演習場
古今東西、幻想世界や神話の怪物退治に酒が用いられるのは必須ではなくとも取り立てて珍しくもない。この場合、怪物達は総じてアルコール耐性がないのではなく酒豪であり、調子に乗って泥酔した所で敗北するのがセオリーである。
となると、最初は下戸の自分はお約束からやや外れた所にいたのだなとは悪路を走る車の後部座席に横たわり、優男で溢れ返る現代の基準でもとても英雄とは呼べない風貌の男達の後ろ姿を眺めながら独りごちた。
シートベルトも着用せずにだらしがない格好で伏しているのは不可抗力である。なにせ、人命を盾に早朝からヘネシーのリシャールを1瓶飲み干せと脅されたのだから。その辺りで手に入る4リットル数千円の甲類焼酎ではなく最高級のコニャックを惜しげもなく振る舞う辺りが如何にも船津老人らしいと18年前に会ったきりの老爺をは静かに嘲笑する。
昨日の昼前に拉致されて以降、は口約束の通り賓客として扱われながら山荘で一晩を過ごした。他の宿泊客の姿はなかったが態々貸し切った訳ではなく、間取りを確認するに元からVIP限定の宿泊施設に案内されたらしいとまでは分かった。
移動制限は課されず衣食住に必要な物は一通り揃っていたが、唯一規制されていたのが情報で、テレビやラジオはなく新聞や雑誌どころか電話すらも片付けられていた。外界との情報を遮断するという事は権力と金に物を言わせてマスコミを利用し相当大掛かりな仕掛けをしたのだろうとまではも予測出来たが、具体的にどのような策が講じられているのかまでは想像出来なかった。ただ、碌でもない事が起こっているのは間違いないと断定する。
敷地内には複数の監視カメラと数人の見張りが配置されただけで容易に逃げ出せる環境下ではあったものの、冴子と茉理の身の安全を軽視してまで欲しい情報はなく、は当初の予定通りあてがわれた部屋で期を待つ方針を選んだ。
既に竜堂家家長である始との交渉が決裂しており、加えては四海竜王の生まれ変わりでもないので船津老人本人が不意打ちで接触してくるとも思えない。人質を得ているので今更料理への異物混入や就寝中の襲撃はないだろうと食事と睡眠を十分に摂った翌朝、朝食の代わりに酒を飲まされた直後に後ろ手に縛られ、車に乗せられて現状に至る。
竜堂家の現長女を人質にする奇策且つ下策を講じる程度には常識人らしいと、昨昼からの回想をしつつ知りたくもない船津老人の感性に触れながら、とはいえ、同じような立場に置かれたら自分でもそうするだろうとは大きな溜息を吐いた。
無力化したい相手が下戸と判明しているのならば、露骨な投薬よりも素直に酒の力を借りるべきだ。特に竜堂家の場合は変に薬物を過剰投与すると肉体の危険を察知した竜王の血に無力化される可能性も考えられる。異界のカミサマが言うには竜王として覚醒したら月まで行く能力が発現するらしいのだから、人体に害がある劇物の解毒など朝飯前だろう。
それにしても、人質という立場はいざ味わってみると中々に窮屈だ、とは再度大きく息を吐く。
船津老人からしてみれば救助する側の人数が減りお荷物が増える合理的な判断なのだろうが、果たして長男坊と次男坊は2週間前の約束通り姉を見捨てられるだろうかと不安とは違う感情が彼女の思考を掠める。もっとも、そのような疑問が浮かぶ時点で答えなど決まっており、どこまでも甘い愚弟達だと心の中で呟いた。
そんなの心情などお構いなしに男女3人を乗せ丘陵の間を縫うようにして走っていた車が小高い丘を登り始め、頂上で停車する。
気怠げに半身を起こし外を見ると隣にはライトバンが駐車されていたが、それ以外の景色は朝霧に隠され何もかもが朧気だった。辛うじて遠方に自衛隊のものと思しきテントが設営されている様子が灰色の影として見え、船津老人はあそこかとは当たりを付ける。
