竜王顕現
空すら見上げられないほど疲弊した者と、見上げられたとしても脳が現実の受け入れを拒否して逃避を選択する者達の頭上を、長大な緑竜が琅玕の鱗を輝かせながら遠洋で暮らす鯨のようにゆったりと泳ぐ。
緑竜の頭上に座り腕の中の末弟を風雨や寒さから庇うように抱えていた始は、神話や幻想世界の生物は人目に付かないよう動くものだと思っていたが、局所的豪雨が作り出した泥海の中を行進する人間達を見下ろしながら悠然と移動する緑竜はこの場の主人は自分であると主張するかの如く堂々としており、笑ってしまうほど危機感を抱いていない。
続も同じ気持ちなのか、ここまで隠れようとしないと清々しいと苦笑し、終に至っては緑竜の眉間近くという特等席で滅多に拝む事の出来ない大パノラマを満喫している。一つ残念なのは黒竜に変化した弟が未だ夢の世界に入り浸って帰ってくる気配がない事だけらしく、折角姉貴が竜に変身してくれたのになあと暢気な言葉を口にしていた。
「向こうにあるのはうちの車だよな。あ、始兄貴、続兄貴、きっとあれだぜ」
ずぶ濡れの遊覧飛行を心底楽しんでいる終が身を乗り出すようにして下方を指すと、緑竜はその通りとでも言うように地上へ向かう。幸い、茉理達を乗せた車は黒竜の顕現よりも早く公道に辿り着けたようで、泥に沈んだ様子もなくアスファルトの上でハザードランプを点灯させながら停車していた。
そこから少し離れた演習場内の丈高の草叢に緑竜は無音で着地する。車の死角に降下したのは叔父夫婦の反応を面倒臭がったからだろうと考えながら始は余を抱え直し、短いながらも空の旅に満足して足取りも軽やかな終の後を追う。
弟達が全員地上の住人へ戻った事を確認した緑竜はエメラルドの瞳を閉じて、黒真珠の瞳を開く。変身のプロセスが異なるので全裸になった末弟と違い服こそ着ているが、さてどうするかと喉に触れ、腕を捲くった。
「姉さん、いますか」
「先に行ったんじゃなかったの?」
「着る物に困っているかもしれないと思いまして」
「あら、ありがとう。助かったわ。そこに置いてくれるかしら」
この辺りの気遣いは続が頭一つ抜けていると素直に感謝しつつ、は声がした方向に歩き出すと、数歩も歩かない内に大柄な男性から頂戴したであろう迷彩柄の服を発見した。竜堂家の腕力で軽く脱水した上着だけを着込んで更に数歩進むと何故か続が待ち構えており、目視で上から下までを一通り確認される。
「服は無事なんですか」
「まあね。でも感謝の気持ちは本当よ、ちょっと誤魔化せなかったから」
作業服を軽くはだけると水分を含んで透けた白いシャツが覗き、薄い布が張り付いた皮膚には真珠色に輝く鱗が無数に浮かび上がっていた。その光は、全く衰える様子がない。
出現した時は全身が透明度の高い翡翠色していた緑竜だったが、黒竜との戦闘後は所々鱗が白っぽく輝いていたと今更ながら続は思い出した。
「随分一方的でしたからねえ」
「少しは善戦出来るかもって驕っていたけど、矢っ張り竜王相手じゃ無理みたいね」
「最初から負ける前提の口調のように聞こえますが、そもそも何故あのタイミングで変身したんですか」
「余と約束したの。夢でも現実でもいいから、一緒に竜になるって」
「あの様子だと、余君の意識はありませんよ」
「それでもよ」
薫風のような笑顔で後悔はないと断言したを見た続は、当人が納得しているのならばそれ以上何か告げる必要もないだろうと肩を竦めた。無言で手を差し出す姉に事故を起こさないよう忠告しつつ車の鍵を投げ渡してから、普段通りの自信に満ちた足取りで草叢を掻き分けながら突き進む後ろ姿を黙って追う。
