹でられていた。
昼食の用意が済む頃には汗を洗い流した続と、活字の世界から現実に帰還した始が仲良く食堂に姿を現し、年少組が共に食卓を囲む朝や夕に比べると静かな食事が開始される。
「それで、始も行くんでしょ。フェアリーランド」
「ああ、そうだな。特に予定もないし」
まだ半分程の意識を書物の世界に飛ばしつつある双子の弟の返事を聞きながら、は厚揚げを箸で崩した。
「行くなら電車よりも車よね、運転はどうするの? わたしは帰りを担当したいんだけど」
「それでいいんじゃないか」
「姉さん、土曜日も仕事でしょう。代わりにぼくが運転しますよ」
「ありがとう。でもね、続。世界の秘密を貴方は知っていて? 遊園地の絶叫マシンが楽しいのはね、安全装置が付いているからなの」
同乗者を車体に叩き付けて撲殺するか慣性の法則とシートベルトの合わせ技で縊死か圧死させるタイプの交通死亡事故をいつか起こしそうな弟の運転技術をは一切信用しておらず、月曜日も出勤予定だからと更に理由を付け加えて駄目ではなく無理だと却下する。
比喩ではなく滅多な事では死なない姉に人命に関わると断られた続は明らかに機嫌を損ねた様子だったが、これについては始もフォローせず心の中で姉に同意した。
なにせ続のドライビングテクニックは荒いを通り越し目を覆わんばかりの酷いもので、教習所から全額返金するから他所へ行ってくれと泣き付かれなかったのが不思議だと思える程の技術だったからだ。飲み会の帰りに急な雨に見舞われ、傘がない状態で最寄り駅から自宅までどのようにして帰ろうかとアルコールに浸った脳で免許を取ったばかりの続を呼んでしまった日の記憶が鮮明に蘇り、人知れず始は視線を逸らす。
人生初にして出来れば最後にしたい車酔いを思い出している双子の弟に気付いているが興味のないは、そんな事よりも未成年らしく遊園地を楽しんだらと話題を逸していた。
「計画を立てておいて何ですが、ぼくはあまりフェアリーランドが好きではないんです。混雑しますし待ち時間も長い、アトラクションも演出だけが過剰で内容そのものは大した事ありませんから。良くも悪くも誘われて行く人付き合い用の場所ですよ、あそこは」
「続らしい意見ね、それに否定も出来ないかしら。だったらフェアリーランドは止めて、富士急か、ちょっと遠いけどナガシマ辺りに変更しましょうか。ナガシマなら夏季限定で開放される海水プールもあったでしょう、世界最大級の」
「いえ、結局はぼく達ではなく終君と余君がどうしたいか、ですからね」
夏休みを前にした情報番組が特集するフェアリーランド名物のゴシックハウスや世界一の長さを誇るご自慢のジェットコースターに目を輝かせていたと続から告げられ、それならば仕方がないとも笑う。
年長組に当たりが強いこの長女も、年少組にはすこぶる甘いのだ。
「ま、フェアリーランドを手始めにして、残り2つも夏休み中に連れて行ってあげればいいだけの話よね」
夜職に変わり体力さえあれば昼間に自由な時間を得られるようになったの提案に、2人の弟はタフな人だと半ば以上呆れた様子で、それでも否定はせずにゆっくり笑う。
末弟の余が富士の演習場で竜身に変じるという現実離れした事態からおよそ1ヶ月。黒幕であった船津老人の怪死によって取り戻した静かな生活を壊さないよう、3人の姉弟はそれぞれの胸中を表に出さないまま、夏の暑さが本格的に訪れる前の空気の中で穏やかな時間を享受した。