あの老人の目的はあくまで竜堂兄弟で、それ以外の親族は重視していない。ならば真っ先にやるべき事は、とは顔を上げ、開かれたドアから手を伸ばしてきた男の胸部目掛け踵で蹴り付けると同時に手首を縛めていたロープを腕力だけで紙のように引き千切る。
暴れ馬の方がまだ生物としての分別を弁えている一蹴を受け、骨が砕かれ内臓を突き破られた男は半ば肉塊となりながらライトバンの側面にめり込み、後部座席の砕けたサイドガラスを枕に意識を失った。泥酔しているはずの怪物が素面だった恐怖に襲われ咄嗟の判断が遅れたもう片方の男は、車から出て来たを凝視したまま距離を詰められ、何の攻撃にも移れないまま銃を握った右手の関節可動域の限界を更新する羽目となる。
「酩酊して動けないと思った? お酒の効力を事前に確認すべきだったわね。鮮度の落ちた情報は、稀に致死性の毒に変わるから」
先に行動不能に陥らせた無礼者に再起する可能性がない事を横目で確認したは、苦痛に呻いている男の顎を軽く上向きに押さえ、その顎を掴んだまま腕を振り下ろす。
後頭部を鈍器代わりにされ運転席のガラスを粉砕した男は意識を失い、血に塗れたスーツの内側からナイフを抜き取られると用済みとばかりに投げ捨てられた。刃物を手に入れたはというと車上荒らしの真似事など一切しておりませんと言いたげな表情で鍵を開け、親族達の姿を確かめて安堵の息を吐いた。
「怪我はない?」
茉理、冴子、最後に靖一郎の順でロープを断ち、各々が自分で猿轡を取る様子を見て、少なくとも身体は無事と確認したは、恐怖と憎悪を交互に点滅させる叔父の目を感情のない表情で受け流し説明は後だと態度で語りながら直前まで自身が乗っていた車を指す。
「南に向かって運転してください。469号線まで出れば多少安全なはずです」
「な、何なんだ一体。何で私がこんな目に」
状況を把握出来ず腰は砕けかかり、震える舌で喚こうとする靖一郎を見ては人選を間違えたと反省し茉理に寄り添う冴子に向き直る。
「叔母様、頼みます」
「任せなさい。貴女は」
言いかけていた激励の言葉が轟音によって遮られ、吹き上がった土砂が霧をかき混ぜ墨流しに似た風景を描いた。
砲撃に身を竦ませ自分の頭を庇う靖一郎と、怯えながらも鋭い目付きで茉理の頭を庇った冴子を見比べ、は先に女性達を抱えるように後部座席に乗せ、次いで叔父に極寒の視線を浴びせながら襟首を掴み運転席に放り投げる。
「行って! この場で自家用車を狙うほど自衛隊は耄碌してないから!」
前述の対応の違いを見た怒りからではなく、四方八方から迫る音に掻き消されないよう叫んだは、暫くしてから恐る恐る動き出した車の背面を厳しい表情で見送る。
目視可能な範囲に船津老人がいるので本来ならば彼等が再度人質に取られないようが護衛として同行すべきなのだが、更に優先度の高い目的がある以上、苦しい二者択一をしなければならなかった。
「さて、と。探索は上からが理想なんでしょうけど」
この演習場の何処かに侵入しているであろう弟達を見付け出して鳥羽家の3人は無事だと伝達しなければならないは、未だ霧に隠され姿を見せない富士の山を見上げ、遊覧飛行には不向きの天候に重々しく項垂れる。霧が晴れるまで悠長に待ってなどいられない。
初夢でもないのにと漏れた呟きは土砂が舞い上がって降り注ぐ音に掻き消され、霧に混ざり始めた砲煙の匂いを指先に絡めながら軽く舌打ちをしてから覚悟を決める。
直後、が立っていた場所から人影が消え、代わりに姿を現した一羽の鷹が朝霧の空へと姿を溶かし、音もなく消えていった。