演習場
規則正しいが全く音楽的ではない音を奏でる軍用ヘリのローターを視界の下方に確認した一羽の鷹は、人と機械の共同作業によって乱された気流を避けるように大きく旋回し、翼を広げたまま宙に留まって降下のタイミングを静かに伺う。
猛禽類の優れた視力も霧と煙の中では役に立たず、結果、彼女は未だ自分が着地するべき目標を見付けられないでいた。しかし、焦りはない。
上の命令に服従しなければならない自衛隊という組織の性質上、船津老人の圧は末端まで届いているようだが、人や役職を介する毎に力は弱まっている。演習場に侵入した民間人、しかも中には確実に未成年と断じられる少年達が確認されているにも関わらず問答無用で射殺出来る程、自衛隊の人間は思考停止している訳でもなければ、第三次世界大戦による核戦争が勃発した後の物騒な世紀末を生きている訳でもない。
無警告での機銃掃討はないだろう。そのつもりならば最初の砲撃の時点で竜堂家の兄弟は全員仕留められている。どの程度の攻撃で覚醒するのか実験しているのか、それとも、獲物を甚振る肉食獣にでもなったつもりか。霧中の富士山を背に風に乗りながら機を待っていた猛禽類は、どちらにしても状況の変化はすぐに訪れるだろうと考え、元々鋭い目を更に光らせてヘリ周辺の環境に神経を尖らせた。
数秒後、地上から音速の2倍程の勢いで投擲されたハンドボール程の大きさの石を確認した鷹が急降下を開始する。
携帯式防空ミサイルシステムの前身と表現すれば聞こえがいいが、要は万年単位で原始的な投石という武器による攻撃を主翼に受けた近代兵器が飛翔する術を失って丘の中腹に墜落し、砲弾やヘリのローター音とはまた違う類の派手な音と共に霧の中で一瞬白く輝く。
その光の中で鷹の影が陽炎のように歪み、諸々の物理法則を無視しながら空中で人類の姿へと変化した。標準的なホモ・サピエンスよりも大柄なメス、個体名及び戸籍名竜堂は地上10メートル強の距離から諸々の勢いに任せて三点着地を決行し危なげなく成功させ、同時に、背後のヘリが半球状に爆発炎上。後に静寂。
晴れつつある霧と黒煙を吹き上げて燃え盛るオレンジ色の炎を背景に、アメコミか戦隊モノのヒーローの演出に近しいのに正義の味方から遠くかけ離れた邪悪な貫禄を背負う女性が傲然と立ち上がる。彼女の着地地点にいた事で、その雄姿を裸眼で目撃する悪運に恵まれた8つの視線の持ち主達が、ほぼ同時に喋り出した。
「まったく、一々芝居がかった人ですね」
「派手な登場だけど遅刻はよくないよなあ」
「姉さん、怪我はない? 酷い事されなかった?」
「ヘリの墜落後に上からって、一体何処にいたんだ」
長姉としての愛情と善意と正方向の感情が特定の弟にのみ注がれる理由が一切の疑問なく納得出来る反応を全て無視して、は一方的に状況報告を始める。
「叔母様と茉理、おまけのもう1人は避難させたわ。で、次はどうしたいのかしら」
「茉理ちゃん達を助け出してくれたのか」
「局所的に役立つのは相変わらずのようですね」
「愚弟共、わたしはアンタ達に次の行動を訊いているんだけど?」
ヘリが墜落した以上、砲撃が再開されるまで時間はそう残されていない。感謝や安堵や軽口は今でなくとも十分であり、他所に逸れた話をしている暇はないだろうと苛立ちの含有量が多い視線で催促すると、それもそうだと年長組が気持ちと表情を切り替えた。
人質が解放されたのだから演習場に留まる必要はない。個人的には撤退を推奨すると態度で語るの提案を始は棄却する。双子にも関わらず、この2人は何処までも気持ちが通じ合わない。
「折角の機会だ、船津老人にお礼をしないとな」
「そうですね。そろそろ、今までの精算をしていただかないといけませんから」
「終と余は?」
「一緒にあのナマズ老人を捻りに行くに決まってるだろ」
「姉さんも来てくれるよね?」
