竜王顕現
通勤時間を終えた平日の時間帯という事もあり渋滞に巻き込まれる事なく進む車の中で、年長組は昨日から今日にかけて互いの身に起こった出来事を報告し合い、時折年少組から差し込まれる茶々をあしらいながらも5人は船津老人による企ての全体像を掴んだ。
情報統制を受けている間に叔父一家惨殺事件の犯人として顔写真入りで実名報道されたと知ったは矢張り暗殺が最善手だったと呟いて弟達の笑いを誘う。もっとも、笑みの種類は弟によって異なり、五十音順に、苦笑、失笑、微笑、冷笑であった。
「ま、いいわ。こうなったら解雇されるのは目に見えているんだから、精々退職金と失業保険を毟り取ってやるわよ」
「意外だな、姉貴の事だから不当解雇だって徹底抗戦するもんだと思ったけど」
一応、日本は冤罪を理由とした解雇処分は不当とされる国のはずだが、大多数が知るようにそんなものはメッキどころか水彩絵の具レベルの建前であり、雇用側は適当な言い訳を並べ無罪、或いは無実の人間に対し自己都合による退職勧告という矛盾した行動を押し付けているのが現状である。
泣き寝入りという言葉と無縁そうなならば法律を盾に戦うに違いないと終などは考えていたようだが、懸念材料が複数あるので今回は手を引くと説明が加えられた。
「正義を執行するつもりなんて毛頭なくて、お金が欲しいだけだもの。裁判まで縺れ込むと訴訟相手が倒産して徒労に終わる可能性が高いのが1つ目」
自身が引く事により今後同じような被害者が生まれようとどうでもいいと言外に放ったは、それよりも重要な懸念を続けて口にする。
「もう1つは、ロキから聞いた敵の正体があの怪老と一致しない事」
船津老人は結果的に鳥羽家を殺害しなかったが、今後出てくるはずの敵が同様に見逃してくれるとは限らない。そもそもロキの表現する敵から推測すると人間の理屈など通じないやり方で接触してくる可能性も考えられ、身分や時間が拘束される勤め人は不利な立場にあると続けられる。
「姉貴の言う通り、あのじいさんは不気味だけど真の敵って雰囲気じゃなかったな。そういや、兄貴達も今までの敵はジグソー・パズルのピースみたいだって話してたぜ」
「まあ、悪役然とした正統派の悪役ではあったわね。個人的にはもっと……」
言い掛けては舌を止め、運転席に座る弟の後頭部を眺めながら続くはずだった音を表情を変えないまま奥歯で噛み砕く。
船津老人は竜の血の効力を身を以て体験しており、もまたそちら側に属していた。ならば、悪役らしくこう囁いて精神に揺さぶりをかければ良かったのだ。
たった1滴でも母親に血を分け与えていれば、病弱だった彼女は今も生きていたかもしれないだろうに、少なくとも君の姉はそれを理解している身だろう、彼女は救えるはずだった母親を見殺しにしたのだ、と。
それは過去に、幼いがロキから齎された悪魔の囁きと糾弾だった。
ただ、同時にロキは利点と共に欠点も説き、竜の血を与えられた人間がどのような末路を迎えるのかも彼女に教えていた。祀られる神の名を騙る釣り合いを取る為に併せ持った奇妙な公正さからではなく、現状に甘んじていると既に双子の弟から血を受けいずれ船津老人のように無残な姿で死ぬ運命にあるに対する嫌がらせである。或いは、彼女を今の状態に追い込む為の布石か。
兎も角、船津老人がこの角度から始を攻めなかった事はにとって甚だ幸運だった。
家族愛が強く、ただでさえ思い悩む事の多い双子の弟にこの感情は劇薬となり、心の内を一生蝕み続けるだろう。ならば自分だけが密かに抱えていればいい、それが姉として生きると決めた家長ではない長子の役割だろうというのがの理論と決意だった。
竜堂家らしくない屈折した生き様かもしれないと一度ならず考えたものの、姉弟が5人もいるのだから1人くらいこのように生きても構いはしないだろうと前向きに肯定しているあたりは、も立派に竜堂家の一員である。
「姉さん?」
