さわがしい訪問者
覆面パトカーに似せた一般車両から白と黒に塗装された本物のパトカーへとハンドルを握り変える羽目となった高林は気絶させられるだけで済んだ仕事熱心な警察官達を羨んだが、主導権を握る竜堂家の長姉と次男は彼の解放を承諾せず、引き続き割り振った役の遂行を無言で求めた。
もっとも、にしても、続にしても、高林に価値があるとは微塵も考えていない。古田と同じ下っ端に人質が務まるとは思えず、鎌倉にある船津邸の詳細な位置も事前に地図で把握しており、移動手段もある。それでも連行しているのは、泥臭い仕事を一切行わなかったキャリア組であろうと一応は元警察官なのでその辺りの知識があるだろうと踏んだ事と、誘拐犯への手土産という理由があったが、何よりも、兵糧攻めをしてくれた高林当人への嫌がらせの割合が大部分を占めていた。
反撃をするが追撃は行わない良心と雅量を持つ始に敗北した時点で手を引いていればこのような目に遭う事もなかったのだが、女や弟の方が与し易いと判断したのが運の尽きとでもいうように、結局、高林は自由の身にして貰える気配すらないまま鎌倉の奥地まで足を運ぶ羽目となった。
「姉貴、門が閉まってるぜ」
東京から移動する間にすっかり日も沈み、時刻は深夜の時間帯に入り込んでいる。窓を開ければ涼風と虫の声が流れてきそうな夜の向こうを確認した終がシートの間から身を乗り出して、助手席のにどうするつもりなのかと尋ねた。
暗闇の中に佇んでいるのは頑丈そうな鉄製の門扉だったが、竜堂家の人間の手に掛かれば障子戸と何ら変わりはない。とはいえ、門から邸宅に到着するまでかなり距離がありそうな豪邸ならば当然のようにガードマンが控えており、非殺傷系の武器で出迎えてくれるような相手でもないだろうと予想は付いている。
車のヘッドライトが門に光を浴びせる前に、は大仰な身振りで指を組み、隣の運転手に向かって顎で指示を出す。関係ない、行け。という事だ。
ブレーキを踏もうとしていた高林は震えながら汗で滑るハンドルを握り締め、徐々に迫って来る門を見ないように強く目を瞑るとアクセルを目一杯踏み込んだ。唸りを上げるエンジンと共に死なば諸共と叫び出しそうな運転手を尻目に、は嘆息しながら助手席から手を伸ばすと車が逸れて壁に突っ込まないようハンドル操作を行う。
「姉さん、悪の女幹部みたいだね」
「幹部じゃなくてボスだろ」
呑気な年少組の会話と共に鉄門が破壊され、砕け散ったフロントガラスが車内に散らばるも動揺を見せたのは運転手だけだった。
は風通しの良くなったパトカーの中で舞い乱れた髪を掻き上げてからルームミラー越しに続と視線を合わせる。その仕草だけで姉が求めるものを悟った続は長い脚を上げると足裏を目の前のシートに押し付け、不必要なブレーキを踏まないようにお願いしますと自動車教習所に勤める教官の14倍ほど丁寧な口調で運転手に注意を促した。
そして、一連の流れを眺めていた2人の弟達は少々呆れがちに顔を見合わせて、本当にこの姉兄は仲が良いのか悪いのかと視線だけで意思疎通をする。声に出さなかったのは、丁度行く手を阻んでいた青銅製の門がパトカーで強行突破されたからであり、会話を耳にしたや続の反応が怖かったからではない。
