灰色の黄金週間
マンションの狭いキッチンに仲良く並んだと余は、山のような洗い物を片付けながらバスルームから微かに聞こえてくる珍妙な歌詞の鼻歌に耳を傾け、互いに苦笑し合った。誰が聞いても上機嫌で幸せだと分かる歌声の発生源は2人の兄弟である終で、夕方から3時間近くかけてワイン1本分の量と両手の指では収まらない種類の酒肴を胃袋に収めたばかりである事を雄弁に物語っていた。
「楽しそうだね、終兄さん」
「まあ、駄々捏ねてた直後にしてはね。切り替えが早い子で良かったわ。でも、お酒を楽しむのは素敵だけど、あんな風に他人に迷惑かけながら飲んじゃ駄目よ?」
「うん、気を付ける」
酒の度数を説明した直後に諸々の蒸留酒を一口で飲もうとする、割材で薄めても一気飲みをしようとする、ワインを注いだグラスもジュースのように煽ろうとする、飲み干した瞬間から次を注ごうとする、チェイサーを拒む、ほろ酔いだと判断出来ているのに飲み足りないと喚く。脳内に書き留めたメモを読み返して、は仕方なさそうに軽く溜息を吐いた。
呂律は回っているが滑りが良くなり過ぎて淀みなく文句を垂れる終から酒類を力尽くで取り上げたは、自重出来るようになるまでは誰かが隣にいない限り飲酒は保護者の許可制にしなければならないようだと結論を出す。
その決意を気配で悟ったのか、乱れ飛ぶ注意を大人しく眺めながら酒肴を白米で美味しくいただく事に注力していた余は、きっと気を許している姉が相手だから兄の箍が外れたのだろうと感想を抱いたが、特に確信もなく、また、誰に対してもフォローになりそうもないので黙る事にした。
酔っ払いの自作曲をBGMに片付けも一通り終え、さて残った酒類をどうしようかとが口にする前に、玄関のチャイムが鳴る。
「誰だろう、こんな時間に」
「誰かは分かるわよ。何しに来たかは知らないけどね」
もう少し早く来なさいよと言いつつ扉を開けたは、予想と違わぬ白皙の美貌を前に心底面倒臭そうな表情を浮かべた。
「続兄さん、どうしたの?」
「君達が姉さんの家で宅飲みをすると耳にしたので」
「残念だけど、もうお開きだから帰りなさいな。そもそもアンタは招いてないはずよ」
「困りましたね。折角兄さんと茉理ちゃんを2人きりにして抜け出して来たんですが」
「雑魚寝でいいのなら上がりなさい。ご飯は食べてきたの?」
「一応は。どうぞ、手土産です」
「下戸にどうしろって言うのよ、それ、自分で飲む為の物でしょう。アンタに芋焼酎の絵面はミスマッチで笑えるけど」
分かりやすい手の平返しを見た余は年長組に対して素直になれない姉の態度を笑いながら竜堂家の半分の幅もない廊下の端に寄り通路を開ける。同時に、姉が評した通り、次兄の美神じみた外見と裸の一升瓶の組み合わせは強烈な違和感があると感想を抱いた。
「ビールとワインが残ってるから、それで適当におつまみ作ってあげるわ。先に飲んでなさい。余も食べる?」
「うん、食べたい」
「じゃあ、使い切っても問題なさそうね。終がもうすぐ出るだろうから、交代でお風呂入っていいわよ」
つい先程まで長い夕餉を摂っていた余であったが、竜堂家の一員且つ中学生男子らしくの申し出には即答した。
それを見て微笑むに対して、続の表情は呆れがちだった。無論、感情の矛先は末弟ではない。
「姉さん、余君には甘いですよね」
「続に当たりが強いのは可愛げがないからよ。冷奴と漬物ならまだ残ってるけど」
「辛子漬けありましたよね」
「ないわ。茄子と人参の糠漬けで我慢なさい」
「その隣にあるものは何ですか?」
「大根の辛子漬け」
続が無言で一升瓶を逆手に持ち替え、は横目で洗ったばかりの包丁を確認する。
そう大きくもない冷蔵庫の前で心温まるついでに発火寸前の親密な視線を交わし姉弟の絆を確かめ合っていると、浮ついた様子の終がバスルームから火照り気味の顔を出し、一気に酔いが醒めた表情となり、静かに扉を閉めた。その扉を、余の拳が軽く叩く。
「終兄さん、ぼくもお風呂入りたいから代わってよ」
「悪い。寒気がしたから湯船に浸かる事にする」
「酔った状態で入浴は駄目って言ったでしょう、渋ってないで余と代わりなさい。冷蔵庫にトマトのコンポートあるから」
「餌で釣ろうったってそうは」
「姉さんが天ぷら作ってくれるそうですよ」
「姉貴、おれ天丼食べたい!」
「今日は天茶になさい」
言い終わらない内に餌に釣られた終が空気を壊し、続が正常な位置に瓶を握り直し鉾を収めると、も温くなった缶ビールを取りに戻りながら、仕方がなさそうな顔で可愛げのある方の弟達を眺めた。勝手知ったるとばかりに冷蔵庫を開けて両方の漬け物を持ち出した可愛くない方の弟の行動は、無視する事にしたようだ。
入浴中に片付けられた部屋の片隅でシロップ漬けのミニトマトを摘む終の隣に続が座り、冷たい豆腐と野菜と一升瓶を前にロックグラスに入った透明な液体を喉に通す。程なくして行水する烏その2の余が冷えた麦茶を片手に現れ、最後に食欲を唆る香りと共に湯気を上げる酒肴を携えたが鶏団子の赤ワイン煮とアサリの白ワイン蒸しをローテーブルの上に置いてその場を去り、コンロの前に立った。とはいっても、弟達との距離は目と鼻の先だ。
