曖昧トルマリン

graytourmaline

悪役、交替す

 腰の辺りを大きく切られたシャツを丁寧に整え、は1階の衣装部屋を兼ねた和室でアイロンを黙々と動かしていた。シャツの持ち主である続曰く、古田重平に日本刀で切り付けられたという。
 性根は錆び付いているが腕は確かなのか、刀自体が名刀だったのか、兎も角、続に怪我がなかった事を密かに安堵しつつ補修していると、双子の弟が何か言いたそうな顔をして姿を現した。
 椿油の件だろうと当たりを付けて言葉にすれば半分は正解だったようで、鱗に油を塗るとか空を飛べるだとか余に変な事を吹き込むなと注意を受ける。
「椿油は冗談として空を飛べるのは本当よ。それとも、両方共本当にしてあげましょうか、油の購入費が始持ちならだけど」
「姉さん、酔ってるのか」
「下戸なの知っているでしょう」
 アルコールが原因でないのならいつもの妄言かと始は頭痛を堪えるような仕草で肩を落とし、今日は一段と激しいなと声に出さず呟いた。
「冗談を咎めて妄想と決め付ける為だけに態々来たの? 用がないのなら寝なさいな、明日の朝、寝坊しそうになったら冷水で上半身浴させて起こしてあげるけど」
「気遣いと嫌がらせの区別が付かないのなら、せめて普通に起こしてくれ」
「下着剥いで睾丸に消炎鎮痛剤入りのアイシングスプレーを噴射して欲しいようね」
 冗談でも本気だとしても笑えない発言に、の普通が己のそれと乖離している事を思い出した始は気持ちを切り替える。衣替えを待ち侘びている衣類が詰まった重厚な桐箪笥を背に畳の上で胡座をかき、今迄の会話はなかった事にするような素振りをした。
 も更に混ぜ返すつもりはないのか、麻田絵里誘拐についての所感を末弟に言えなかった事も含めて述べながら、除けていたアイロンを再びシャツの上へと滑らせた。しばしの間、アイロンの蒸気と布が温まった特有の香りが2人の間に居座ったが、裂かれていた傷口が塞がったタイミングで今度は始が口を開く。内容は主に、古田重平宅で新たに入手した情報だった。
「内閣官房副長官を顎で使える黒幕、ねえ」
 鎌倉の御前と大層な二つ名で呼ばれる人物に心当たりはあるがは口を噤んだ。
 幼い頃の記憶からなる勘と憶測からの心当たりに過ぎず、素人捜査からの人違いならば目も当てられない。先入観を植え付けるよりも古田重平の証言から辿る手段の方向が確実だろうという思惑も、当然絡んでいる。
 ただ、その情報があるにも関わらず、相手方からのアプローチ待ちという後手の姿勢を崩さない弟には否定的な意見を述べた。
「おれは平和主義者なんだ、姉さんと違って」
「病院嫌いの屁理屈聞いてる気分だわ」
 事態が悪化するまで行動しないつもりかとに問われ、溜息で少し間を開けてから、鎌倉の御前に思い当たるふしがあると始は呟くように口に出した。
「もしかして、船津忠巌?」
「ああ、そうだ」
 まさかそこまで行き着いていたとは思わなかったと表情に出した双子は、互いに物的証拠が一切ないまま辿り着いた事を確認する。始は納得していない様子だったが、反対に、は腑に落ちた様子でアイロン台を片付けた。
「ふうん。あの日の事を覚えていてあの態度だったの。お祖父様のお葬式で花輪や香典を受け取って、黙って香典返しまで済ませたから、てっきり忘れてるのかと思ったけど」
「何の事だ」
「あら、やっぱり忘れているの? じゃあ、どうやって目星付けたのよ」
「祖父さんの葬式に来た代理人の態度と、古田の書斎にあったサイン本だ。あれと同じ物が鳥羽の叔父貴も持っていたからだが」
 姉さんはどうしてなんだと逆に問われ、は未だに記憶の隅に刻まれている思い出を唇を通じて引き摺り出す。
 18年前の事だ、当時幼稚園の年長だったと始が船津忠巌に出会ったのは。
 出会ったとは言っても、招かれざる祖父の知人として竜堂家を訪れたその男と交わしたのは挨拶程度に過ぎない。一見すると特に目立った身体的特徴もない老爺だったが、視線に含まれた粘着質な気味の悪さがの脳裏にへばり付いて離れなかった。正確には、ではなく、2人の弟に向けられた視線に、だ。