真夜中の山中で存在感を放つ豪奢な石造りの洋館を臨みながら、玉砂利の上でタイヤを空転させ、植え込みを根刮ぎ薙ぎ倒しパトカーが停止する。門を破壊する為に無理をさせたエンジンの音は喘息じみていて、サイドミラーは何処かで折れたのか姿を消し、四方のガラスは砕け散り、ボンネットは押し潰れ、最早車としての形も保っていなかったが、扉だけは辛うじて機能を残してしており、盛大で非常識な呼び鈴で訪問を告げた侵入者達は一応の文明人としてそこから鎌倉の地に降り立った。約1名だけは失神寸前のところを引き摺り出されたのだが、同乗者達は一切を無視して緊張感のないやり取りを引き続き行う。
「じゃあ、手筈通りにね。わたしは足を確保するから」
「姉さん。本当に1人で大丈夫? ぼくも一緒に行こうか?」
襟首を掴まれ無理矢理移動させられている高林の後ろで、余がに問い掛ける。続と終はこの暴力と気紛れと理不尽の権化のような姉の何処に心配をかける要素があるのかと暗闇に紛れさせた表情で語っていたが、優しい末っ子はそれには気付かず、兄も姉も平等に愛している故の言葉だと態度で示していた。
末の弟の親愛を理解しているはまだ幼さが残る柔らかな髪をひと撫でしてから、大丈夫だと笑顔を含ませた声で応じる。
「大半のガードマンはこちらに駆け付けるでしょうから、わたしは大丈夫。余こそ気を付けるのよ」
「ぼくは平気だよ。続兄さんも終兄さんも一緒だから」
「だから心配なのよ、のめり込み過ぎて引き際間違えそうで。車確保して待ってるから、早めに始と合流なさい」
姉からのあんまりな評価を受けて続と終が同時に抗議を行おうとした矢先、強力な光を放つ軍用のハンディライトの白い筋が暗闇を切り裂いて無法者達の4つの輪郭を鮮明に浮かび上がらせた。
「……4つ?」
「あれ、姉貴いねえ!?」
「まったく、あの人は。本当に勝手なんですから」
「そこにいるのは誰だ!?」
弟達とガードマンの誰何の声を背中で聞きながら、複数の人間の足音を聴覚で捉えた時点で目標地点までの進行ルートを確認していたは別行動に移っていた。
屋敷の方向とは逆の、今来たばかりの道を足音を殺し身を屈めて突き進む。お屋敷と表現しても誇張ではない広い敷地には相応のオブジェも多数設置されていた為、夜に紛れて少しそちらに寄れば人目を引く要素の塊のようなでも見咎められるどころか気付かれる事すらない。門前を固めていた幾人かのガードマンは皆、視線を前方にやり深夜に訪問したパトカー目掛けて走り出しており、侵入者達の中で最も警戒しなければならない人物には気付く様子もなかった。
「さっき、見えたんだけど」
青銅製の門を破壊した直後に確認した車両を探して顔を上げたは、念の為に残ったと思われる2名のガードマンの姿を見定めると方針を変更し、微塵も躊躇う事なく背後から近寄る。両者の手には散弾銃が握られているが、弾はゴム弾や催涙弾ではなく実弾だろうと考えながら一足飛びに距離を詰めた。
死なない程度に手加減した重い打撃を肺の裏側目掛けて繰り出し、息が止まり声も出せないまま倒れた同僚の姿に驚いているガードマンの腕を掴むと流れるように重心を崩して大地へ引き倒す。呻き声を上げるガードマンの手から離れた散弾銃を奪い、銃床で持ち主の頭を殴り付け頭蓋骨骨折の手土産付きで夢の世界へ旅立たせてやると、初撃で肋骨と肩甲骨が折れたのか背中を庇うようにして立ち上がれずにいるガードマンの方に近寄り、銃口で喉仏を突いた。
「こんばんは。不躾なお願いで申し訳ないのだけれど、貴方の第二頸椎と引き換えに、ジープ・チェロキーの車両とキーを貸してくださらないかしら」
頚椎どころか首そのものを吹き飛ばしそうな距離で銃を構えていたが物柔らかな脅迫を口にすると、人差し指を引き金にかける前にガードマンは一も二もなく頷き、待機所のある方向を指して鍵の在り処を吐く。