「終と余がいる場では止めましょう。倫理的にも精神衛生上も良くないから」
途切れた言葉の続きを問いかけた始は、地獄の悪鬼を統率する親玉のような笑顔のを見て大きな溜息を吐く。
「一体何を考えていたんだ」
「あら、そんなにお姉様の豊かな想像力を感じてみたいの? 後でなら幾らでも教えてあげるからいらっしゃいな、続も一緒にね」
「遠慮しておこう」
「結構です」
表情までは見えないが確実に嫌そうな顔をしている弟達の拒絶を耳にして、は声を立てずに笑った。このように言えば、姉を煙たがっている年長組は確実に追求しない事を彼女はよく分かっているのだ。
反対に、子供扱いされ膨れる微笑ましい年少組を眺めたは、長い足を組みながらシートに深く座り直す。
「ま、それで敵の正体なんだけど、やっと具体的な名前まで教えて貰ったから一応伝えておくわ。当面は共工で手下に相柳、共工と同格の幹部に欽䲹、ボスは蚩尤、組織としての括りは牛種だけど今は四人姉妹を裏で操っているって。黒幕の正体だけは相変わらず勿体ぶっていて収穫なし」
「共工と相柳は分からないでもないが、欽䲹がいて総大将が蚩尤なのか? 共通点が見当たらないんだが」
言った後で、始は己の記憶違いに気付き苦い顔ですぐさま訂正した。
「邵継善の『補天石奇説余話』か」
始の記憶では、補天石奇説余話の天篇にこのような文章があった。
共工は蚩尤の余類にして常に俱に奸を謀り倿を為せるものとなり……また欽䲹も蚩尤に従い乱を作し科を犯すを好むなり。自らを討逆都元帥と称し天軍を將て竜王を伐たんとす。
鎌倉で船津老人から伝え聞いた書物が再び出て来た事を不審に思うが、一拍置いて、待てよと鏡越しにを見た。その反応を待っていたかのように頷く姉の姿を確認してから横目で続を見ると、こちらもきな臭いものを嗅ぎ取ったのか家長の代弁を請け負うべく口を開こうとする。しかし、先に年少組達が疑問を呈し、続のそれを遮った。
「姉貴の口ぶりからするとさ、敵の名前も四人姉妹とやらも全部、始兄貴があの化物じいさんに会った後で教えて貰ったんだよな」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、始兄さんが聞いた話を元にした作り話かもしれないんだよね」
「そういう事。そもそも敵の姿形は牛頭人身と聞いていたけど、共工と相柳って人面蛇身なのよねえ。欽䲹に至っては鳥だし」
信用ならない精度とタイミングだと全員が意見を一致させ、始が安全確認の為に周囲を見回した後でハンドルを切りながら一応の納得をする。
船津老人との接触は最も多かった彼ですら2度、記憶にないものを含めても3度に過ぎない僅かなものであったが、その間に牛に関連した何かを見出す事は出来なかった。皮膚には確かに鱗が浮かんでいたものの、それは竜の血を得た結果であり共工や相柳らしさもない。
無論、を通した自称神様の言い分を全面的に信用するのならば、の話であるのだが、現状で情報源になりそうなのはロキから齎されるものと竜堂家の地下に収蔵されているはずの祖父の遺稿くらいなので、検討材料に入れざるを得なかった。
もっとも、始としては真実にしろ虚偽にしろ、目の前の驚異と幻想の世界が過ぎ去った以上は平凡で平和な日常へ回帰したいという願望があった。彼は喧嘩好きの平和主義者を自称するくらいには荒事が嫌いではないのだが、弟達や茉理の命を危険に晒す場所からは出来るだけ離れたいのだ、そして、それに関してはも完全に同意見である。
ただし、竜堂家が大人しく人生を満喫しているからといって敵が残っている以上先方が手出ししないという保証はない。それどころか、確実に舐められて厄介事を持ち込んで来る宣託を受けた彼女は今も常に先手を打ちたがっていた。
「ロキの言った通り怨恨が理由なら、逃げても相手が調子に乗るだけじゃないかしら」
「勝手に付け上がらせておけばいい。敵だろうと中立だろうと、おれ達に干渉しないのなら敢えてこちらから攻撃はしないさ」