 獲物を狙う飢えた捕食者のような、美術品を値踏みする成金のような、老いている癖に脂ぎった目付きに危険を感じ取ったのは、何もだけではなかった。寧ろ、当時から既に長男としての自己を確立していた始の方が先に反応し、前に出て、不穏な雰囲気を肌で感じ取り今にも泣き出しそうだった幼い弟に向けられる淀んだ視線を遮ろうとしたのだ。その隙には、まだやっと歩けるようになったばかりの続を抱え、半ば走るようにその場を辞したが、部屋に隠れる直前までその視線は背中へ流し込まれていた。
 豪快だが躾には厳しかった祖父が咎めるような客人への対応だったが、あの日、あの相手に対してだけは何も言われなかった事を、は今でも鮮明に思い出せる。申し開きをしようと並んだ双子の頭を黙って撫でた手の温かく乾いた感触と、船津の奴めという噛み殺し損ねた言葉も。
 フナヅ、という危険人物の名は、それからずっと、の記憶の引き出しの中にしまわれていた。
 数年前、まだ大学生の時に、祖父が亡くなるまでは。
「あったかな、そんな事」
「あったわよ。丁度、続を匿ったのがこの部屋だったかしら」
 今でこそ半ば物置状態の衣装部屋だが、当時は階段は危険だという理由で幼稚園児達の寝室となっていた和室をはぐるりと見回す。それでも始は思い出せない様子で、軽く頭を振っていた。
「よく18年も前の事を覚えているな」
「今のままじゃ駄目だと思い知って、わたしの中の神様の存在を容認する契機になった事件だからね。流石に忘れないわよ」
 が話した過去の有無を判断する天秤が一瞬にして無の方向に大きく傾き、始は軽く眉を顰める。もしかしたら、自分が訪ねてから今迄の会話の全てが妄言かもしれないとも考えたが、どの道、直接乗り込むには証拠も情報も共に不足しているので、現実と姉の空想との境を確認するという行為は諦めた。
 ひとまず、船津忠巌と鎌倉の御前について調査をするので高林なる官僚を勝手に締め上げて解決を試みないように釘を刺し、就寝する為に立ち上がる。は始が寝坊をした場合に拷問死しそうな事を冗談めかして言ったが、その実、本気で履行される事を知っているからだった。
 新学期早々命と急所の危機を迎える前に切り上げようと始が部屋の扉に手を掛けようとした直前、今度は終が入って来た。見ると、ボタンが取れかけたパジャマを着ている。
「姉貴いる? って、始兄貴もいた。ボタン直して欲しいんだけど」
「はいはい、パジャマ脱いで寄越しなさい」
 調理も被服も実技は碌に出来ない弟の手からパジャマを受け取ると、上着を羽織っていない事に気付いたのかは自分が着ていたそれを代わりに投げ返した。
 続や自分だったら上着を取りに行けと尻を蹴り上げられるか、肌寒い中で放置されていただろうなと、年少組には何かと甘いを眺めながら始はこっそりと溜息を吐き、目の前の会話を眺める。
「姉貴が着ろよ。おれは平気だから」
「一丁前に生意気言ってないで着なさい、見てるこっちが寒いのよ」
「でも」
「くどい。爪と指の肉の間に縫い針刺すわよ」
「なんでおれ、脅迫されてんだろ」
 押し問答と呼ぶには一方的なやりとりをしながらもは祖母が愛用していた裁縫道具から必要な物を取り出す。押し負けた終は尚も文句を垂れつつも袖を通し、平均的な15歳男子の体は、一回り以上大きな姉の上着に埋もれていた。
 そのまま畳の上で足を伸ばすが、ふと、何かを思い出したのか、そうだと言いながら視線を姉の手から顔、そして兄へと移す。
「おれさ、姉貴に帰って来て欲しい」
 三男坊からの要望に、長姉は苦虫を噛み潰したような顔をして手を止め、長男は若干訝しみながらもその意図を尋ねた。
「だって姉貴は女の人で、一人暮らしだろ。今日みたいな連中が襲って来ても返り討ちに出来るけどさ、寝てる時とか、危ないと思う」
 今日の麻田絵里と、先日の余の件が終の不安を刺激した結果出た言葉に、どうしたものかと双子は顔を見合わせる。
 始は半ば以上の本心とある種の信頼からを害虫駆除剤扱いしており、も余程の事が起きない限り自分は死なないという自信から襲撃は寧ろ歓迎していた。竜堂は竜堂家の長子であり、様々な面で人外じみた4人の弟の姉なのだ、何を怯える必要があると。