単身者用のマンションに人間4名、しかも内2名は平均的な日本人よりも大柄であるにも関わらず考えなしに詰め込まれた様は、どの角度から見ても窮屈極まりなかった。揚げ物と片付けを終えたら風呂に入ろうとが予定を立てていると、広い背中に元気で陽気な声がかけられる。
「姉貴、姉貴! 芋焼酎飲みたいな」
「今日はもう駄目。今度になさい」
「今度っていつだよ」
「次の中間テストが終わったら」
「約束だからな」
「アンタが忘れなければね」
ゴネると思っていたが案外すんなり譲った終を見て、よく躾けたものだと続は感心する。もっとも、この見解は間違いで、既に盛大にゴネ終わったが故の素直さなのだが。
それでも、テストの結果が出るまでお預けにしない程度には弟を信頼しているの手で揚げられた天ぷらとお茶漬けが狭い食卓に登ると、6本の箸が一斉に伸びる。育ち盛り真っ只中の10代の学生達から湧いて出る食欲は留まる事を知らず、遂に僅かに朝食分だけを残し冷蔵庫が白旗をあげていた。
「余、わたしお風呂入るけど、冷蔵庫を漁るのは禁止だって酔っ払い共に伝言お願い。明日の朝食抜きでいいのなら構わないけどって付け加えて」
「うん、なるべく頑張る」
「姉さんはぼくを何だと思っているんですか。終君じゃあるまいし」
「続兄貴こそおれの事、何だと思ってるんだよ。明日の分だって先に言ってくれれば食わねえもん」
「アンタ達も大概余には甘いわよね」
了承ではなく意志の表明で応える末の弟を挟みアルコールの入った兄達が抗議するが、矛先が最年少者に向く事だけは決してない。常日頃から長子組は余に甘いと不満と指摘を繰り返している次男坊と三男坊も、いざとなると結局は同じ穴の狢であった。
未成年の酔っ払い同士が矛先を向け合っている隙にバスルームへ移動したはゆっくりと時間をかけて全身を洗い、体を温める。一人暮らしの日本人向けに作られたバスタブはには窮屈で足も伸ばせないが、それでも疲労が少しずつ湯に溶け出す感覚があった。
近所迷惑にはならない程度に盛り上がっている青少年の声を耳にしながら、こんな日常が壊れなければよかったのにと過去形で胸中を溢す。
一見平穏そのものの竜堂家だが、現在進行系で銀行口座が封鎖されており、未だ解決の糸口は掴めていない。船津忠巌にまでは行かなくとも高林なる官僚辺りには手を伸ばしていいのではないかとは思っているのだが、始の重い腰は中々上がらないでいた。
「見舞金の額、もうちょっと絞るべきだったかもしれないわね」
当面の生活費が保証されてしまったが故に、表面上は平和主義者を取り繕えてしまっている双子の弟の顔を思い浮かべ苛立ち混じりに呟くが、しかしそこを絞った場合、壁越しで談笑している弟達にまで被害が及ぶジレンマからは水面を波立たせる。
既にゴールデンウィークに入っているにも関わらず竜堂家の家長は未だ何の方針も示していないのが、彼女は気に食わなかった。いっそ単独で解決を試みようかと思った事は、一度や二度では済まない。
それでも、どれだけ不満を募らせようと足並みを揃える為に待機しているのは、家長の顔を立てている訳ではなく、相手方の報復が自身ではなく弟に向かう事を危惧してである。
滅多な理由では怪我もせず、常人ならば命を落とすような危険も気軽に返り討ちにしてしまう人外じみた家族だが、にとって始以下の4人は弟であり、庇護対象だった。出来る限り危険から遠ざけたいと願う気持ちは始と何ら変わらず、その気持ちが独断専行を阻害していた。
「後戻り出来ないと判断してから動くと、手段も限られてくるのよねえ。まあ、体系化された組織相手なら段取りもクソもないゲリラ戦の方が効果的だけど」
今はまだ小物が相手だから小娘の浅知恵で対処出来るが、いずれ近い内に少し先手を打った程度ではどうにもならない未来を見据え、長い目で見た場合は始に理があると自身を納得させたは入浴を終えようと立ち上がる。
抜けていたはずの疲労はいつの間にか節々に戻っていたが、そもそも最初から幻覚か単なる麻痺だったのかもしれない。駕籠舁き駕籠に乗らずと不満を反響させながら諦めて受け入れ、ルームウェアに着替えて部屋まで戻ると、料理の皿は既に空になるどころか綺麗に片付けられていた。
「余が洗ってくれたの?」
「だって前にぼくが洗うって言ったから。でも、揚げ物で使った鍋は油をどうすればいいか分からなかったから、そのままなんだ」
「再利用する為に冷ましていたから大正解ね。助かったわ、ありがとう」
「今度、捨て方も教えてね」
「ええ。また今度ね」
言い終えてからは続を見下ろして、余の可愛げはこういう所にあるのだと視線だけで語りかけると、続もグラスを傾けながら知っていますと目線だけで返事をする。それを見た終がベッドに腰掛けながら、姉貴も兄貴も余大好きじゃんと呟きながら当人を自分の隣に座らせ、兄に肩を抱かれた余は照れくさそうに笑った。
少しの物足りなさを感じながらも、始と茉理がくっついても案外4人で賑やかに暮らしていけるかもしれないと、出来る事ならば近い将来訪れて欲しい空想を、は静かに胸中へとしまった。