曖昧トルマリン

graytourmaline

さわがしい訪問者

 の心配をよそに、口座が封鎖されてからの数日間は竜堂家も敵方も双方共に動きを見せず、漫然と時間だけが浪費されるに留まった。
 状況に変化が訪れたのはゴールデンウィークが明けてすぐ、長子組が各々の口座がどのようになっているのかを確認に銀行へ赴いた、その日の夕方過ぎの事だ。
 計画が変更されたのか、結果をすぐに求める気が短い人間が指揮を執っているのか、何らかの不幸があって指揮権そのものが別人に移行したのか、そこまでは分からなかったが、敵方は竜堂家への兵糧攻めを一時的でも諦めたらしい。
 複数の銀行で説明された言い訳は担当者の人為的ミスという、一見もっともらしいが社外秘を盾に被害者個人への詳細の開示を拒むものだった。異口同音に若干うんざりしたものの間違いなく預金封鎖は解除されており、日本人離れした体格と風格に気圧されつつも、何故自分がこんな小娘に頭を下げなければならないのかという不満を隠し切れない支店長達のパフォーマンスに付き合い終えたは家路を急いだ。
 一介のサラリーマンでしかない銀行の支店長に嫌味を言い八つ当たりをしたところで時間の無駄であるからと立っている腹を宥めながら実家に帰宅すると、玄関口で続から始の未帰宅を告げられる。複数の銀行に口座を持つとは異なり、始は竜堂家が主に利用している大手の銀行にしか足を運んでいない。にも関わらず、連絡もなくよりも帰宅が遅れているという事は。
「何かあったわね」
「どうしますか、姉さん」
「車出すわ。渋谷経由で鎌倉までドライブに行きましょう、皆でね」
 動いているのは下っ端だろうから始の足取りを解析した所で無駄と決め付け、最初から頭を直接叩き潰すつもりでいる過激派の長女に、同じ派閥に属する次男が苦笑まじりに同意を示して残りの弟達に指示を出す為その場を去る。
 人違いだったらどうするのか、などという心配をする者はいない。ほぼ確信は得ているのだが、たとえ冤罪や人違いだとしても次の手を打つまでに過ぎず、弟達の為ならば他人にどれだけ迷惑や損害を与えようとは構わなかった。
 普段は愚弟だ何だと嘲弄しているが、長子である彼女にとって最優先事項は弟達の健全な生活と身の安全であり、それを遂行する為ならば、非常識で不健全な手段を用いて犯罪に手を染めようとも良心の呵責に苛まれる事はない。家族は全てに優先されるという血族至上主義は法治国家内で生活するにはあまりにも異質で傲慢な思想だったが、本人は是正する気配すらなかった。
 本質的には放胆で過激なのだが兄としての責任感から姉弟中では比較的穏健派に分類されるブレーキ役の始が不在となった今、竜堂家の姉弟を止める者はおらず、普段は悠々としている最穏健派の余すらも姉兄と同じように家長の大事ならばと喧嘩沙汰に乗り気になっている。思想そのものは大して過激ではないが気に入らない奴は力で黙らせればいいというシンプル思考で武闘派故に行き過ぎた被害を齎すタイプの終などは、正当な理由の下に暴れ出したくて堪らないといった様子で、既に闘争心が疼き目を輝やかせていた。
「終君、余君。仮にも家長の一大事ですよ。心躍らせていると捉えられるような言動は慎みなさい」
 居間に集合した長男以外の姉弟の様子を眺めた続が年長者として苦言を呈すと、最過激派のがそれを受けながら声を立てて笑う。
「じゃあ、今回いい子ちゃんに徹する続は後方待機ね。終は当然として、余、現地に着いたら前に出ていいわよ」
「流石姉貴、話が早い!」
「やった。終兄さん、ぼくにも半分残してね」
「何でそうなるんですか」
「本人が望んでいる以上、機会は平等に与えられるべきじゃなくて?」
「そうだそうだ。続兄貴は前回当たり引いたんだから今回はおれ達に譲ってくれよ」
「終君もそれなりに暴れたでしょう」
「あんなの前菜にもならなかったから誤差みたいなもんだろ。メインディッシュほぼ1人で平らげたんだから順番ってものが」
 言い終えない内に、終は舌を停止させた。
 他の3人も同様に口を噤ぎ目配せ合いながら窓の外の夕闇に意識を向けると、体格と反比例するような人相の男達が門から庭を横切るようにして姿を現し、敵意を持って4人の姉弟を睨んでいる。
