曖昧トルマリン

graytourmaline

さわがしい訪問者

「そう、覚悟を決めたのね」
 何も告げない内に全てを悟りテーブルの向こうで呟いた叔母を見て、は黙って頷くとまだ熱い煎茶を口に含んだ。
 とても黄金とは呼べないような内容のゴールデンウィークも半月前に過ぎ去り、表面上、竜堂家は日常生活を取り戻していた。しかし水面下では船津老人に付き従っていた末端構成員が不良在庫として現世という倉庫から一斉処分され、日に日に周囲の状況が剣呑なものに変化している。
 自称喧嘩好きの平和主義者である始は船津老人の粛清を竜堂家からの撤退を図っているからではないかと手緩い方向に考えたがっており、敵の正体が確定した以上は早急に始末すべきだと主張する武力行使主義のと真っ向から対立していた。穏やかな日々を過ごしたいと願う弟の心情はも賛同出来たが、それを破壊しようと目論む相手に先手を取らせるべきではないという反論は未だに黙殺されている。
 情報が揃っているにも関わらず動けない彼女の歯痒い心情を反映したような、少しくすんだようにも見える梅雨入り前の空から降る光が、蛍光灯と共に乱雑ながらも広々とした鳥羽家のダイニングを照らす。
 相反するような言葉が同居する空間が作り出された原因は、共和学院の敷地内に新築された学院長公舎へ転居する為、現在の鳥羽家は引っ越し作業に追われているからであった。本来指揮を執る立場にある靖一郎は仕事で手一杯である事から全権は冴子に委任されており、その冴子からお呼ばれしたは男手が必要となる重労働に汗は流さないものの精を出している。先程まで共に作業に勤しんでいた茉理は靖一郎が忘れた書類を届けに新宿まで出掛けており、だからこそ冴子はこのタイミングでに言葉をかけたのだろう。
 引っ越し直前の家に見られる独特の空間の中で小休止を挟んだ新旧2人の竜堂家長女は必要以上の会話を試みようとはせず、自身の内面に張っている根の形を時間をかけて確かめていた。
 思ったほど深く食い込んではいない、は己に巣食うものに対してそう評し、けれど駆除は出来ないと心の汚泥に塗れた手を離す。
 親族の中でただ1人、冴子が気付いたように、は覚悟を決めたのだ。そして、が会話を継続させず沈黙を選んだ通り、冴子はまだ覚悟を決められない。
 当然だろうと、彼女はまだ幼い頃に叔母の口から語られた秘密に思いを馳せ、ひっそりと唇を噛んだ。
 弟達を救う為に彼等を手放せるかと自問すれば可能であるとは即座に自答出来る、だが、自身の預かり知らぬ存在に本来はお前の家族ではないのだから未練を持つなと横合いから指示され準じるなど不可能だった。積み上げられたプライドの問題ではなく長年育まれた情の問題だ。況してや、冴子に課せられた相手は兄の維ではなく娘の茉理なのだから。
 そのような意味では、は己に憑く自称神様の根底に人間臭い一面があると思わざるを得ない。もしかすると後天的に超常の存在となっただけで元は人間なのだろうか、自身がその道を選択したように。
 思考の浅瀬で渦を巻きながら寄せて引いてを繰り返していたものが、突如割って入った短い電子音に阻まれる。
 来訪者を告げた玄関のベルの音には腰を浮かせかけるが自宅でも実家でもない事を思い出して椅子に座り直した。弟達の前では滅多に見せないが、これで案外そそっかしい所がある姪の行動に微笑を漏らした冴子がご近所さんかしらと言葉にしながらダイニングを出て行き、残されたはテーブルに肘を付いて表に出してしまった余裕のなさに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「なによ、見苦しい。平常心取り戻しなさい」
 低く唸るように自分を叱咤したはゆっくりと瞬きをしてから大きく息を吐いて立ち上がり、開いていた窓に寄って敷地内で唯一変化のない庭を静かに眺める。鳥羽家の庭に思い入れなどないが、それでも見知った庭が見られなくなる一抹の寂しさに湧き上がった感情をすり替えた。
