曖昧トルマリン

graytourmaline

悪役、交替す

「新学期までは保つと思ったんだけどねえ」
「仕方がないよ、姉さん。ぼくらのせいじゃないもの」
 親子丼と温かい山菜蕎麦、諸々の副菜に箸を付け、は食堂の時計と玄関のある方角を眺めてからテーブルを挟んだ先の余に視線を移した。
 新学期を明日に控えた晩にも関わらず、竜堂家の広い食卓には長姉と末弟の姿しか見当たらない。残りの弟達は何処へ消えたかというと、それぞれ恵比寿や八王子まで人質救出という名の乱闘騒ぎを起こす為に出かけていた。
 保守党代議士の息子、古田義国を名乗る差出人が麻田絵理を預かったとの文面からなる、果たし状じみた脅迫状を竜堂家に叩き付けたのは今日の午後の事だった。
 兄3人は実働部隊として行動を開始したと、留守番を言い付けられた余から職場に連絡が入ったのがそれから1時間程後。早退の必要はないからお仕事頑張ってねと電話口で釘を刺され、末弟経由でいいように操作されている事を実感しながらも就業時間いっぱいまで仕事を熟したが実家の敷居を跨いだのが、今から1時間半前の事である。
 年頃の青少年らしく慢性空腹症候群を抱えている弟達の為に夕飯を拵えただったが、3人が帰って来る気配は未だない。
 手こずっている訳ではないのは承知している、ただ単に、訪問する先々の距離の関係から移動に時間を取られているのだろう。竜堂家は主にフィジカル特化でテレポートやアポートのような空間操作能力はない。超能力持ちだからといっても、万能ではないのだ。
「麻田先輩、無事だといいね」
「……そうね」
 誘拐された麻田絵理と面識はないが、気の優しい末っ子はつい先日まで同じ中等科に通っていた女子生徒の身を案じていた。それに対するの返答はやや曖昧で、自然と眉間に皺を寄せている。
 既に髪を切られたという被害が出ている事も勿論あったが、それ以上に、今回の件はどこか胡散臭いと言いたげな表情を浮かべ、数秒後、そのままの言葉を口に出した。
「どの辺りが?」
「脅迫状の実名記載は珍しいと思うの」
「それ、始兄さんも言ってた。でも多分、本人からだろうって」
「直接対峙した感想と現状から逆算しても、そうみたね」
 古田義国の名前を使った第三者が存在する可能性から真の目的は竜堂家の戦力分散にあるのではないかとは勘繰っていたが、あらかじめ仕入れていた情報と始から伝え聞いた人物像と壁の時計から杞憂だったと自らの予想を否定した。
 時間的に考えて、弟達は既に古田側の誰かしらには接触しているはずである。当然、麻田絵理の行方に関して質問するだろうし、相手がそんな人物は知らないと吐いた時点で間違いなく余へ連絡が届くはずだが、それもない。
 残る疑わしい点は狂言誘拐の線だが、会話の相手が余である事と、麻田絵里について朧気な記憶しか持たず確証が得られない事から口に出しはしはなかった。
 共和学院が擁する女子短期大学の講師か助教授辺りに麻田姓の人間がいたとは記憶していた。蜃海家姉弟の長姉を嫁に迎え、一男ニ女をもうけた人物である。
 祖父の教え子であり、顔を見ればお互い名前がすぐ出て親しげに語りかける事が出来る程度には交流を保っている蜃海家の人間と結婚した男性だったのでも薄っすら覚えているが、狂言誘拐に加担するような人物かまでは流石に判らない。そもそも麻田姓は珍しいものではなく、麻田絵里がの考える麻田家と同一であるのかすら断言出来ないのだ。
 芳名帳を共に整理した年長組ならばこの辺りに勘付いており、共和学院の関係者ならば未だ辛うじて現役理事職の始の方が調査能力が高い。そう判断したは余には2番目の可能性を隠したままにして、いつの間にか空にしていた丼鉢を見下ろした。上の空での食事は褒められた食べ方ではないと手を合わせ終えた後で席を立つと、脳よりも味覚をよく働かせていた余が洗い物の手伝いを申し出る。
「じゃあ、食器拭きと片付け、お願いね」
「これからは、ぼくが水仕事する」
「有り難いけど、ハンドクリーム持ってる?」
「持ってない」
「……仕方ないわね、1個あげるから頼んでいいかしら」
「任せて!」
 勤め先の内容を知った余の気遣いを無下にする訳にもいかず、はいつもよりも格段に少ない食器類を前に、穏やかな表情を意識して浮かべた。
 話しやすい雰囲気を作ったのは、余が夢遊病のついでに空中浮遊をした翌日から何かに思い悩んでいるようだと、始から連絡を受けた故の行動である。
 3人の兄、特に長兄には確固たる信頼を寄せている余が煩悶したまま口を開かない場合、に出番が回ってくるのは昔からの慣例だった。今日、喧嘩沙汰から遠ざけられ留守番に任命されたのは何も足手まといの年少者扱いされたからではない。
 それを当人も理解しているのだろう。心配性の長子達の取り計らいを余は汲み取り、素直に受け取った。
「姉さんに話したい事があるんだ。ぼくの夢の事なんだけど」
「うん」
「いつも、竜は必ず4匹出てくるんだ。それで、この間の夢で、兄さん達はあそこにいるのに姉さんがいないって強く感じて。普通なら、ぼくが見ている夢なんだから、あれは姉さんと兄さん達が竜に見えるんだってなるよね? なのに夢のぼくも此処にいるのに向こうにいるような、両方共が夢で現実みたいな不思議な気分になって。夢だから何が正しいかなんてないんだろうけど、でも、姉さんがいなかったんだ」
