竜王顕現
おもむろに、黒竜が前方へと両手を差し伸べた。その掌から青白い雷撃が放たれ、数十台もの装甲車が一瞬にして火球と化す。底を見せない濃い灰色の中にオレンジ色の光球がぽつぽつと灯るが、連なるはずだった破壊音は尽く雷鳴に掻き消されてしまった。
地上から短い火線が暗闇の中を奔る。幻想に打ち負けてなるものかと戦車砲が咆え、対空機関砲が呼応したのだ。黒竜は何の感情も露わにしないまま静かに恐慌じみた人類の足掻きを睥睨していたが、突如その射線上に躍り出た琅玕色の生物を見て剣呑な感情を放つ。同時に、攻撃を仕掛けた人類達も絶望の表情を浮かべた。
何処から現れたのか、黒竜よりも二回りほど大柄な緑竜が長大な体で砲弾を受け止め、濃い緑の鱗を所々白翡翠色に輝かせながら力強く宙を翔ける。冷静さを失わなかった人間ならば緑竜の鱗が変化した部分と砲弾が直撃した箇所が同一であると気付けたであろうが、最早その勇気を残しつつ火砲を制御出来る自衛隊員はいなかった。
更に険しくなる豪雨と雷鳴の中で、黒と緑の竜が円環状に舞いながら対峙する。地上の生物達の大半は濁流が氾濫する河川に変貌した丘陵から逃れる事に必死で天上の生物達の事など気にかけていられなかったが、ごく僅かな超人じみた人間達だけは、先に緑竜が動いたのを見た。だが、攻撃を仕掛けたのではない。
人間ならば親愛の情とでも呼べるような感情を乗せて、緑竜は流麗な曲線を描きながら速度と軌道を変え並走するとゆっくりと鼻先を黒竜に近付けた。黒曜石の瞳は敵意なく接近する緑竜を訝しげに観察していたが、鼻先が触れる前に、その両手を緑竜に突き出した。
雷撃と轟音。先程自衛隊の装甲車を纏めて紙屑のように吹き飛ばした閃光が断続的に襲い掛かり、緑竜が琅玕の鱗を銀鱗に染め変えながら宙で喘ぐ。しかし地上に落下はせず、雷光の中で燦然と鱗を輝かせながらその場に踏み止まった。
黒竜が拒絶する理由を、緑竜は分かっていた。黒竜は四海竜王たる北海黒竜王敖炎が竜身に変じた謂わば真の姿だが、緑竜はあくまで竜堂という人間が竜を模して化けた姿でしかない。三本爪、五本爪という格以前に、本質的に正体が異なるのだ。それが、最強の竜王たる黒竜に耐え難い不快感を与えたに違いない。
辺り一帯が水没し、明らかに人死にが出ているにも関わらず雷雨を止めどなく呼び寄せ、自衛隊の兵器を破壊している所から、今の黒竜に竜堂余としての意識はない。姉弟の情が通じない以上、どのようにこの暴走を止めるべきか、そもそも擬竜の自分に弟を止められるのか、内に渦巻く緑竜の迷いを黒竜は感じ取ったのだろう。隙だらけの下方部へ潜り込むと真珠色に輝く牙が碧玉の喉笛に食らいつき、長大な尾が翡翠色の腹を強打する。
じゃれついているのではなく噛み殺すつもりなのか、淡く発光する鱗の奥で筋肉と骨が軋んだ。周囲で幾条もの雷光が迸り、小島となった丘を焦がす。その中の最大の電撃が、最も人口密度の高い大地を直撃した。緑竜は鼓膜を破裂させるような轟音の中に数十の悲鳴を聞いたような気がして血の滲んだエメラルドの瞳で周囲を探ろうとするが、黒竜から直に電撃を浴びせられ遂に大地へと墜落してしまう。
緑竜が巨大な水壁の創造主になっている間に、黒竜は黒焦げた服を纏ったまま、ただ1人不気味な面持ちで高地に立ち続ける人間の怪老に目標を定めていた。そして、緑竜と同じ不快感を漂わせるその人間目掛け、光塊となって襲いかかった。
勢いを付けて降下した巨大な一条の光が遮られる。老人が掲げた掌底から発した光が天上から襲撃する黒竜のそれと相討ったのだ。
光の洪水に瞼の裏まで灼かれた緑竜が泥水の中で身動ぎして、長大な首を擡げながら黒竜の姿を探す。しかし、天地の何処にも影も形も認められない事を確認すると次に視線だけで凪ぎ始めた空を仰いだ。雷鳴は遠方へ消え去り、滝のようだった雨脚が弱くなっている。
超常の能力で操作されていた天候が自然のものへと戻りつつあった。船津老人が発した膨大なエネルギーが作用したのだろうか、黒竜は一先ず力を使い果たし人身に戻ったようだ。
敗北でも相打ちでも構いはしない、生きてさえいてくれればいいと弟を探しに起き上がろうとした緑竜の前方に、泥に塗れながらも生気溢れる生き物が、やや躊躇った様子で近付いて来た。演習場ではなく学校のグラウンドで走り回っている姿が似合いそうな高校生、緑竜の実弟である終がまだ淡く真珠色に発光している余を抱きかかえてやって来たのだ。
「姉貴、だよな? 動けるか?」