 そうでもしなければ平然と振る舞っていられない脆弱な精神に再度舌打ちすると、背後から近付いてきた足音が止まる。振り返った先にいたのは冴子ではなく見知らぬ男が1人、と脳が認識した頃には既に相手との距離を詰める為に体が動いており、右の掌底で喉を潰すとそのまま胸ぐらを掴んで引きずり倒しながら腹部に膝をめり込ませた。
 後頭部を掴み直し膝の連撃で額を割ろうとする寸前、ようやく思考が肉体に追い付き、一瞬で背筋が冷や汗で濡れる。問答無用で排除に動いてしまったが、不審者ではなく引っ越し関係の業者だろうかと一般人ならば真っ先に思い浮かべる疑問が今更になっての脳内に溢れたのだ。
 その疑念を解決する為ではないだろうが、新手がダイニングの入り口と背後の庭に姿を現す。ただし、例外として女性が1人混ざっている。首筋にナイフを当てられ人質となった冴子であった。
 唇を引き結んで恐怖を表に出さないよう堪えている叔母に怪我がない事を目視で確認したはゆっくりと両手を上げ、苦痛に呻き嘔吐しながらも辛うじて気絶出来なかった不幸な男から後退りするように距離を取る。
 頭数では不利なものの冴子の安全を確保しつつ反撃という芸当も可能である、しかし、それだけだ。現時点のの力で身の安全を保証可能なのは冴子だけだった。誰何こそしていないが相手は船津老人の手下までは馬鹿でも予測が付く、ならば、この場にいない茉理がどうなっているのかなど簡単に想像出来た。
 包囲網の範囲を悟ってしまった以上、人脈がなく権力とも無縁のに打てる手など皆無といっていい。
 弟達が揃って丹沢山へキャンプに出掛けているのが最大の痛手だったが、逆に考えれば人質が取られている事を知らない間は全員が自由に動く事が出来ると僅かな望みをかける。だが、同時進行で交渉役が既に接触している可能性の方が高く、そうなると下手に動く事が出来ない。一通りの可能性を考慮し終え大人しく連行される方針を選択したは、見苦しく喚かなかっただけマシかと静かに相手の出方を伺う。
 幸いにもに倒された男は交渉役ではなかったようで、一団の中から秘書か執事のような雰囲気を纏うダークスーツ姿の男が歩み出た。よりも一回りほど歳上の冷たく硬い印象を相手に植え付ける壮年で、彼女の知るところではないのだが、始を鎌倉の船津邸へと案内した次席執事補であった。
「竜堂様、初めてお目にかかります。鳥羽靖一郎様のご親族様と共に賓客としてご案内申し上げるよう御前から仰せつかり、お迎えに参りました。表に車を用意させていただきましたので、ご同行賜りますと幸甚に存じます」
「……大変ご丁寧な挨拶、痛み入ります。ご多用にも関わらずご招待いただき恐縮でございます」
 鳥羽家の命が惜しければ車に乗れ、いいだろう好きにしろ、という双方の主張に限界まで慇懃なフィルターをかけた会話を交わすと冴子は解放され、一時的にの腕の中に戻る。抱き止めた体は微かに震えていたが、人質になった事への恐怖ではなく茉理の身を案ずる母の情からだとはも察しが付き、ほんの少し気丈だけで未成年の女の子に過ぎない従妹の身を案じた。
 だが、今はまだ、茉理は無事だろうと叔母を介助しながら歩き出したはネガティブな考えを改める。表立った力は未覚醒でも茉理もまた敖家の117代目である事を考えると、竜王転生説に囚われている船津老人がいきなり殺害を指示する可能性は少ない。真っ先に命の危険に晒されるのは竜堂家と血縁関係のない靖一郎だろうが茉理がの庇護から外れた直後に襲撃を受けたタイミングから逆算すると彼もグルか、そこまで考えながら玄関まで辿り着くと、送迎用に用意された黒塗りの高級車が2台、鳥羽家の前に停車していた。
 行き先を隠すつもりはないのか窓は遮蔽されていなかったが、前部と後部の座席の間には透明な壁が設置されている。の暴力から運転手を守る雇用側の気遣いから取り付けられた物ではなく、緊急事態に陥った場合は密室の後部座席にガスを流す仕掛けにでもなっているのだろう。自分は平気だが冴子は、と視線を向けると強靭な意志を宿らせた瞳で静かに頷かれた。