我の強い人だと呟かれた言葉は風に流されての耳には届かず、代わりに、今までの爽やかな空気を打ち壊すような叔父のヒステリックな怒号が公道の方向から流れて来た。
「触るな。茉理にも触るな。もうまっぴらだ。お、お前らに関わるのは、もうごめんだ。何で私がこんな目に遭わなきゃならないんだ。私は大学を出てから30年も、学院の為に働き続けてきたんじゃないか。私ほど、学院の為を思ってきた人間が他にいるか、ええ!? それを何だ、寄って集って、私を甚振って、そ、そんなに楽しいか。どうなんだ。何とか言ってみろ、おい」
攻撃的な負の感情を一通り爆発させた後に始が半ば諦めるように宥めるような声が微かに聞こえるが、こちらは叫んでいる訳ではないので内容までは分からない。
嫌な予感がするとが無言で振り返り、続も同意を示すように視線を返した。
今、あの場にいるのは良く言えばおおらかで器が大きく平和主義で懐が深い3人、悪く言い換えてしまえばお人好しの始と終と余だった。憎まれ役を平然と勝って出て、誰から恨まれようが笑い飛ばし、竜堂家の利益を優先して確保し、叔父が正面衝突を避けたがっている辛辣で容赦のない姉弟がいない。
「流れで変な口約束してないでしょうね」
双子の弟の性格を熟知しているは数秒の沈黙で最大級まで膨れ上がった不安を糧に、強靭な脚で泥水を跳ね上げ、草叢を疾走した。続も兄の性格を顧みて強く否定出来ない事から黙ったまま並走し、2人はほぼ同時に公道へ出る。勢いを殺す為にアスファルトに突き立てた靴裏が音を立てて擦り減り、ゴムが焼け焦げるような臭いが辺りに漂った。
未だ幸せそうに眠っている余を抱えていた終が殺気立った長姉の登場に一瞬で顔面蒼白となり弟の保護という名目で安全地帯に避難する。靖一郎は過激な甥姪の到着に気付いていないのか、視線は最年長の甥に固定されたままだった。
「君は講師も辞めると言った。私の好きなように学院を運営していいと言ったぞ」
「確かに……」
「よし、今月いっぱいで辞表を出してもらう。退職金は出してやるから、後腐れのないようにな。私は、ちょ……っと」
先程のヒステリーは何処へ消えたのか、奇妙に血色と元気が良くなった靖一郎だったが、視線の先に笑顔で仁王立ちする姪の姿を確認すると舌の回転と共に血の巡りも活力もマイナス方向へ一気に振り切れた。血の巡りの緩急が原因で姉が手を下す前に叔父は自死するのではなかろうかと遠くで成り行きを見守っていた終は思った。
「ちょっと、どうしたのかしら。叔父様?」
傍目には慈母の微笑を浮かべ続きをどうぞと促すの両肩から初夏の雨天下では有り得ない陽炎が立ち昇る幻影を靖一郎は目撃する。
始との約束は学院長と講師という立場で交わされた共和学院という職場内の話であり、部外者であるには全く関係がないのだが、乱世を生き抜き討ち取った首級の確認を申し出る豪傑じみた圧が言葉になる以前の正論を思考段階から破壊していた。
そんな理不尽極まりないの脅迫を、この場で唯一、彼女よりも身長の高い人間が肩を叩いて止める。
「姉さん、いいんだ」
「……だったらせめて、その情けない面を繕う努力をなさい」
当事者である弟の表情を見たは単純な笑顔から苛立ちと不満と諦観を混ぜた複雑な表情に切り替え、舌打ちと共に肩に置かれた手を払い除けると、説得力がないと愚痴を溢しながら大きな溜息を吐いてその場から立ち去った。気性の烈しい肉食獣のようなが矛を収めると張り詰めていた空気が弛緩し、一部の人間が胸を撫で下ろす。