余と同じようにまだ輝きを帯びている鱗に触れられ、その声と手の温度に目を細めながら問題ないとでも言うように緑竜はゆっくりと姿勢を変える。小さな弟達を弾き飛ばさないよう気を付けながら頭を差し向けて乗るように視線で合図すると、終が満面の笑みで助走もなしに飛び乗って来た。勿論、腕の中の末弟に負担がかかるような挙動は一切せず、一つ一つの動きがまるで羽毛のような軽やかさだった。
一難は去った。さて、残りの一難はどうなっているか。
年少組を乗せた緑竜は大地を掠る寸前の低空を音もなく緩やかに飛び、3人の生存者が確認出来る丘の手前で停止した。3人の内、1人は嘔吐しながら蹲り、血走った目で残りの2人を睨んでいる。その視線が、到着したばかりの緑竜へと向けられた。18年前のそれとは異なる、力ない、欲望よりも絶望に塗れた視線だった。
「貴様は、何者だ。何故、竜身に変じている。貴様は異物だ、竜王ではない、貴様のようなただの女が、青竜であるはずがないのだ……!」
余を抱えたまま緑竜の頭から飛び降りた終が続の隣に立ち、無言で2人の兄を見上げる。始と続は弟達と、そして姿を変えたまま元に戻ろうとしない姉を見て、静かに頷いた。
生えたばかりの白い歯をこぼし桃褐色の歯茎を剥き出しにしながら、今際の中で船津老人は狼狽えているが、弟達はが四海竜王の青竜ではないと確信していた。
青竜の本来の色が実際は緑であるという説、そして、中国最古の詩篇である詩経における緑色の動植物が青色と形容されている事実を年長組は知っていた。当然、彼等よりも造詣が深い船津老人がこれらを知らないはずがない。老い先短い巨悪に絶望と未練と混乱を織り交ぜた勘違いを手土産として渡す為に、か、或いはに入れ知恵をしたロキが態々琅玕色の竜身を選んだのだろう。
唯一、終の理屈だけは、緑竜が黒竜に手も足も出せず一方的にやられていたのに青竜であるはずがないという知識に裏打ちされない明瞭簡潔なものだったが、何にしても、性格の悪い姉とカミサマだというのが共通認識であった。
かといって、苦しげに呼吸を繰り返しながら吐き捨てるように姉を異物呼ばわりされ、頑なに竜堂という家族の単位から排除しようとする船津老人に対して、弟達は素直に解説してやる気にはなれなかった。
「儂は間違っておらん、間違ってなど」
枯れて燃え尽きた枝葉のような船津老人の腕が始に伸びるが、すぐに力を失い泥土の上で人形のように跳ねる。その様子を見て、老人の傍に膝をついた始が口を開いた。
「貴方は、おれに、事実だか真実だかの、ほんの一部分だけを教えてくれた。この際だ、正誤は問わない。もう少し詳しい事を教えてから、永眠してくれないかな」
「教えてなどやらぬわ。何も教えてなどやらぬ。自分達の正体を知る事が出来ぬ苦しみに悶えるがいい」
「だと思った……それならそれでいい、貴方が思い込んでいるほど、おれ達は自分達自身の正体を知りたい訳じゃない。あんただけが秘密を知っているなら、他の誰も知らない訳だ。おれ達は安全という訳さ」
船津老人は反論出来なかった。最早、口を開くどころか心臓を動かす力すらなくなり、泥水に浸かった半身からは急激に体温が失われていたからだった。
始が立ち上がり、船津老人だった死体に背を向ける。続と、眠った余を抱えたままの終が長兄の背中を追い、全員が未だに緑竜でいる姉の前で立ち止まった。
何故水没したジープを見つめたまま微動だにせず人間の姿にも戻らないのか、それとも戻れない理由があるのか、そんな疑問に対する彼女の言い分を真っ先に汲み取ったのは、いつも通り、このような時にだけ以心伝心が真っ当に作用する続だった。
「兄さん、救急箱かサバイバルキットがないか見てきます。それが確保出来たら、茉理ちゃんの所まで案内してくれるようですから」
「続兄貴って姉貴と仲悪いのに仲良いんだもんなあ。何もないといけないから、おれも向こうのジープ探してくるよ」
余を押し付けた終は続とは反対方向へ駆けていき、残された始は腕の中で幸せそうに眠る末弟の寝顔を緑竜に見せる。
遊び疲れて電池切れを起こした弟達を手分けして寝室まで運んだ日々を思い出したのか、緑竜はどうにかしてこの姿のままでも安全に触れられないものかと意味もなく前脚を動かしてみたり、泥に塗れた芝生に顎を付けて上目遣いをしてみた。よく見ると、琅玕と白翡翠が斑になった尻尾が左右に振れて雨水が水平方向に勢い良く飛んでいる。
大型犬と表現するには規格外だが、それでも人身よりも遥かに分かりやすく愛嬌のあるの反応に、いっそ竜身のままでいいんじゃないかと失言に分類されるであろう冗談じみた軽口を、始は込み上げた笑いと共にどうにかして飲み込んだ。