「うん」
「偶にしてくれる話、いつも姉さんだけがぼくらと違うって言ってるよね。最初はそれが原因なのかなって思ったんだけど、そうじゃないって。理由も、何もないけど」
 時空すら不確かで五感にも頼れない超常の感覚を上手く言語化出来ず眉根を寄せる余に対し、は軽く頷いただけで表情を変えず黙って次の言葉を待った。
「夢って、意識の働きとか、そういう物に関係してるんだよね? でも、ぼくは姉さんと一緒にいたい。なのになんで、あんな夢を見たんだろう」
 お兄さん子であり、また、お姉さん子でもある末の弟が抱える不安を聞き終えたは、まだ残っている食器を手にしながら自信に満ちた笑みと明るい声でそれを払拭する。
「その夢、余は関係ないわ。というよりも、余の意識には関係ないの」
「ぼくが見ているのに?」
「見させられている、の間違いだから」
 少し主題から逸れるが、とは胸の内でのみ呟いて弟を見下ろした。
 ついでに腹の底経由で海を超えた西の彼方に向かって苛立ちを抱えるが、こちらは悟らせず遠隔精神感応と耳慣れない単語を確認するように口にする。
「自発的なものじゃないのよ、余は中継役として夢を見させられているだけ。前から言ってなかったかしら、砂金採りの神様が強制で見せてるって」
「言ってたけど、砂金じゃなくて試験の神様だったよ」
「文房具でもいいけどね」
「うーん、菅原道真?」
「それはわたしの中に巣食っている方の神様が一瞬自称していたかしら。怨霊じみた湿っぽい振る舞いは柄じゃないってすぐに飽きてたけど」
 連想ゲームで軽口を叩けるくらいには元気が残っている末っ子に安堵したは、水気を吸った布巾を交換してから食器類を戸棚にしまい始める。
 逸れた主題を戻そうと一息吐いてから肩の下で忙しなく動き回る余の頭を撫で、一日中付けっぱなしであっただろう寝癖に触れながら澄んだ黒曜石の瞳を見下ろした。
「安心なさいな。わたしはアンタ達のお姉ちゃんで竜堂家の一員よ、生半可な事で行方知れずになったりするもんですか」
「約束だよ。嘘を吐いたら承知しないからね」
 嘘を吐いた挙げ句に捕縛され10歳も年下の弟に怒られる姿を想像したは、少し前までは赤ん坊同然だったのにひとかどの少年になってという若年寄のような感想を飲み込み、薄く狭い肩に両手を置く。
「元から置いて行くつもりはないし、置いて行かれるつもりもないわ。アンタ達4人が竜の姿になっても、隣で空を駆けるくらいの胆力はあるから」
「胆力って。でも、姉さんだったら、本当に飛べそう」
「あら、信じてないのね。これは嘘じゃないわよ」
「……じゃあ、絶対に側にいてね。夢でも現実でもいいから、一緒に竜になってね。家族なんだから、離ればなれにならないでね」
 長兄に吐露出来なかった感情を素直にぶつけてくる末弟を、は体ごと抱き締めて承諾した。
 余にとっては姉兄がずっと共にいる事が当たり前で、夢という自意識に否定されかけたからこその不安だったのだろう。去年の春にほぼ何の予告もなく家を出た事もそれを増長する材料になったのかもしれないとは今頃になって申し訳なく思いながら、それでも、自らの決断は間違っていないとの思いから謝罪の言葉を口にする事はなかった。
 代わりに肩から手を離しハンドクリームを渡そうとする直前、廊下から電子音が鳴り響いて余が小走りで駆け出す。恐らく弟達の内の誰かからだろうと当たりを付けていると、案の定、短い連絡を終えた余が再び駆け足で戻って来た。
「兄さん達、今から帰って来るって。麻田先輩も無事だって」
「大きなトラブルもなく終わったみたいでよかったわね」
「そうだね。皆揃って八王子から車で移動するから姉さんによろしくって言ってたよ」
「という事は、続が当たりを引いた訳ね」
 町田と八王子の境から麻田絵里宅に寄って帰宅、車は古田代議士宅から頂戴した物となるので乗り捨てまで含めると、と諸々を逆算したは、今度こそハンドクリームを投げて渡しながら、先に風呂に入るよう指示を出す。
「姉さんは?」
「泊まるつもりだから最後でいいわ。明日は遅出だから朝ご飯作ってあげる。アジの開きと味醂干し、どっちにしようか迷っているんだけど」
「開きがいいな」
「他に何か食べたい物はあるかしら」
「じゃあ、だし巻き卵」
「大根おろしを乗せた?」
「うん」
 余のリクエストに、生前祖母がよく作ってくれた朝食をも思い出したのか、柔らかく微笑みながら二つ返事で応じた。
 作り置きの冷たくなった物もそれはそれで味があるが、矢張り作りたてのだし巻き卵に勝るものはないと、若くして竜堂家の味を継いだ孫娘は軽く首肯する。投げ返されたハンドクリームを眺めながら、椿油を受け継ぐ事はなかったけれどと溢すに、余がベタつく手を擦り合わせながら不思議そうに首を傾げて疑問を呈した。
「竜に変身する前の恒例行事よ、鱗に塗るの。知らない?」
「知らない」
「それなら、後で始に訊いてみなさい」
「うん、そうする」
 ハンドクリームに慣れないのか、手に残る違和感に若干困惑しながらそれだけ言うと、余は食堂から姿を消そうと踵を返す。一連の会話の中で差し込まれた、竜堂家の人間が竜身に変ずる事については終ぞ、一欠片の猜疑心を抱かないまま。
 風呂場へ向かう小さな背中を眺めながら、は困ったような、それでいて安堵の表情を浮かべた。