 汚れたスーツと乱れた息に血走った目、肌の上に広がる真新しい赤い傷や青い痣。冷静な仕事人ではなく鬱憤を溜めた復讐者の表情を観察し終えたは大体の事情を察し、何の躊躇もせず居間の大窓を開け放ちながら弟達の方へ振り向く。
「家の中荒らされたら堪ったものじゃないわ」
 誰が掃除すると思ってるのよという愚痴を合図に3つの影が獲物を見付けた猟犬のような速度で飛び出し、一瞬の内に竜堂家の庭は乱戦の場になる。
 姉弟達に発見された時点で飛び出して来る可能性も考え戦闘態勢を取っていたはずの男が碌に反応出来ないまま終に投げ飛ばされ、反対側に飛び出した余の手で空中の住人となった男と衝突し前衛芸術のような格好で地面へと落下する。子供とは思えない腕力を目の当たりにして呆気に取られていた男の胴に続の踵が入り、血と胃液を吐きながら倒れ込む前に片手で襟を掴まれると飛び道具代わりと集団で襲い掛かろうとしていた暑苦しい塊に向かって投げ付け、纏めて数人を薙ぎ倒した。
 余の肘に肋骨を折られ膝を付いた男の頭上に終の拳で顎を割られた男が着地し、更にその上へ続の後ろ回し蹴りをまともに食らった男が折り重なる。その間にも次の獲物を求めて3つの影が駆け抜け、飛び跳ね、舞い踊る。
 唯一、居間の中に残っていたは元気溢れる弟達の様子を観察しながら腕を組み、乱闘から少し離れた薄闇の中を黙って観察していた。しかし、やがて訪れた変化を視認すると、勿体ぶった様子でゆっくりと腕を解いて、拾い上げたサンダルを手に肩慣らしでもするかのように軽く投擲した。
 フォームに合わない速度でサンダルが手を離れた数瞬後。辺り一帯に爆竹が破裂したような音が鳴り響くとほぼ同時に、最後の侵入者が折れた前歯を撒き散らしながら庭に沈む。その姿を見届ける事なく、一体何の音かと顔を上げ驚きの表情を浮かべた年少組に対して、続は音の発生源まで滑るような足取りで近寄った。
「続兄さん、その人達は?」
「そこに積み上がっている方々の上司のようです。大方、逃げ出そうとしていた所を姉さんに狩られたんでしょう」
 呻き声を上げるか気絶しているかのどちらかしかいない侵入者達の間を縫い、顔面と側頭部をサンダルの靴底形に腫らした男達のそれぞれの片脚ずつを掴んで引き摺ってきた続は、そんな事よりもと弟達の足元を見下ろした。
「出掛ける前に足を洗って靴下を変えた方が良さそうですね」
 兄弟の中で1人だけ外履きを履いて戦闘に及んでいた続が、窓辺に佇んだままのを一度見上げ、注文を追加する。
「ついでに、戸締まりと火の元の確認もよろしくお願いします」
「了解」
 終が軽い調子で応え、余もそれに倣った後、これから行われるであろう行為を想像して、兄の足元で震えている大人達に気の毒な生き物を見るような目を向けながら、わざとらしく合掌した。
 その仕草が何を意味しているのか理解して腫れた部分以外の顔色を青白く染めた大の大人2人を覆うように、長い影が伸びてくる。逆光の中でも翳らない魅力を持つ女性の隣に、夕闇の中でも端麗だと分かる青年が並んだ。美を司る男女神が地上に降り立ったような幻想的な共演だったが、2人が湛えている笑みを直視した残りの2人は身も心も凍り付いていた。
「さて、一番偉いのはどちらかしら」
「か、彼だ。わたしはただの管理職で、この男は警備会社の社長だ」
「違う! こいつの方が上だ、こいつは!」
「近所迷惑」
 叫ぶように言い掛けていた方の顔の中心にの爪先が四字熟語と共にめり込み、鼻骨を砕きながら黙らせる。下手に鍛えていた被害者と手加減した加害者の物理的な力関係が災いとなり気絶出来なかった姿を一瞥した後で、は引き攣った笑みを浮かべる細身の男を睥睨した。
「危機的状況に身合わない真摯な舌をお持ちのようね、ただの管理職こと現内閣官房副長官の高林健吾さん?」
 自身の半分の年月も生きていない小娘ならばと吐いた嘘が見破られていた事を知った高林の全身に冷や汗と脂汗が混ざったものが浮かび、まだ涼しい初夏の夕べにも関わらず真夏の炎天下の如くシャツを濡らす。
 助けを求めた視線が一瞬だけ続を捉えたが、竜堂家に手を出した害虫をどう処分してやろうかと無言で語っでいる姿だと分かり、方針を変更した。
「し、知っている事は全部話す。だから、どうか命だけは」