 竜堂の姓を持つ長女は気が強いと苦笑して冴子の為にドアを開けたは、叔母の姿勢に倣い悪辣だが真っ当な感性を持つ船津老人に嵌められた枷を甘んじて受け入れた。
 冴子を乗せた車を見送ってから、も先程の男に促されるまま車に乗り込み、シートもエンジンも何もかもが自分の愛車とはかけ離れた乗り心地の車内で輸送用の檻にしては随分高価だと口端を上方へ僅かに歪める。整った顔から滲み出る人食い虎の獰猛さに至近距離で触れた運転手は震えるように深呼吸をして職業意識を自身の脳髄から引き摺り出すと、助手席の交渉役に促され雇用主に見合った技量を発揮して滑るように車を発進させた。当然ながら目的地は冴子とは異なっているようで、視界の向こうで先行していた車とは別の道へと迷いなく進んでいく。
 タクシーの運転手のような気の利いた会話もなければバスのように親切なアナウンスがあるはずもなく、は車内の静寂の一端を担いながら窓の外で流れる景色を観察した。鎌倉の豪邸で大暴れなどさせるつもりはないのか、車は高速に乗り南ではなく南西に向かって移動している。
 輪郭すらはっきりしなかった富士山の姿が徐々に近付き、御殿場インターチェンジで車が一般道に下りるとの脳に警鐘が鳴り響いた。舞台として用意された場所で最も可能性が高いのは自衛隊の東富士演習場、使用される道具は素人でも扱える武器や凶器ではなくプロが扱う兵器。硝煙弾雨の中で全員が無傷のまま合流可能な手段を模索するが運に左右される作戦しか浮かばず、動揺を悟られないよう内心で唇を噛む。
 圧倒的な攻撃力と防御力、人から逸脱した機動力は情報が揃ってこそ十分に発揮される、人質が分散し居所が掴めない現状で彼女が取れる手段は限られていた。せめて船津老人の居場所さえ分かれば状況は好転するのだが小娘相手に下手を打つような相手ではない。冴子と茉理を弟達に預け身の安全を確保している内に独断で船津忠巌を殺害するのが最適解だったと後悔しても何もかもが遅く、ここまで後手に回ってしまった以上反省は後だと思考を切り替えた。
 権力を存分に使用した仕込みをしたのならば、始から聞いた性格から考えて船津老人は間違いなく演習の観覧席に姿を現す。そして、人質たる鳥羽家は手元に置かず囮として目視可能な範囲に配置し、救出に向かった竜堂家の兄弟に攻撃を加え覚醒を促す。その際、人質は分散させたままだろうか、そして自分自身はどの立場だとは考え、結論を出した。
 人質の鳥羽家は一箇所に、生きたまま集められる。
 あくまで肉弾戦が主体の竜堂家は遠方からの大火力や範囲攻撃に無力なので戦力を分散させ各個撃破する必要がない、無事に鳥羽家と合流出来たとしても今度は撤退の足手まといが一気に2人ないしは3人増加し行動制限がかかる為に狙いやすくなる。人質を害すると行動制限を課すどころか逆に何をしでかすか予測が付きづらくなり下手をしたら攻撃力と機動性が上がる、複数箇所に隠すと1人救出する毎に1人が撤退する可能性が高くなる、双方共にデメリットが大きい。
 この予測が正しければ、自分は人質ではなく竜王の血を貰い受けた唯一の例として人体実験施設送りかとは考え、すぐに否定する。そのような医療系の実験をするには不向きの場所だったからだ。となると、にも何らかの合図を与え人質救出に向かわせ、その身体能力を図る辺りが目的だろうか。だとしたら、逆転のチャンスはまだ残されていると獰猛な笑みを浮かべた。
 そこまで思案すると、は足を組み替えて窓の外を見る。何時の間にか山道へ入り込んでいた車が初夏の濃い緑の間を縫い終えて広い場所に到着し、広葉樹に囲まれたテューダー朝様式の山荘が物静かに佇み訪問客を出迎えていた。
 折り目正しい仕草でドアを開けた拉致実行犯に促され、は数時間ぶりに外の空気を吸い込む。時刻は未だ、昼前の閑かな午前。天候は穏やかだが、空は相変わらずくすんだような青色をしていた。