「残念だけど、行かないわ。叔母様達の護衛に向かった方がいいみたいだから。あの変質者を伸したら富士自然動物公園前で合流しましょう」
柔和で甘やかな口調から放たれた過激な誘いをは穏やかな声で断り、珍しく不満そうな表情を露にする末の弟の髪を優しく撫でて泥や土埃を払った。
行ってらっしゃい、車に気を付けるのよ、と日常的且つ心温まる言葉を掛け、肩を叩いて小さな背中を送り出す。姉に促された4人の青少年が短距離走の世界記録保持者よりも速く駆け出して一拍後、砲撃が再開された。
「なあ、姉貴! こんな所にいる車ってどんな車だよ!」
「戦車だって車でしょう!」
「せんっ、いや、そうだけどさあ!?」
「終兄さん、前! 本当に戦車が来たよ!」
「なんで来るんだよ! 高校生や中学生を戦車で追い回すのは、憲法違反だぞ!」
「そういう問題とは違うんじゃない、この際?」
「うるさい、年長者に口答えするな」
「というか茉理が無事だったからって浮かれてんじゃないわよ愚弟4人組! 直線経路で行かずに迂回なさい!」
霧と土砂と爆発音の中で会話を交わす姉弟達の間に砲弾が落ち、姉は後方へ飛び退き弟達は構わず前進する。最早張り上げた声すら容易には届かないと判断したは再度鳥に姿を変え空へと舞い上がり、上昇気流に乗って砲弾が届かない高度まで辿り着くと輪を描くように滑空した。
今度は鷹でなく鳶となったの眼下で砲撃で分断された年長組と年少組が異なるルートでテントへ向かっている事が分かり、南へ向かおうとしていた翼の角度を調整する。年少組は血気盛んな三男が末弟から距離を取ったかと思うと難なく戦車に飛び乗って、上半身を現した戦車長らしき男を装備一式と共に空中へ放り出しタンク・ジャックを成功させていた。
見ると、年長組も元気な三男坊の働きを視界に収めている。どうやら自分が心配せずとも合流出来ると判断を下した鳶は再度翼の角度を変えると北風に乗った。
三次元の機動力を駆使出来る事から差し迫った状況には陥っていないのだが、竜堂家の兄弟を監視しているであろう船津老人は当然、弟達と接触したの姿を目撃したはずだ。そして、が自由になっているという事は、間接的に鳥羽家は既に人質ではなくなっていると知らせているようなものである。再度人質に取られたとしても一箇所に固まっているのならばだけの力で解決出来るが、出来る限り叔母や従妹の心身に負担のないよう動きたいと思っている彼女は急いで空を翔けた。
演習場に不釣り合いな車のルーフを発見したのはそれからすぐの事で、猛禽類の目で周囲を確認するが船津老人の手下が潜んでいる形跡は見られない。竜王の転生者を餌場に誘き寄せた時点で鳥羽家一同は用済みかと考えた鳶は、閃光と轟音から遠ざかろうとする車の上にでも着地してやろうかと試みて、失敗する。
背後から膨れ上がった無音の光の洪水が全ての感覚を遮断した。
人間の造り出した兵器では発し得ない真珠色の輝きが一帯に溢れ、物理的な圧力を持って小さな鳥類を上へと突き飛ばした。
視界が急激に暗くなるも、それは意識や肉体が原因ではなく、空が暗雲に覆われたからだと辛うじて理解した鳶が急変した天候の中で体勢を立て直す。次の瞬間には、激しいという表現すら生易しい豪雨が羽毛を打ち、何筋もの雷光が網膜を焼き、大気を裂く落雷音が鼓膜を通じて脳を揺らした。
雨と暗闇で何も見えず唯一視界にはっきりと映る雷光の中に、一筋だけ異なるものを鳶は見付け出した。槍のような閃光ではなく光の帯とでも呼ぶべきそれは、意思を持った生物のように緩く波打つように天上に向かって昇り始めている。
その形様から、人の手を介して古代から脈々と語られてきた空想上の生物の顕現を知ったは目を見開き、翼から人の手へと戻した五指を遥か彼方の光帯に向かって伸ばした。
目を焼く白と墨と泥を混ぜた黒に染まった世界の中に、琅玕の光輝が現れた。