曖昧トルマリン

graytourmaline

ささやかな陰謀

「始兄さん、理事をやめさせられるの?」
「多分ね」
「じゃあ、来月から、どうやって食べていけばいいんだろう」
 4人分のパジャマを洗濯機に突っ込み食堂へ戻ると、竜堂家の今後についてを弟達が大して危機感を抱いていない様子で話題に上げていた。
 食卓に着いていた茉理に向かって手を挙げ無言で帰還の挨拶を交わし、次いでサラダを取り分けていた続と視線を合わせ、すぐに逸らす。問題なく始に伝言出来たようだと確認して洗い物に取り掛かろうとしたの背に、確実に1枚目ではないトーストを片手に新聞と牛乳の配達をやると冗談混じりに主張した終が無邪気に声を掛けた。
「姉貴はキャバクラ、続兄貴にはホストクラブに行って貰ってさ」
「冗談でも水商売甘く見るんじゃないわよ。気遣い皆無の外見だけ繕った男にホストが勤まると思って?」
「顔以外の全てが風俗向きではない人に言われたくありませんね。姉さんのような性格と体格の女性がその手の店にいたら客足が遠のいて数ヶ月もしない内に店が潰れますよ」
「終、なんで姉さんが来ているのに続と纏めた」
「面目ない」
 自分の迂闊さを反省した終は即座に謝罪をしてから、睨み合っている姉とすぐ上の兄を見て、何も言えないまま視線を逸らす。持ち前の勇気よりも姉兄への恐怖が上回った。
「姉さんと続兄さんは、キャバクラやホストクラブに詳しいの?」
 枯野に着火だけして逃走した不甲斐ない兄の代わりを務めたのではなく、ただ単に純粋な疑問が生じた様子で、トマトジュースの入ったコップを両手に持った余が言葉を放つ。爽やかな春の朝に相応しくない、火をもって火を制す消火方法に1人は狼狽し、2人は終を睨み付け、最後の1人は居丈高に肯定した。
「夜のお店に勤める人も施術に来るから、それなりにはね」
 居るのでも行くのでもなく、来る立場だから詳しいとは堂々と言い放ったが、それが全てではない事は、当人と続が知っていた。
 はキャバクラではなくラウンジのキャストとして、そして続はホストクラブではなくプールバーの従業員としてアルバイトをしており、幸か不幸かそれを知っているのはお互いだけであった。とはいうものの、別に姉弟共に絶対に隠し通さなければならないバイト内容とは思っておらず、年少組の情操教育に変な影響を及ぼしかねないので進んで開示する必要はないだろう程度の秘密ではあるのだが。
 あながち的外れではなかった軽口に気付かないまま、終はふと何かに気付いたように気持ちを切り替え、弟が作った流れに乗じた。
「おれ、姉貴が何やってるのか知らないや。大学の頃からバイトしてたみたいだけど、病院の受付でもやってんの?」
「姉さんのアルバイト先は新宿だったから違うよ。今は渋谷で働いてるって教えて貰った」
「渋谷の接骨院ですよね。駅近くの」
「教員関係じゃなかったのか。姉さん、教員免許の申請書類を書いていただろう」
「そうなの? でも、姉さんが行ってた大学って医療系だよね」
「学部によっては保健体育が取れるんだ」
「って事は、姉貴申請ミスしたの?」
「だったら面白かったんですけれどねえ」
「話の種を土に蒔いたら笑いの芽くらいは出そうね。わたしも続が運転免許の試験に落ちた暁には大輪の花を咲かせてみたかったけど」
「何故落ちると思えるのかが理解出来ませんね」
「続の自己評価が偶に危険やナルシストを通り越して不気味になる仕様って変更不可能なのかしら。わたしから見れば、運転技術が性格と密接してるアンタが一発合格した方が信じ難い現象なんだけど?」
「教員免許も取ったけど柔道整復師の資格が取れたから、接骨師になったのよね」