「意識して嘘吐いてるの? それとも手の施しようのない無自覚?」
「どういう意味だ」
「ああ、そう。詳細説明が必要なくらい日本語能力が落ちてるの」
胡乱な目で双子の弟の後頭部を眺めると、ミラー越しに双子の姉を睨み付けた始の間の空間が幻圧で軋む。弟達はそれぞれ無言で長兄に味方したり、車内で喧嘩は止めろよと正論をボヤいたりしていたが、キャンプ用のブランケットに包まっていた余が小さなくしゃみを一つすると2人は放出していた威圧感を瞬時に霧散させた。
姉兄の喧嘩を一言も発さず中断させた功績を褒めるべきか、末の弟に対してだけは際限なく甘い長子2人に呆れるべきか、次男坊と三男坊が熱のない視線を交わし無言の議論をしている間に、長子組に心配されていた末弟が体調は問題ないからと口を開く。
「あのね、それよりも姉さんに訊きたい事があるんだけど」
「なにかしら」
「敵が誰なのかは教えて貰ったけど、何処にいるのか知ってるの?」
先手を打つつもりならば最低限敵の位置情報を知らなければならないだろうと余が問い、3人の兄が不意を突かれた表情を浮かべた。対して、はその手の問答は既に済ませていると隠す事も臆す事もなく答える。
「今現在はチューリヒ、タイミング次第でロンドンって聞いてるわ。ただし、どっちも前哨基地扱いで本拠地は月。それと、竜泉郷は西寧の蓮華寺に地下通路の入り口があるらしいけど、無職になる事だから確認がてらそっちにも行ってみようかしら」
「外国は兎も角、また月かあ」
実生活で縁のない海外の都市を飛び越え大気圏外まで到達するとなると途端に非現実感が増すが、それでも実現不可能な戯言だと弟達が笑い飛ばさなくなってしまった状況には内心で唇を噛む。
無論、表情や気配には一切出さず、飄々とした姿を繕った。
「あら、終は火星やタイタンとでも言って欲しかったの?」
「地球外生命体が存在するっていうなら今の科学の延長じゃなくて、どうせなら太陽系を飛び出すくらいの夢が欲しかったかな」
「途方も無いスケールになりそうね。ああ、TRAPPIST-1eって地球型の太陽系外惑星がロキの世界では発見されているって」
「ふうん。それ今度、おれが見付けた事にして発表してみよう」
「精々センスのある名前を考えておくことね。嘘の可能性と、この世界にはない可能性と、存在していたとしても発見した経緯や方法を専門家に突っ込まれる可能性を考慮した上で。それと当然、英語は必須だから頑張りなさいな。英文校閲業者の紹介くらいならしてあげられるわよ」
「こういう未来の知識ってさ、普通はもっと使い勝手が良いもんじゃねえの?」
もっともらしい言い訳だけの為に今以上の知識が必要になると指摘を受け、瞬時に挫折した弟の姿を眺めながらが笑い、続がそれを受けて今からでも遅くはないのだから勉学に勤しめばいいと傍目にはポジティブな後押しをする。
山を掛け赤点よりも1点だけ多く点を取り教科書を開く時間を1秒でも減らす勉強方法を努力と呼ぶ終はすぐ上の兄からの声援という名の嫌がらせを視線と一緒に窓の外へと投げ、他人の功績を掠め取る奴は碌な人間に育たないとモラルの方向に話題を逸らしてから強引に元の場所に着地させた。
「竜になって月に行くのはいいとして、食べ物をどうするかは考えておくべきだと思うぜ」
「終君は常に脳ではなく胃で物事を判断しているんですね、と呆れたいところですが、今回に限っては案外良い視点かもしれませんね」
水も空気もない土地で竜は生きていけるのかと視線で続が問いかけ、は数秒目を瞑ってから大げさに肩を竦める。
「洛基曰く、竜の理は人の裡に在らず」
そもそも竜の巨体が宙に浮いて天候を操作している時点で人類が発見している法則の範疇外だと返すと、続は言葉では一応同意を示しつつも腑に落ちない顔をして視線を進行方向へ戻し、終はというと記憶のない余に竜身で空腹を感じるかどうかを尋ねていた。
