灰色の黄金週間
不在が仕方がないのはも理解していた。元々、にしても、茉理にしても、本日は竜堂家を訪れる予定ではなかった所に訪問を捻じ込んだのだから、必要最低限の事だけ済ませたら帰るのは当たり前だった。
「あ、やっぱり姉貴だ。見舞金ありがと」
「どういたしまして、一応確認に来たけど栄養失調の心配はないようね」
食欲の満たされ具合がバイタリティに直結している終が食堂から顔を覗かせ、は封書を片手に掲げ微笑む。茉理に予め渡して持たせておいた分厚く事務的でインク臭い封筒とは異なり、薄く華やかなもので、微かに良い香りがした。
「続はいるかしら」
「始兄貴と書斎で相談中。呼んで来ようか」
「そこまでの必要はないわ。麻田絵里さんからお手紙が届いていただけ」
「へえ、珍しい」
同級生の少女の淡い恋心を乗せた封書からの香りを打ち消すファストフードの強烈な匂いを漂わせながら、終はの手元を物珍しそうに覗き込む。
姉弟の中でも一際恋愛対象として好意を寄せられる続は、バレンタインや誕生日に託けてメッセージカード付きのプレゼントを贈られる事こそ数多いが、記念日でもない平時にラブレターのみを送られる事は案外少ない。
続自身の反応が希薄な事もあるが、類稀な美貌に釣り合う自信と、その後に訪れるであろう様々な柵に耐えられる精神力を持つ女性が圧倒的に少ない事に加え、密やかな手紙の譲渡が困難になる現役大学生という要素が重なり合った結果だった。
数年前までは机や下駄箱の中に置き去りにされたラブレターを手に困惑と迷惑を等分した表情で帰宅する続の姿は日常の一部だったが、現在は他の兄弟もその手の物の仲介を拒んでいる為、非日常の光景となって久しい。郵送という行動にまで至る人物は、終が口にしたように珍しかった。
しかし、珍しいだけで、それ以上の価値は2人にはない。手紙をどうするかは受取人が決める事だと互いに頷き合い、無言でから終の手に渡り、終は配達人として書斎に向かって駆けて行くと、すぐに戻って来る。
「姉さんも来てくれたの?」
「茉理とは別の救援物資を持ってね」
終と入れ違うように余も顔を覗かせるが、こちらも兵糧攻めされている現状に困窮や悲観している様子は見受けられない。2人の弟の様子が何時も通りであると確認したは、ハンバーガーの残り香が充満する食堂に足を踏み入れ冷蔵庫を開ける。竜堂家の台所の片翼を担っている茉理も前述の理由から流石に今日は作り置きを持ち込めなかったらしく、内部は調味料類だけを残して掃除の遣り甲斐を刺激する姿を晒していた。
バンズとパティを頬張る作業を一時中断し手伝いをごく自然に行う弟達に、は保温中の炊飯器と米櫃を見下ろした後に話しかける。
「お米はあるわね」
「お米しかないけどな」
「缶詰もふりかけもないんだ」
コップに残った水の量に対する感覚じみた受け答えをする弟を呆れがちな、それでも何処か愛おしそうな目で見下ろしながら、軽く頭を小突いた。
「お米と調味料さえあれば十分よ。今日明日分の惣菜は作って来たから、暫くはそれで凌ぎなさいな」
「ありがとう、姉さん」
「竜堂家ってさ、もしかして女の人の方が用意周到?」
「後方支援に関してはそうかもね」
意味深な笑みを浮かべたは食事に戻ろうとする弟達を呼び止め、鞄の中から小さな冊子と印鑑を取り出し手渡す。冊子の正体も分からないまま受け取った2人の弟は、それが既に所持しているものとは異なる自分名義の郵便貯金の通帳だと知って首を傾げ、中に記載されていた金額に目を瞠った。
「茉理から郵便局の口座は無事だって伝え聞いたから渡しておくわ。本当はアンタ達が18歳になったらそうするつもりだったけど、そんな事を言ってられるような状況でもなくなってきたから」
郵便局だけは複数口座作れるから直前まで隠しておけるのよねとは淡々と言い、終と余は互いに顔を見合わてアイコンタクトを行う。
「嬉しいけど、でも、いいのかよ。こんな大金」
「続にも去年渡したしね、元々渡すつもりだったから良いも悪いもないわ。受け取った以上はアンタ達の物よ、後は自分で判断なさい」
「終兄さん、どうすればいいのかは分からないけど、全額引き落とした方がいいよね」
「そうだな。使い道は後で考えようぜ」
二言三言、軽く相談をしてからひとまず方針を固めた弟達は、改めて丁寧に礼を言う。それを軽く受け流しながら洗い物を始めるの背に、余が自分の仕事だと言ったのにと抗議するが聞こえないふりをして押し通った。
数少ない食器を手早く片付けたは時計を確認してから、終がコーラを飲み干したタイミングを見計らい口火を切る。
「そういえばアンタよね、料理用の赤ワイン空にしたの」
「な、なんの事かなあ」
「石器時代の誤魔化し方をするくらいなら潔く認めなさいな。続から何か聞いてるかしら」