 しかし終の場合、母親代わりの姉、という2人にはない点が追加されるのだ。
 終の母親像は半分が祖母、もう半分が8歳年上のによって構成されており、物心付く前に亡くなった母親の印象は薄い。彼はマザコンでもフェミニストでもなく、姉のラジカルな腕っぷしと性格は自身どころか兄達よりも上を行く人だと理解している、それでも、理屈抜きで心配してしまうのだ。方向は異なるが、終のこれは唯一の弟である余に対しても当てはまる。
 それを理解しているからこそ、も始も戸惑った。弟は真心から、たった一人の姉を心配しているのだから。
「それに、渋谷で働いてるならこっちの方が通勤楽じゃん。部屋だって、相談すれば余とおれで相部屋に出来るかもしれないから、家賃も浮くし。今日みたいに何かあった時の情報共有だって楽だろ」
 危険を説くだけではなくメリットも提示する弟には素直に感心し、緩やかに笑い、そして提案を拒否した。
「何でだよ」
「こっちの家が小悪党共に襲撃された時、1人くらい敷地外で活動出来るようにした方が反撃方法の選択肢が増える、これが1つ目」
「……うん」
 家族全員が固まっていても大して損害や手段に変化はないし、バラバラでいた方が寧ろ危険ではないか、と終は短い沈黙の中で語ったが、ひとまず大人しく頷いた。
「2つ目。わたしの中の神様がアンタ達に何をしでかすか予想出来ない。精神力が強過ぎて人格を乗っ取れなかったって言い訳してたけど、あれ絶対にスロープレイだからねえ」
「なあ、兄貴も姉貴が家に戻った方がいいと思うよな」
 姉の話を聞き終えた直後、三男坊が家長に進言する。姉を慕う弟の気持ちは分からないでもないが、始は苦笑するに留まった。
 は手に職をつけた成人であり、また、未成年の頃から一度として始の庇護下に入った事がない。続以下全員が未成年の弟達とは立場が全く違うのだ。
「話を聞きなさいよ」
「聞いたから兄貴に訊いたんだよ」
「終の言い分に理があるのは確かだが、姉さんが承諾しないのなら無理強いは出来ないな。第一、おれ達がいなくても一人で危なげなく生きていけそうな人だからなあ」
「そういう事。大体ね、あと数年もしない内に茉理が始に嫁ぐでしょう? 新婚夫婦と一つ屋根の下なんて御免よ。そうなったら確実に家を出るんだから、今から帰ってどうこうするなんて無駄じゃない」
「うーん、それは一理ある」
「なんでいきなりそういう話題になるんだ」
「ま、わたしの身の安全云々は横に置いて、始が教職まで追われて完全に失業者になったら流石に出戻って養うくらいの甲斐性はあるわよ。保護者が無職でもアンタ達は気にしなさそうだけど、焦った始が変な所に就職しても困るからね」
 が押されている所に流れ弾を2発も食らった始は思い切り眉を顰め、しかし反論するのも馬鹿らしくなり、明日に備えて寝るようにとやや強引に話題を変えた。も時間が時間なので、口を挟まず、ボタンを直したパジャマと上着を交換する。
「寝坊だけはさせないから安心なさい。布団剥いで洗面所に連行してあげるから」
「そんな事しなくても起きられるぜ、明日の朝ご飯、だし巻き卵とアジの開きなんだろ」
 いくらエスカレータ式とはいえ新高校一年生としての始業式を控えた一応は特別な日なのだが、万事食欲優先で行動する終は新学期よりも久方振りの和の朝食に心を踊らせていた。
 尤も、それくらい呑気で楽観的な方がいいだろうとはも始も思っている。
 祖父の言ったその時が近付きつつある現状を憂慮するのは年長組の役割だが、その中で、弟達が自らや家族の境遇に対して素直に悩みを打ち明け、黙って悲観ぶったりしないのは、間違いなく大きな救いとなっていた。声に出したら間違いなく図に乗るので、双方共に、余程の事が起きない限り口に出す予定はないが。
 おやすみと言いながら元気に部屋を出て行った終の背中を眺めた双子はどちらともなく肩を竦め合うと、ほぼ同時に溜息を吐く。
 竜堂家の春の夜は、こうして更けていった。