「ねえ、続。この方、命以外は要らないそうよ」
「ぼく達は兄のように寛大ではないので、その心意気は好都合ですね」
「都合は良いけど加減が難しいのよねえ。半身不随までなら構わないでしょうけど、脳死は不可かしら。命の定義から始めてみましょうか?」
「時間の無駄なので問答しながらでも十分です。兄の所へ案内しなければ、左足の小指から始めて、20本の指を全部へし折ってさしあげますよ。それから麻酔なしで歯を抜いて」
「なっ……ま、待ってくれ。違う、そうじゃなくて、これ以上」
「いやだわ。ご子息より年下の若造相手に必死になって」
 弁明など聞くつもりはないと遮ったは冷たい艶を帯びた笑みを引っ込め、逆再生された動画のように真顔になる。ただでさえ威圧的な体躯であるのに際立って美しいの真顔は、直前との緩急も相俟って高林にとって押し潰すような静の暴力となっていた。
 その表情のまま、鼻から顎までを赤く染めた男の前で屈んだは身分証明書を探り当てながら、指の形が愉快になる前にまずは奈良原さんみたいになりたいのと疑問形で告げ、再度サディスティックに笑う。単純な飴と鞭だったが鞭の威力は絶大で、気が変わる前に有益な情報を吐かなければ暴力と拷問の両方に招待されると確信した高林は姉弟が欲していた情報を洗い浚い吐いた。
 そうして大体の経緯と多少有益な情報が手許に揃った頃、年長者達の計らいで席を外していた年少組が、あとは居間と玄関だけだと報告ついでに戻って来る。
「尋問終わった?」
「なんだ。もっと悲惨な光景になってると思ったけど、案外軽症で済んだみたいだな。おっさん達、運が良いぜ」
 鼻が潰れ顔の下半分を血で染めた奈良原を見ながら終が言うので、高林は文字通り震え上がり、小さく鳴る歯を必死に堪えながら孔雀の羽を被った鷹達を見上げた。
 その視線の先で、続はを見ている。家長の始が不在である以上、一応の年長者なので指示を仰いでいるのだ。
「この人達の偽造覆面パトカーを拝借しましょう」
 4人で一緒に行動するのは既定路線で移動車両以外に変更はなしと告げると、余が挙手をして発言権を得た。
「途中で本物のパトカーに捕まったらどうするの?」
「本物の方が都合が良いんじゃなくて?」
 遠回しに強奪を示唆したに続はやや危険な笑みで同意を示し、年少組は一度パトカーに乗ってみたかったと無邪気にはしゃぎ始める。早くも本物のパトカーへ乗車出来るつもりのようだが、まず間違いなくそうなるだろうと予測したは訂正せず、代わりに、足元で震えている大人の内で出血量が多い方の右肩を蹴り上げた。
 既に始によって齎されていた痛みが不意打ちで累乗され、恐怖という麻酔を凌駕して奈良原を襲う。喉を震わせるだけの声にならない声を上げ、のたうち回ろうとした頭をが踏み付けた。見方によってはある一定層にとって大変なご褒美の構図だが、残念ながら奈良原は無抵抗の人間を痛め付ける事に楽しみを抱く方の人間で、も奈良原のような男を痛め付けたところで興奮するような性癖は持ち合わせていなかった。
「このまま大人しくお家に帰って、二度とわたし達に手を出さないと約束出来るのなら、そこの燃える粗大ゴミ共々見逃して差し上げるけれど、如何かしら」
「わ、かった。分かり、ました。もう二度とこのような事はいたしません、だからどうか」
「よろしい。万が一約束を破ったら、相応の報復を覚悟する事ね」
 痛みと恐怖に抵抗する気力すら削がれ、長々と弁明しようとする舌を遮ったは及び腰で立ち上がった奈良原を尻目に溜息を吐く。その後に向かった視線の先は高橋ではなく、不満そうな表情を隠しもしていない続だった。
「随分ぬるい対応でしたね」
「庭先で死体拵えたら後始末が面倒でしょう。さっきも言ったけど、誰が掃除すると思ってるのよ」
「き、君達は」
「貴方に口を開く許可を与えた覚えはありませんが」
 姉と弟の関係が悪いのならばもしかしたら活路を見いだせるかもしれないと期待した高林を、は眼光だけで、続は言葉にして黙らせた。
 身内同士の貶し合いならば甘噛みに爪を引っ掛ける程度で済むが、他人が一言でも舐めた言動をしようものなら殴り潰すという割と碌でもない主義を理解出来ず、しかし失言した事実だけは汲み取れた高林の頭上で、終が余に話し掛ける。
