曖昧トルマリン

graytourmaline

灰色の黄金週間

 麻田絵里の誘拐から暦の月が変わっても竜堂家周辺に目を瞠るような大きな変化は見られず、襲撃を身構えていた一同は少々拍子抜けした。やった事といえば精々、盗聴器が仕掛け直されたので探して壊し、という単調な作業を数度繰り返した程度である。
 そうして、ゴールデンウィークを数日後に控えた晩春の、残り数時間で日曜日に日付が変わる頃。本日の勤務もつつがなく終えたは、縦にも横にも狭いエレベーターを降りた先に弟の姿を発見し帰宅と就寝に一時的な別れを告げた。道行く人々からの視線を独占する、雑居ビルには釣り合わない外見を持つ青年は、姉の姿を視界に捉えると溜息を吐きながら広い背中を壁面から離す。
 弟の続がアルバイト帰りに寄り道して来た事をは既に知っていた。第六感的な姉弟の絆からではなく、内なる神のお告げでも虫の知らせでもない。が勤める接骨院の常連客であり、続がアルバイトをしているプールバーでオーナーを務めている人物が、そう言っていたからだった。
 去年の春、新規従業員を引き連れて意気揚々と接骨院に現れた男性の姿をは鮮明に思い出せる。高校を卒業したばかりの続が渋い表情を浮べようと一切悪びれず、に保護者としての何たるかを説教する事もなく、未成年者の飲酒という事業者としての責任も見て見ぬふりをして、顔似てるし年近いし姓一緒だから姉弟かと思ったらやっぱりそうだったと言い残し、答えを合わせるだけして満足したら去って行くような人物である。
 既に離れて暮らしていた姉弟を勝手に引き合わせたのは不問にするとしても、近いのは髪色くらいで顔は似ていないと互いに口を揃えて反論した事は全く懐かしくない記憶として今でもの脳裏に焼き付いていた。
 あれでバーのマスターなどやれるのだろうかとは訝しむが、続曰く、いい加減そうに見えるだけで仕事は出来るという。基本、身内以外に辛辣な続がそう評価するのならば相当出来る人間で、人は見かけによらないという言葉通りの人物らしい。
 そのような相手が身近に存在するので、言伝があった事は続も予想していたのだろう。寧ろ、雇い主の性質を利用したというべきか。兎も角、一向に驚いた様子のない実姉の隣に並ぶと、淡々とした口調で本日の昼過ぎに終が銀行で受けた対応を語った。
 相槌を打ちながらは僅かに逡巡し、目的を定めると爪先の方向を変えて迷いのない足取りでネオンの中を突き進み始め、続もそれに倣う。桁外れの身長と美貌を兼ね備えた男女の組み合わせは先程以上に人目を引いたが、本人達は慣れたもので似たような長さの脚を同じような速度で動かす。
 年少組が共にいる時には絶対に出さない歩幅と速度で幾本かの通りを抜けた先にある一軒の創作居酒屋の扉をくぐった所で、ようやく続が口を開いた。
「ファミレスで構わないんですが」
「ここ、美味しいのよ。ご飯物は2人前以上の量が出てくるから、丁度いいでしょう」
 言いながら席に着いたはメニューを手に取り、弟の反応も見ずに姉弟に目を奪われ頬を染めた店員を呼び止め次々と料理名を読み上げた。
 畏敬の念など絶対に抱けず、些細な思慮の違いから事ある毎に衝突するが、このような所だけは曲がりなりにも長姉なのだなと続は呆れがちな感心を水と共に空腹の中へ送り込む。
 何者かによって銀行口座が封鎖され残り僅かな生活費で済ませた夕食は、青少年ばかりの四人兄弟の旺盛な食欲を満たすには到底足りるものではなかった。それでなくとも竜堂家の人間は揃いも揃って健啖家で成人男性の2倍、3倍程度の量を腹八分目として日頃から平らげる。これは何も、口から胃袋にかけてが常に食物を求めている三男坊だけでなく、長男から末弟までの全員に当て嵌った。つまり、次男坊である続も例外ではない。
 ただ、若干19歳にして家長を支える立場に人生を捧げていると言っても決して過言ではない続は、平等や均等という概念を足蹴にする理性と合理性を持ち合わせていた。
「どうせ自分は後で食べるからって適当に抜かして誤魔化したんでしょう。器用貧乏というか、何というか。昔からアンタって子は、どうしようもないくらい始の弟で、終と余のお兄ちゃんなのよねえ」