「いや、別に何も……」
飲酒をに報告したのが続だとしても、何故ここで突然兄の名が出てくるのだろうと終は表情のみで疑問を呈するが、はそれを無視して仕方なさそうに溜息を吐き出した。
すぐ下の弟が自分の命令など聞くはずがないと分かっていても、もしかしたらと僅かに期待していたのだ。
「ゴールデンウィーク中に泊まりに来なさい。飲み方と呑まれ方、教えてあげるから」
「え、いいの?」
家長の目を盗み損ね初めての飲酒がバレた日、未成年なのに飲酒するとは何事かと拳骨付きで教育的指導された経験がある終は姉の発言に目を瞬かせるが、続と茉理も未成年と言われ腕を組みながらしみじみと納得する。
「始兄貴にも反論したけどさ、それはそれ、これはこれって認めてくれなかったんだよ」
「でしょうね。ま、何が正論かって言えば続以下全員飲酒禁止ってなる訳だけど、我が家は法律よりも感情論で動くから」
「未成年の飲酒は事実だから否定しようがないけどさ、感情論って要するに贔屓だよなあ。こういう小さな積み重ねが少年を非行に走らせるんだぜって始兄貴に言ってくれよ」
「何が非行よ、偉そうに言わないの。信頼と信用の積み重ねを疎かにしているのは終の方でしょう。わたしにしても始にしても、続と茉理の飲酒を黙認しているのは他所様に醜態を晒さないって確信しているからなのよ?」
「ぐうの音も出ない」
飲食に関する兄と従姉の姿勢と、色々とやらかす度に長子組からの鉄拳制裁を受けている自身を振り返った終は早々に白旗を上げた。アルコールは好きだが耐性が弱く、おまけに酒乱の気を自覚するくらいには飲んで呑まれた経験もある事から、終はテーブルに突っ伏し己の非を認める。
そんな姉兄のやり取りを眺めて残り少ないハンバーガーを取った余は、包装紙を剥がす手を止め上目遣いでを見た。
「姉さん、ぼくも姉さんの家に泊まりたいな」
「ベッドは終と共有で、お酒は飲まないって約束出来るのならいいわよ。終の無様な格好を素面の脳に刻み付けて反面教師になさい」
既に終がアルコールに負けると読んでいるに、余は苦笑を交えながらも同意する。当然、終は兄の威厳を保つ為に反論した。
「姉貴が教えてくれるなら、おれだって自重するよ」
「終兄さんに出来るかなあ」
「どういう意味だよ」
「前後不覚になる事なんてないだろうって思われるように、普段から弟に信頼されるような行動を取りなさいって意味よ」
年少組の兄弟愛溢れる会話に茶々を入れていたの視線が静かに逸れ、食堂の入り口へ向かう。軍資金を得て精神的な余裕を取り戻した年長組が一通りの相談を終わらせて現れたからだった。
続は昨夜と全く変わらない雰囲気と表情だったが、始は姉に対して思う所があるようで、少し言い淀んでから感謝の言葉を口にする。
「ありがとう。助かったよ、姉さん」
「はいはい、どういたしまして」
当たり前の事をしたまでだと口調と態度で語るの姿を見て、弟達はそれぞれ、こういう所が竜堂家の長姉だなと考えを一致させた。尊大で気狂いで自分勝手で何かに付けて辟易するような言動ばかり取る姉なのだが、愛情深く明敏な面も確かに備わっているからこそ、家族の絆は断ち切れないのだと。
しかし、それはそれとして、といち早く思考を纏め上げて切り捨てた続が、姉さんの口座はどうでしたかと現実に降り掛かっている問題を尋ねると、食堂の空気が一変した。
「幾つかの銀行に口座持ってるけど、そっちは軒並み駄目ね。郵便局は封鎖されていなかったからATMの限度額まで引き出して来たけど。それで、方針は固まった?」
「黒幕の目星なら兄さんが付けてくれましたよ」
「じゃあ、いよいよ殴り込みか」
「兄さん達、今度はぼくと姉さんも連れて行ってね」
「慌てるな。まだ確たる証拠もないんだ」
逸る年少組を始が抑え、もう少し詰めるからゴールデンウィーク中にまた来てくれと続けると、は軽く手を上げて二つ返事で了承する。
「でも、ゴールデンウィークねえ、相変わらず呑気だこと。何も進んでないみたいだから、わたしは出掛けるわ。夜まで駐車場借りるわよ。多分帰宅は深夜になると思うから、車だけ回収してそのまま帰るわね」
少し早口で告げる様子から元々所用があった所に実家訪問の予定を無理矢理捩じ込んだ雰囲気を全員が悟り、続に至っては外出理由はアルバイトである勘付いたようだが、口に出したのは兄弟達と同じ別れの挨拶だった。
特に誰からも反論される事なくは食堂を出ると、その流れのまま敷居を跨ぎ、必要最低限の物を持って敷地外へ足を踏み出す。
そこで一度足を止め、晩春の青空を黙って見上げた。黒い宝石のような目線の先には、人間の思惑などに揺れ動かされるはずがないと言いたげな雲の姿と、雲と同じ色を放つ真昼の月が静かに揺れ動いていた。