そんな緊張感を欠いた弟達の会話に一通り耳を傾けた始は、そもそも月に行く以前に竜身になるつもりすらないのにと軽い愚痴混じりの溜息を溢す。同時に覚えた2つの違和感を口に出そうとするも、の性格や判断力を考慮して留まった。
兄の横顔を見て何事かを思案していると悟った続が尽きない疑問を少しでも解消すべく口を開き、都合の良いように誘導されているようで気に食わないと十分に前置きをしてから、新たに付け加えられた情報から姉の中に巣食う存在の立ち位置を再確認する。
「ロキの目的が月だというのなら、敵と無関係という事はまずないでしょうね」
「消去法だけど高確率で敵の敵って立場かしら。前言ったように、わたしの敵なのも間違いないんだけど」
「関係があるだけなら敵の味方って可能性もあるんじゃねえの?」
「そうだよね。例えば、ぼく達を全員竜にして暴れさせたり……あ。でも、敵は人類の支配も企んでいるんだっけ、滅亡じゃなくて」
「それにもう1つ、敵がアンタ達を恨んでるって話も前提にしてるから」
仮にロキが敵陣に与しているのならば、の肉体に干渉可能な点から竜堂家の兄弟を殺すなり倒すなりする好機はこの20年の間に何万回もあった。鱗に守られていない急所を潰して殺すも、薬や酒で意識を混濁させた状態で差し出すも、茉理や自身を人質に取り脅迫するも、新生児の時点で誘拐して献上するも自由自在である。
ロキにとって竜王の覚醒は手段だが、今後出現するであろう敵にとっては仕留め損なった結果であるとが説明をすると終もひとまず納得した。つい先程、最年長であるこの姉が最年少の弟に手も足も出ず一方的にやられていた事を思い出したというのもある。を操作出来たとして、覚醒した竜王相手に自称神様が抗えるとは思えなかった。
不確かな情報を元に組み立てられた仮説を聞いた始が一度は噤んだ口を開き、赤信号に変化した信号機を視線だけで見上げてからブレーキを踏みつつ会話に参加する。
「そもそも、姉さんが竜身になったのにロキが一切行動を起こさなかった事が不気味だな」
「そっか、月に行くだけなら姉貴が竜になれば済む話だもんな」
「余君と連携が取れない、天候操作という能力が月面向きではない、ぼく達全員が竜身になる必要がある。この辺りのどれかでしょうか」
「まあ、ロキと名付けられるような不誠実な相手だ。姉さんの変身能力は流石に事実と認めるとして、それ以外の情報は頭から信じないに越した事はないだろう」
情報不足だからといってロキから提供されたもの全てに安易に飛び付くべきではないと始が一旦議論を開始地点に戻して締め括った。もう片方の違和感である、今現在ロキとは即時に交信可能な状態であるのかという疑問はついに言葉に出さないまま。
を経由してロキに質問出来たとしても、現状を省みると誠実な解答が返って来るとは到底考えられない、第一、自分が思い浮かぶような疑問は既に年単位で付き合っている姉が全て問い掛けているだろう。始はそう考えたのだ。
そのような内心を知ってか知らずか、何処までも対症療法で解決を試みようとする双子の弟に普段ならば嫌味の一つでも返すであったが、今日は小さく息を吐くと車のシートに凭れ掛かるだけで碌な反応すらしなかった。
余の黒曜石の瞳が窓の外の景色を眺める横顔を見上げ、遥か遠くに固定されている視線に気付いて袖に触れようとする。寸前、再度終の言葉がそれを遮った。
「姉貴のこういう話、少し前までは妄想と冗談で済んでたのになあ」
「別に今だって信じなくてもいいのよ?」
「うーん、ロキの話は半分以上が嘘だと思ってる。でも、姉貴はロキから聞いた内容をそのまま話してるだけだろ、だから姉貴の事は信じてるぜ」
「あら、そうなの」