 敬愛する長兄が可能な限り全力で動けるよう諸々を悟らせない気遣いと、2人の弟の兄でもあるという自覚と責任感と、兄弟に対する愛情を軽い調子で揶揄する姉に、続は苦い表情を返す。どうせ同じ立場に置かれたら同じように振る舞うくせに、と若干の嫌味も込めて言葉にした。
「そうですね。参考までに、姉さんがぼくの立場だったらどうするのか伺いたいのですが」
「書斎の地球儀と天球儀の下に頭突っ込んでみなさいな。少しくらいはお姉様の思考に理解が及ぶかもしれなくてよ?」
 言い返されたはというと分かりやすく鼻で笑いながら続をあしらい、店員が持って来たドライジンジャーエールを手に取る。鯨飲しそうな外見なのに下戸なのは相変わらずかと考えながら続もグラスに手を伸ばそうとするが、酒の前に何か入れろとドリンクと共に出て来た食べ物を押し付けられた。
 弟が空きっ腹を抱えていると分かっていながらアルコールを注文する辺りがという姉の駄目な所である。勝手な人だと愚痴を溢しながら紹興酒の烏龍茶割りを飲み、砂肝の柚子ポン酢とサーモンのユッケ風に箸を付けて胃を宥めすかしていると、腹が膨れたら先に帰宅するように自分も一度家に帰るからとが告げた。
「今日は来ないんですね」
「あら、続ちゃんはお姉ちゃんと一緒にいられないのがそんなに寂しいの。可哀想だけど、今夜は駄目なの。飴ちゃんあげるから駄々捏ねずに真っ直ぐお家へ帰るのよ?」
「いりませんよ。ソフトドリンクで酔っ払わないでください」
 半分溶けてまた固まった飴を突き返し不愉快極まりない様子を隠そうともしない続を眺めたは、空腹だから怒りっぽくなっていると声を立てて笑いながら見当外れの事を言い受け流した。そのまま弟の機嫌を取る事もなく、ATMで口座の様子を確認してから行くので午後には顔を出せると一方的に予定を伝える。
「兵糧攻めは予想してたからね。わたし一人分ならタンス預金でしばらく保つし、他にもアテを作ってあるけど。いつまでやられるか分からない以上は一応ね」
「盗聴器を仕掛けられているのに。無事なんですか、その現金」
「文字通りワードローブを利用した預金だから平気」
 そんなものに入れて大丈夫なのかと反射的に口を付きそうになるが、19年と3ヶ月半の付き合いになる姉の言動を振り返りながら、現金を中に入れるような間抜けな事はしないと断定した。
 そして続の予想通り、は兵糧攻めを見据えて確保した生活費を抽斗の中になどしまっていない。下に隠しただけである。
 竜堂家の人間にとってはちょっと嵩張るペーパーウェイトと何ら変わらないが、他人の住居に不法に侵入するような普通の人間には簡単に動かせないそれは、用途は違えどある程度タンス預金としての役割を果たしていた。
 ふと、続は先程のの発言を思い出した。そして間を置かず確信する。書斎の壁際に鎮座している馬鹿みたいに大きな天球儀と地球儀も、その一種なのだろうと。
 姉の周到さに感謝と苛立ちを同量で抱えつつ、後者の感情は未だ満たされていない空腹からだろうと自己分析して素直に礼を述べた。同時に、直接始に手渡しておくのが確実ではと思わないでもなかったが、社会人且つ竜堂家家長である兄が、困窮もしていないのにこの姉からの援助を素直に受け取るだろうかと疑念を抱く。感謝の言葉を適当な相槌で受け取った姉当人も、弟と同じ考えだった。
「明日、茉理にも連絡しておくわ。始が失業した場合の当面のお金、あの子に幾らか預けてあるから」
「当然ながら、茉理ちゃん経由になりますよね。ただ、その辺りも踏まえて、余君が先に連絡を付けていましたよ」
「流石甘え上手の末っ子。助けて欲しい時に声を上げて行動に移せる精神って大事よね、意地でお腹は膨れないもの」
 2人前はあろうかという和風天津飯に、ほぼ同量の鮭チャーハン、揚げ出し豆腐、鶏の油淋ソースがけ、温泉卵が添えられた豚の角煮。テーブルに並べられたばかりの三大栄養素の塊を全て続の前に押し付けつつは言い、自分は枝豆に手を付けてノンアルコールカクテルを追加で注文する。