その一部には含まれない茉理が入れ違いに始の元に小走りで駆けて行き、ライトバンの後部座席で偏頭痛を抑える為にアスピリンを服用している冴子に近付いたは視線を交わして意味ありげな目礼だけすると、助手席で未だ眠っているままの余の元へ歩み寄った。
装甲車に戦車、対空機関砲を含む諸々の兵器に加え9000人からなる師団を1人でほぼ壊滅させた13歳の少年は、車の中に備わっていた携帯用の毛布に頬を寄せながら天使の寝顔で心地良さそうに夢の国を旅している。終はその隣でジンの小瓶に口を付けていたが、気付けとしてなのでも飲酒自体は咎めなかった。しかし、発汗と解熱作用があるから大量に飲まないように注意をすると、頷かれる前に一口で十分と終は蓋を閉める。どうやら、味も度数も合わなかったようだ。
「うーん、姉貴の家で飲んだ方が甘くて濃厚っていうか、コクがあって美味かった」
「そもそもジンはそうやって飲むものじゃないからね。大体アンタ、家で飲んだジンも胃が焼けそうだからって舐めるだけで終わったじゃない」
「そうだったかな。なら蒸留酒が合わないのかも。ワイン程度でいいや、おれは……」
「じゃあ、家に放置されてる一升瓶は続に消費して貰いましょうか」
「でも飲まず嫌いと食わず嫌いは良くないよなあ」
「まったく、調子がいいんだから」
たった一言で手の平を返す終から小瓶を取り上げたがごく自然な仕草で中身に口を付ける。初めて見た光景が生み出した強い違和感に、一拍置いてから終が気付いた。
「姉貴、下戸だって言ってたよな」
「今は違うわ」
「下戸って治るもんじゃなかったような。あれ、飲み続ければ慣れるんだっけ?」
腕を組んで頭の中に疑問符を浮かべた弟にジンの小瓶を返し、中間試験が近いのだから思考力を磨いてみるといいと笑いながら言うと、先程続から手渡された鍵を掲げて視線だけで遠くを示す。
「じゃあ、わたしは車取りに行くから余の事お願いね」
「え。うん、それはいいけど」
「あら、文句でもあるのかしら」
素直に頷かず姉に小突かれた終は辺りを窺い、年長組から十分に離れている事を確認してから、目を閉じて後部座席のシートに身を沈めている叔母に聞かれないよう声を潜めて自分の気持ちを表明した。
「無理すんなよ。姉貴、平気なふりしてるけど具合悪いだろ」
不満とは真逆に位置する思わぬ指摘には開きかけた口を噤み、雨に打たれて元気のなくなっている癖毛を黙って撫でながら目を細める。空元気を止めろとも言えず俯いてしまった弟の頬が膨れているように見えたが敢えて触れないまま、囁くような声で感謝の言葉を伝えるとその場を立ち去った。
大きな水溜りを避ける事なく真っ直ぐ突き切り、靴を濡らしながら道半ばで振り返ると、末弟が夢の国から帰還したのか弟達と従妹が普段通りの表情で助手席付近に人の輪を作っている。そして、隣に座しながらその輪から外れ、煩慮の表情でを見つめる叔母の表情も目に入った。
次はもう少し上手く取り繕えるよう祈りながら視線を外したは一人、前を向いて再度歩き出し、すぐに立ち止まった。
「そういえば、飲酒運転ね」
常識の範疇に収まる独り言を口にしながら足元の水を跳ね上げ、今日一日だけでも散々非常識な事をしでかしたので今更犯罪履歴に一項目追加された所で誰が困る訳でもなしと殆ど間を置かず開き直る。
どうせ酒気帯び運転にはならないのだから、と続けられた自嘲に似た声色で彩られた言葉を耳にする者はおらず、背筋を伸ばしたの足元には美しい波紋だけが残った。