「兄弟牆に鬩げども外その務りを禦ぐってやつだな」
「凄いなあ、終兄さん。難しい諺もあっさり出せるなんて」
「感服したか、弟よ。これが日頃の勉強のタマモノだ」
「何が賜物ですか、お祖父さんからの受け売りでしょう」
「そんな厳しい事ばかり言わずに、たまには終の言葉を信じてあげなさいな。お祖父様から聞いたその後に、自分で調べたのかもしれないでしょう」
「はっはっは、もっと言ってくれたまえ」
「まあ、たまには褒めて伸ばすべきですかね。それで終君、出典は?」
「え!? ええと、それはその」
「ぱっと思い付くだけでも幾つかあるわよね。詩経? それとも学問のすゝめ? わたしが知っているのはそれくらいだけど、どのテキストから調べたのかしら」
「姉さん、上田秋成もですよ」
「忘れてたわ、雨月物語ね。終、日頃から勉強しているのなら答えられるでしょう?」
「そ、そんな事よりさ。早く始兄貴を助けに行こうぜ、あんまり待たせたら痺れを切らした兄貴が動いて擦れ違うかもしれないだろ」
 上げた直後に落とされ雲行きが怪しくなった故の露骨な話題転換ではあったが、方向性そのものは真っ当で正しかったので、も続も調子に乗りかけた三男坊を突いて遊ぶのは中断する。
 そうしてから、代表としてが口を開き方針を示した。
「さ、それじゃあ、高林さんには古都鎌倉までのガイドと運転手と人質を頼みましょうか。終、余、うちの口座を封鎖した主犯から目を離さないようにね」
「この人がやったの?」
「だったら、もうちょっと痛め付けてもいいんじゃねえの」
「道案内兼運転手にさせるって今言ったじゃない。ストレス発散したいのなら現地に着いてからになさい、半殺し程度なら弾除けくらいにはなるでしょう」
 想定外の許可に高林は声も出ず呻くが、耳聡く拾い上げたは両手足を縛られ生きたまま海に棄てられないだけマシだろうと蔑みの笑みを浮かべる。一般家庭で育った人間が考え及ぶ手口ではないのだが、直後に、姉貴は本当にやるよなと身内からお墨付きを貰っている以上、冗談や演技として聞き流す事など到底出来るはずもなかった。
 どのようにして命の危機から脱するべきか、始に価値観と矜持を叩き潰されてから、ここでやっと頭を回転させ始めた高林に対して、が拷問吏の顔で囁く。
「立て続けの失敗、主人の代理人が結んだ契約の反故、加えて情報漏洩。教科書に見本として載せたいラインナップね。御前様とやらは貴方をどう処理するのかしら。わたしだったら四肢を豚の餌にした後で、その豚を煮込んで食べさせてやるところだけど」
 最後の言葉を耳にして、高林は回り始めた思考を停止させ、直後、迫り上がってきた嘔吐感を必死に堪えた。3月末の船津邸での記憶が一気に蘇り、今後身に降りかかるであろう恐怖と共に嫌悪感にも襲われたのだ。
 突き付けられた少しだけ未来の現実に高林が顔色を失い恐慌状態に陥る寸前、に視線で促された弟達が良い警官に扮した悪魔の顔をしながら提示をする。
「姉さんはこう言っていますが、ぼく達3人の機嫌を損なわずに役に立てば、問題ないと判断した時点で見逃して差し上げてもいいですよ」
「勝手に決めないで欲しいわね、鎌倉に到着したら封鎖した口座の数だけ背骨を折るつもりだったのに」
「おじさん、続兄さんに協力した方がいいと思う。姉さん接骨師だから知識もあるし、きっと躊躇わずにやるよ」
「そうそう。姉貴はおれ達姉弟の中で一番おっかないからさ」
「分かった。分かったから、君達に協力するから、助けてくれ」
「助けてくれ? 何様かしら、さっきの粗暴そうな人ですら丁寧な口調を繕えたのに」
 言い方が気に入らないとが眉を顰めると、そこでようやく歯を鳴らしながら助けてくださいと高林は言い直す。案外、この辺りの判断能力と行動力は、誇れるような内容ではないものの実戦経験が豊富な奈良原の方が優れており、現に彼は、竜堂家の庭に積み上がった部下を叩き起こすなり担がせるなりして既に現場を去っている。
 は悪い警官の顔を崩さないまま横目で続を見て、続も軽く頷き返した。
 無言で意思の疎通を終わらせると、続は高林の襟を起点に片腕で体を持ち上げ門へと向かい、終と余が兄の背を追って駆け出す。
 そんな中で、だけは居間へ足を向けた。窓に鍵をかける為だった。