「続は端整な面の皮が分厚いから安心出来るし、終もその辺りは本能に忠実だから器用に立ち回れるのに、始単独で兄弟分のバランス取ってるのよねえ。そういう度し難い性格だからこそアンタ達が付いて行くんでしょうけど」
 兄は家族に対する責任感が人一倍強いだけで度し難いのは姉の方だと続は考えたが、言うだけ無駄な反論は食事よりも優先順位が低かったので黙って箸を動かすに留まった。
 負の要素の集合体のようなであるが料理に対する感性は確かで、空腹も手伝ってか瞬く間に皿の中が空になる。一口が大きい訳でもなければ掻き込むような食べ方もせず、気品を保ったままだというのに、臨戦時のフードファイターに引けを取らない速度で消えていく料理を見ては満足げに頷き、ドリンクを運んで来た店員は目を丸くしていた。
 呆気に取られ足を止めた店員に更にデザートを追加注文するに便乗して自家製杏仁豆腐とラムベースのカクテルを加える弟の強かさに苦笑する。メニューに視線を落とすと、ホワイトラムとホワイトキュラソーをオレンジジュースとグレナデンシロップで割った甘味と度数が中々に強いカクテルだと分かり、お酒と言えばと話題を変えた。
「料理用の赤ワインが新しいのに変わってたんだけど、また終が飲んだの?」
「そういえば、先週辺りに宿酔いで学校を休んでいましたね」
「高校生になって早々。まったく、どうせならもっと堂々といいお酒を飲んで宿酔いになればいいのに。あの子にだけは飲み方と呑まれ方を教えないといけないのかしら」
 腹を立てている点が一般的な箇所とは異なり、未成年だから絶対に飲むなと頭ごなしには否定しないに、食欲が満たされアルコールが回って来たのか続は何も返さず黙って笑うに留まった。そもそも、続にしても、茉理にしても、未成年の身でワインや日本酒の味を覚えており、それらは全ての仕業である。
 自分で責任が取れる範囲の飲み方をしなさい。まだ学生服の世話になっていた頃の2人に彼女が告げた言葉はそれだけだった。
 何をどれだけ何処で飲むかは自分の頭で考えろと未成年に言うのは無責任ではないかと当時の続は思ったものだが、その言葉だけで自制出来る人間だと信頼されていたのだろうと今は理解している。たとえそれが大学受験前日の飲酒やプールバーでのアルバイトという結果になっても、は一言も咎める事はなかった。
 終のみ事情が異なり飲酒制限が課されているのは、どうも酒癖が宜しくない、それに尽きるからである。自宅で酔って暴れて吐く程度ならいざ知らず、外で警察や救急車のお世話になりかねない事をしでかしそうな三男坊の緩みをは警戒していた。特に、病院は血液が他人と大きく異なる竜堂家一同にとって非常にまずい場所なのだ。
「それに関しては賛成します。ぼくや茉理ちゃんのように口頭だけで終君が止まるとは思えないので、姉さんが一緒に飲んであげては如何ですか」
「決めた。終は続に任せるわ」
 賛同した流れで下戸にアルコールを飲ませようとする弟の台詞を聞いた未成年飲酒推奨者は今後の方針を決め、そもそも竜堂家はすぐ上の姉兄が下の弟の面倒を見る伝統があるのだからと言い訳を並べながら全面的に続へと丸投げする。
「ぼくは兄さん以外からの命令を聞くつもりはありませんよ」
「あら可哀想なこと、だったら終は成人するまで……」
 そこまで言い掛けて、突然口を噤み眉根を寄せたに、続は困惑と不審を織り交ぜた表情を浮かべた。
 空気が張り詰め、直後、大きな溜息と共に急速に萎む。
「姉さん?」
「……頭きちゃう。脳内居候の神様から普段より強めの怪電波を受信しただけよ、タイミング悪いったらないわ」
 殺意と頭痛を堪えるような雰囲気を一変させ、ストローの紙包装くらい軽い態度でいつもの戯言だと言い切ったは、それともやっとお姉様の内なる神様の存在を妄言とせず認める気になったのかと軽口を叩いた。
 直前までの空気の変化を肌で感じた続は、姉のそれを冗談で済ませていいものなのかも分からず不穏な箇所で途切れた言葉の残りを催促すべきかと考えたが、結局、追求は避け残っていたカクテルを飲み干す事で態度を曖昧にして誤魔化す。
 彼がそうしたのは、デザートを受け取ろうとするの手が、微かに震えているように見えたからだった。