「く、車はあそこだ。だから、どうか命だけは」
「ありがとう。その懇願聞くの、今日で2度目よ」
うんざりした口調で言い放ちながらはガードマンの顎を蹴り上げて気絶させると、屋敷に見合った立派な待機所に侵入して目当ての鍵、そして、一緒にぶら下がっていたその他の鍵も纏めて持ち出した。
外に出た途端、身内ではない誰かが上げた野太い絶叫が森の木々の間にこだましての耳にも届く。乱闘している気配はないのでそろそろかと考えながら必要な鍵以外を夜空に向かって投げ捨て、エンジンをかけて車に問題がない事を確認していると、小石を敷き固めた道の向こうから弟達が揃って歩いて来るのが見えた。一見、怪我などしてないように見受けられたが、始の服装が出掛けた際のスーツではなく寸足らずなガードマンのシャツとスラックスだと判り、苦い表情を浮かべる。
「あまり暴れられなかったようね」
「だって始兄貴、すぐに来ちまったし」
「あれだけ派手な侵入方法をして、気付くなという方が難しいだろ」
「大丈夫だよ、終兄さん、きっと次があるよ」
「ま、何にしても今夜はお暇しましょう」
続が簡単に纏めると他の姉弟達も同意を示し、の運転でジープは船津邸を後にした。助手席には始、後部座席は余を真ん中にして、続と終が座っている。
「家の方向でよかったかしら」
「ああ、頼んだ」
が確認したきり始が黙ってしまったので車内は数秒の間静かになったが、家長が考えを纏めている内にとすぐに続が口を開いて姉に話し掛けた。
「姉さん、追手が少々気掛かりです。他の車はどうしましたか」
「一応、念を入れてガードマン用の車のキーは全部投げて捨てたわ。他にも移動手段はあるでしょうけど、今夜の所は大丈夫よ」
船津老人は渋谷の別邸ではなく鎌倉の本邸に竜堂家の家長を名目上は客人として招き、始のスーツが駄目になる程度の損害を与えると敷地外へ黙って解放した。自身のテリトリーへ招待したからには相応の準備があっただろうに、敢えて使用しなかった。そんな人間が、今更公道や大都会の真ん中で血眼の手下達をけしかけ大規模な事件を起こすとは考え難い。
そう持論を述べると続は納得したのか、助手席で深く考え込んでいる兄の表情を確認し、次に二文字しりとりで暇を潰し始めた弟達の表情を見てから、肩の力を抜いて家庭的な内容を口にする。
「横浜辺りでファミレスに寄った方がよさそうですね」
「ええ。でもその前に、まずは始の服を調達しましょう」
裾の足りないスラックスもみっともないが、警備会社のロゴが入ったシャツで食事はもっとまずいとが言外に告げると、続は同意と共に懸念を示した。
「閉店時間に間に合うかも心配なんですが、お金はどうするんですか」
「財布くらい持って来てるわよ。衣料品店は閉まっているけど、ファッションに拘らなければ24時間営業のディスカウントストアで間に合うでしょう。車はそこで乗り捨てるわ」
「その辺りの判断は任せます。ただ、電車でも車でも、品川には必ず寄ってください」
「……ああ、確かに、それだけは必要ね。時間も時間だから駅近くのビジネスホテルに泊まるつもりだったけど止めましょう、出来るだけ早く回収した方がいいから」
「ならいっそ、品川まで車で移動して、食事をしてから始発で帰る方が楽かもしれません」
「そうね。始がこっちの世界に帰って来たら提案しましょう」
思考の世界に沈み情報の過剰摂取で脳が消化不良を起こしている始を横目で見たの後頭部を、続が眺める。弟の視線に気付くと助手席から視線を外し、表情だけで何か言いたい事でもあるのかと問い掛ければ、毒舌家の続にしては珍しく、やや歯切れの悪い声で夕方の騒動を取り上げた。