 四方八方から飛び交い、逸れ始めた情報を茉理が一つに統合し、実の姉の事なのに何故知らないのかと始達に向かって放ちながら、返す刃でも家族にきちんと自分の現状を説明するようにと戒める。
 竜堂家に連なる血縁者の中で最大の傑物と続に評され、始が苦笑交じりに同意を示し、も粛々と賛同する18歳の女の子は、目玉焼きを崩しながら丁度いい機会だから情報共有しなさいと年長組3名に向かって命令を下した。
 その様子を眺めながら、年少組はお互い顔を見合わせ、茉理の司令官振りに感嘆する。
「茉理に言われたなら、仕方ないわね」
 口に出して承諾はしないが態度に出して反論もしない長男と次男に倣い、軽くそう言ってからは肩を竦めて洗い物を再開した。
 流れるように会話をした弟達の中で、実は続だけ状況を正確に把握していた事は触れずに隠して。
「お姉ちゃんが一人暮らしを始めた時もこんな風だったわね」
 女神の一声で話題がリセットされたので、再び理事会についての話を始める兄弟達の声をBGMに、あまり懐かしくはないけれどといった面持ちで茉理はを見上げた。
 が竜堂家から離れて暮らし始めたのは去年の春、丁度、彼女が新社会人としてスタートを切り、末弟の余が小学校を卒業すると同時だった。
 竜堂家の男兄弟は中学生に上がると屋根裏部屋を私室として割り当てられ、下の弟が相続権を得るまで部屋の主となる謎の伝統がある。そのように余に個室が与えられた結果、5人姉弟が各々に私室として利用出来る部屋が足りなくなったので、が続に部屋を譲り家を出た、言葉にするとそれだけの事である。
 尤も、間に挟まれる経緯に報連相が成されておらず、余にだけ屋根裏部屋が楽しみか確認し、続にのみ大学進学を機に部屋を移動する気はあるかと尋ね、最後に引っ越しの手続きまで全てが決まった後で家族全員に向かって近い内に引っ越すからと一方的な宣言したので混乱が起こったのだが。因みにこの時も、続だけは部屋の譲渡について質問された時点で姉の意図を正確に読み取り、寝耳に水といった兄弟達とは違い平然とした様子で、勝手にしてくださいと冷たく乾いた返事をしていた。
「もっと沢山、皆と相談したらいいのに」
「昔から苦慮とか呻吟って言葉とは疎遠だから、敢えて誰かに相談する必要が感じられないのよねえ」
「でも、お姉ちゃん。なんだか態と、皆と離れて行っているような気がして。理由も話してくれないし」
「不安がって過小評価しちゃうんだから、可愛いわね。本気で離れるつもりなら今頃日本を飛び出して音信不通になってるわよ。それに理由も話したじゃない、幼稚園児のわたしに突如として降って湧いた竜堂家夾雑物の御神託、異物であろうと愚弟の実姉に変わりないのに神様も何を脅迫したいんだか」
「お姉ちゃん、わたしは真面目に言ってるの。茶化さずに誠意で返して頂戴」
「あら悲しいわ、茉理も信じてくれないのなら誰からも疑われる事になっちゃう」
「えっ、給料貰ってたの!?」
「当たり前だろ。でなきゃ、第一、さっきのお前の笑話だって成立しないだろうが」
 従兄弟達ならば怯んだであろう茉理の真剣な眼差しも従姉には効果がなく、深刻な話に踏み込もうとした寸前の肌を刺すような空気を終の一声が吹き飛ばした。
 偶然なのか、弟達の会話からタイミングを見計らったのか、は日本人にしては広く逞しい肩をわざとらしく竦め、乾いた布巾と水切り中のフライパンを手に取りながら微かに重さを含んだ口調で独り言のように呟く。
「でも、信じて貰える日が来ない事を祈ってるわ」
 きっともう無理だけど、という思いを言葉にしないまま、理解し難い表情を判りやすく浮べる茉理に向かって、は意味深な笑みを浮かべた。