車内を微かに映すガラスの向こうに見えた闊達で爽やかな笑みと、沈黙すると崩れそうになる姉の空元気を他の兄弟に悟らせないようとする気遣いに、はほんの微かに目元を赤く染めながら普段よりも素っ気ない返答をして後方に飛んで行く景色を視線で追う。ただ、焦点は近くに絞られており、兄に遮られた事に対しては不満を抱いていないが何か思うところがある様子の余と、姉のなおざりな反応に唇を尖らせる終の姿を捉えていた。
「姉貴、信じてないだろ」
「そうじゃなくて、後ろめたかっただけよ。アンタ達に嘘を吐くつもりはないけど、酔わなかった経緯を濁したでしょう」
「隣に叔母さんがいたからじゃねえの?」
「それはないわ。叔母様はわたしが現実と空想の区別が付かない夢見がちな女の子で済まされていた頃から真摯に向き合ってくださっているから、今更遠慮する必要はないの」
「姉さんにそのような言葉が当て嵌まる時期があったとは思えませんが」
「続とセットで竜堂さん家の美人姉妹って評判だったのに覚えてないみたいだから帰ったらホームビデオ鑑賞会しましょうか」
長兄は聞かなかったように振る舞い耐えたが、耐えられなかった次兄の一言であらぬ方向に逸れた話題をどうすべきか、終は心底迷った。
どのようにが下戸を克服したのかは勿論気になる。そして、表情を削ぎ落とした白皙の美貌から怒気を溢れさせる兄と、その感情を受けながらも輝かんばかりの危険な笑みを湛える姉を正面切って相手取るのはどちらも怖いので出来る限り遠慮したい。
しかし、兄の過去に刺激された好奇心が絶対に面白いに決まっているから詳細の説明を求めると強烈に自己主張をしていた。すぐ上の兄から幾度となく虐げられている三男坊としては、仕返しとしておちょくりたいという気持ちが、当然ある。
「ま、今はそんな事はどうでもいいわね。それよりも下戸の件を先に片付けましょう」
そんな終の気持ちを悟ったは、敢えて話題を正しい方向へと戻した。不満そうな終の顔が見たいから意地悪をしたという心理と、この場で過去を暴露すると腹を立てた続の矛先が終に向くので帰宅後にホームビデオとアルバムを探し出し年少組を両脇に熱弁してやろうという、己の欲求に素直に従った結果である。
案の定不平を鳴らす終の頭を撫でて誤魔化し、それよりも目処は立ったのかと問い掛けると無言で目を逸らされた。真っ白な答案用紙を誤魔化しているのではなく、拗ねて口を噤んでいる姿がいじらしく、失笑してから柔らい癖毛から手を離す。
「体の中身をね、色々作り変えている途中なの」
「月に行く為に?」
「ロキの目的はそうね。わたしは竜身になるための慣らしの為よ、とは言っても、変身の為に昔から慣らしていたから今は最終調整段階だけど」
ヘソを曲げてしまった兄の代わりを余が務め、体を根本からを変えているのなら酔わなくなるはずだと理解する。竜身に変ずる事で変身能力が確固たる事実であると目の当たりにした兄達も流石にこれを夢物語だとは一笑せず微妙な表情を浮かべた。
末弟が竜になるのだから長女も別の方法で竜になろうが大した問題にはならず、この後に及んでの言い分を疑っているのでもない、ただ、懸念すべき事項があり、それを末弟が切り込んだ。
「姉さん、今はまだ一緒にいてくれるよね? ぼく達を置いて何処かに行ったり、姉さん1人で全部解決しようって考えてないよね?」
普段おっとりしている余からの指摘は、口調こそ疑問の形を取っているが否定は絶対に許さないという強い意志を帯びており、車内の空気を一変させた。
先程までの会話を踏まえると、社会という柵から解放され、人間ですらなくなりつつあるは既に敵地へ乗り込む気でいる。それを確信した余は先程伸ばしかけていた手で今度こそを掴み、終は勿論、続すらもそこまでの独断専行は許容しかねると不穏な気配を漂わせていた。ただ唯一、始だけは難色を示しながらも姉の心情を理解しており、同じ立場ならば、恐らく自分も単独での解決を試みただろうからと弱い否定を滲ませるに留まっている。
細く短い針が断続的に肌を刺すような空気の中で、真珠色の鱗がうっすらと浮かぶほどの力で手首を拘束されたは、まだ幼い手の甲を優しく撫で静かな怒りを滲ませている弟達に愛情深い眼差しを向けながら答えた。