「姉さん、高林の尋問前からあのご老人が鎌倉の御前だと断定していましたよね。その時は釈然としなかったんですけれど……」
「けれど?」
「ぼくらの預かり知らない所で叔父さんを問い質して確信を得ていそうだな、と」
疑問は抱いたが可能性の高い答えが浮かんだので呈する程の事でもなかったと告げる弟に対して、いい読みだとでもいうようには口元に笑みを浮かべる。
しかし、実際に彼女の口から出た言葉は真逆だった。
「ハズレ。詰問はしたけど、相手が違うわ」
接触が容易い靖一郎は第一候補だったが、叔父から情報を得た事が鎌倉の御前とやらに察知された場合に起こる未来を考えて次善の安全策を取ったと追加する。それを聞いた続はすぐに懸念材料を理解し、一時、古田重平と共に尋問相手として挙げた自身の軽率な考えを内心で恥じた。
仮に靖一郎の口から鎌倉の御前の正体が船津忠巌だと漏れた場合、あの老人は確実に相応の沙汰を執り行うであろう。靖一郎の身に不幸が降り注ごうと竜堂家の人間は同情などせず興味すら抱かないが、その不幸が茉理や冴子に及ぶのならば話は違ってくる。
情報漏洩は靖一郎のやった事なのだから妻や娘は関係ないだろう、というのはあくまで竜堂家側の主張に過ぎない。竜堂家の姉弟ですら場合によっては敵対者の身内に危害を加える事を厭わないのだ、ましてや船津老人がその手段に及ばないはずがないだろう。
そもそも、尋問する側のが気に掛けている親族という点だけでも、茉理と冴子は十分な加害対象になり得るので靖一郎への尋問はリスクの上乗せとなり、おいそれと挙行出来るものではない。他の選択肢があるのならば、そちらを採るべきなのだが。
しかし、古田重平、高林健吾、そして鳥羽靖一郎。それら以外の候補を続は挙げられず、車内は再び沈黙に包まれる。対向車線のライトが通過してから、は時間切れとおもむろに人名だけを挙げた。
「奥島健三」
「ああ、そういえばいましたね。そんな人も」
「誰だよ、その奥島って」
何時の間にか弟とのしりとりを中断した終がやや身を乗り出して姉に問うとすぐに返事が得られる。ただし、それを出したのは現実世界の時間軸に戻って来た始だった。
「おれの後任理事で、古田重平の第一秘書だ」
「あら、おかえり。考えは纏まった?」
「おかげさまで。それにしても、何時の間にあの男と接触したんだ」
「だってアンタ、結局ゴールデンウィーク中も静観決め込んで碌に方針決定しなかったじゃない。おまけに高林は勝手に締め上げるなって釘まで刺して」
雇用主は息子を連れて海外へ逃亡し、見放される形となった国家公務員は簡単に情報を吐いてくれたとは告げ、その上で、過去の事はどうでもいいと話題を切り替える言葉を口にした。
「で、あの老変質者とどんな話をしたのか、そろそろ訊いても構わないかしら」
船津老人の側近が耳にしたら卒倒しそうな呼称を平然と行うに苦笑をしてから、始はゆっくりと表情を変えて後方へ飛ぶように流れて行く道路照明の列を見つめる。やがて、どう切り出すかを決めたのか、最初に隣に座る姉を、次に後部座席の弟達をミラー越しに確認してから、吐き捨てるように言った。
「おれ達は、中国の伝説にいう四海竜王の生まれ変わりだとさ」
内心、誰かが馬鹿馬鹿しいと言って笑い話にしてくれないものかと期待した始だったが、ついにその台詞を耳にする事は出来なかった。代わりに、自分も含めた誰も彼もが、姉であるに何とも表現し難い視線を向けている事に気付いたのだった。