「1人で片付けようと考えてるし、行動するつもりだけど?」
「嘘だろ、姉貴。この空気でその返答かよ」
「だってその方が都合がよくて、嘘は吐きたくないもの」
「余君、姉さんに何か言っておやりなさい」
「なんで余を指名するのかしらね」
「姉さんにはおれの命令より余の陳情の方が効くからだろ」
まったくこの姉はと言いたげな3人から信頼のバトンを渡された末弟は一度目を伏せて、真っ直ぐに向き直る。
「あのね、ぼく、覚えてはいないけど、姉さんが一緒に竜になるって約束を守ってくれた事が嬉しかった。だから、出来れば、もう片方の約束も守ってくれると嬉しい」
家族だから離ればなれになりたくない。本来ならば願いや約束にもならないはずのそれを思い出したのか、は居心地悪そうに身動ぎした。
生まれながらにして両親を、そしてごく最近に育ての親である祖父母まで亡くしている末弟の家族をこれ以上奪う行為はたとえ自分自身であっても許せるものではない。しかし、そうしなければ末弟本人を危険の渦中に放り出す事になるかもしれない葛藤から素直に頷く事が出来ず、結果、返答を濁す手段を選ぶ。
「ちょっと他所に出掛けるだけよ、すぐ戻って来るつもり」
「ちょっとでも駄目、ぼく達の事を置いていかないって約束した」
この程度では絆されないと瞬時に理解して食い気味に否定した余は、が言葉に詰まった隙を見計らい、情で駄目ならばとでも言うように続けた。
「それに、本当に戻って来られるのか分からないよね。敵を倒す為にぼく達から離れたらロキに制裁されるかもしれない。動物に変身させられて、一生その姿にされるかもしれない。もっと酷い事をされるかもしれない」
「それは」
「姉さんの事だから全部承知の上って言うだろうけど、ぼくはそんなの絶対に嫌だ。姉さんが家族を大切にしている気持ちと同じくらい、ぼくだって家族が大事なんだ。姉さんを犠牲にして何も知らないふりをして生きていくより、皆で敵と戦った方が何十倍も幸せだよ」
「……それでも、譲る気はないの」
「姉さんの分からず屋」
「自覚はしているわ。大いにね」
強く掴まれていた手首を解放されたは苦笑しながら余を見下ろし、その瞳に宿る光が危険な色に変わった事に気付き表情を変える。
竜堂家の姉弟は方向と許容量こそ違えど基本的に上から下まで揃って頑固者だ、それは末弟の余でさえ例外ではない。彼は諦めてなどいなかった。
「どうしても出ていくのなら、竜になってでも追いかけて、世界中を飛び回って、必ず探し出して、敵との戦闘中でも何でも連れて帰るからね。命の危険が迫って竜になるのなら、自衛隊なんてなくても東京タワーから飛び降りれば変身出来るよね」
「ああ、もう、分かったわ、わたしの負け。勝手に行動しないから、それは止めて頂戴」
「絶対だよ? 約束通り家に戻って来てくれるんだよね? これからは黙って1人になったり、危ない事もしちゃ駄目だからね?」
以前に想像した、嘘を吐いた挙げ句に捕縛され10歳も年下の弟に怒られる姿が現実になりそうな気配に、は降参のポーズを取り車内の緊張した空気を緩ませる。
姉が折れたと理解しながらも未だ興奮状態が継続している余は、両手を上げた体に抱き着き口頭確認を始めた。生まれたばかりの無垢な天使にも似た人畜無害そうな顔をして案外無茶苦茶な行動に移ろうとするお姉ちゃん子の姿を3人の兄は黙ったまま眺めていたが、やがて三男坊が畏怖とも呆れともつかない声で静かに呟いた。
「家族愛が勝った、って認識でいいのかなあ」
その是非について年長組は沈黙を守るつもりなのか、次男はカーオーディオへと手を伸ばし、家長は運転に集中する事で自身の意見を誤魔化す。
車を取り囲む景色と空気は竜の住まう霧と雷雨の幻想世界から既に抜け出し、家族仲の良い5人の姉弟がありふれた日常生活を送る現実世界へと回帰していた。