曖昧トルマリン

graytourmaline

ささやかな陰謀

 大量の荷物を両腕に抱えたの前方で茉理が玄関のベルを鳴らすと、程なくして扉が開き、10代前半の少年が姿を現した。
 4人の弟の内の10歳離れた末弟、余である。
 木漏れ日を連想させる穏やかな明るさが頭の先から踵までをベールのように包み、天使もかくやという純真無垢な愛らしさを持ち合わせているにも関わらず、寝癖にパジャマに歯ブラシという俗っぽい格好が少年を年相応に仕立て上げていた。
「こら、レディの前でその格好は何よ、ちゃんと着替えなさい」
「まったく、横着なんだから。わたし達じゃなかったらどうするつもりだったの」
 聞き慣れた車のエンジン音が耳に届いたからこの格好で出たとか、この時間帯に家を訪問するのはか茉理に決まっているからと、起き抜けのだらしない姿で現れた言い訳をする事もなく、余は自分よりも背の高い女性達を見上げてから泡だらけの口を閉じたまま頷くと、子犬のように軽やかな足取りで洗面所まで戻って行った。
 一つ一つの仕草が無邪気な小動物じみていて、窘めはすれども、どうにも憎めない。余は矛先を逸らす為に狙ってそうしているのではなく、元々が鷹揚な気性である事を理解しているので、訪問者達は少年の背中を見送ると顔を見合わせて苦笑するに留まった。
 ちなみに、茉理は同じ姿で誰が出たとしても全員に対して同じような反応をするが、は年齢が上がるにつれて辛辣になる。それこそ、最年長者である双子の弟が同じ格好で出迎えようものなら、歯ブラシの柄に予備動作なしの掌底を叩き込み内側から喉を貫く程度は挨拶感覚でやってのけただろう。
 帰還した余から報告を受けたのか、2人が靴を脱いでいる間に竜堂家に住まう一同が洗面所からぞろぞろと姿を現した。パジャマか普段着かの違いくらいしかない、そのなんとも間抜けな光景を目にして、は挨拶よりも先に開口一番扱き下ろす。
「自分達の体の大きさ考慮なさいよ、それとも兄弟揃って小動物に転生希望? おはよう、愚弟4人組。死んでいたら返事しなくていいわよ」
「おはよう。お邪魔します、皆ちゃんと生きてるかしら」
 一部、解釈次第では同じような内容で対称的な挨拶をされた4人は、当然のようにまずは茉理に対して愛想よく、次に実姉に対して露骨にうんざりした様子で朝の挨拶を返す。
 遍く生き物達にに春を告げる太陽の如き女神と、地獄の炎すら生温いと引火性の化学物質を投下していそうな地下帝国の支配者が同時に出現したのだ。女神を優先するのは真っ当な判断だろう。
 この辺の遣り取りは毎度の事であり、また自分自身が身内からどのように評価されているのか正確に把握しているは、弟達の反応など気にも留めず、特に命令された訳でもないのに横一列に並んだ男連中に指示を出す茉理を横目に食堂へ向かった。
 さて、と肩に力を入れると、人間の死体くらいなら分解せずに収納出来る容量を誇る冷蔵庫を開ける。案の定、吹き曝しの冷気が素肌を撫で、白い光が目に痛い。
 朝食として使う食パンと卵とほうれん草、そして下茹で後に冷凍していた野菜はそのままにして、買い置きの食材や作り置きの惣菜類を内部へ全て片付け冷蔵庫本来の機能を活用させていると、各々に指示を出し終えた茉理ともう1人が食堂までやってきた。
 王者のように静謐で悠々たる佇まいに、彫りが深く何処かエキゾチックな匂いを感じさせる精悍で端整な面立ち。190近い均整の取れた長身に比例するような雅量が窺える、様々な視点から日本人離れした文字通りの美丈夫。
 の双子の弟であり、茉理の想い人でもある始だけは、どうやら奇跡的に着替えを済ませ布団を干していたらしい。
 2人を確認するや否や、は弟にトマトのイラストが描かれたジュース缶を投げ付けながら当初の予定を急遽変更する旨を宣言した。
「茉理、わたしは先にシーツ類回収して洗濯機回して来るから朝食の準備をお願いしてもいいかしら。始、そういう事だから部屋に入るわよ」
 前半と後半でいっそ潔い程に声色を変えたに、2人は判りやすい表情で返事をする。特に、とは比喩ではなく生まれる前からの付き合いである始は、傲岸不遜を地で行く姉に今更何を言っても無駄だと諦めの境地に達していた。
 そんな2人と入れ違いに食堂を出て2階へ行くと、丸められた布の塊を抱えた癖っ毛の少年に出会う。来月から共和学院高等科の新一年生になる、三男坊の終だった。
 容姿は例に漏れず整っているが周囲から美少年扱いされる事は稀で、夏空のように燦然と輝く目や小麦色の肌から漲る爽快な活力を惜しげもなく曝け出す姿から、明るく元気な悪戯坊主といった印象を他人に与える。
 三兄や三弟ではなく自称も他称も頻繁に三男坊呼びされるに相応しい少年は、姉の姿を見ると瞬きをしながら首を傾げた。
「あれ、姉貴だ。茉理ちゃん、今日は一緒に朝食作るって言ってたけど」
「始だけ先に布団干してたのよ」
「後はお若い2人に任せて、って仲人のオバサンの発想だろ」
「茉理の恋愛が成就するならお節介オバサンにくらいなれるわよ。始の部屋にいるからシーツとタオルケット寄越しなさいな、余も、洗濯するから持って来なさい」
 屋根裏部屋に続く階段から姿を見せた余にも声を掛け、それくらいの気遣いでくっつくような2人なら既に出来上がってるよなあと声のトーンを落とさずボヤく終は無視をした。ただし、心の中では深く同意をして。
 投げるような勢いで豪快に布団を広げ姉に言われた物を取りに部屋へ戻った終を確認しないまま、は始の部屋に入り窓を開けると、ベッドの上に放置された薄い布を剥ぎ取って手際よく畳む。その横から、美術品のような手が3人分のシーツとタオルケットの塊を差し出して来る。
 視線を辿った先には、来年成人を迎える次男の続が艶然と微笑していた。
 神秘と美麗という言葉を境界がなくなるまで融かし合わせて人の形に写し出し、己の魂を超常的な存在に捧げた芸術家が命を賭して大理石から彫り出したような姿の青年は、美男子揃いの兄弟の中でも殊更見目麗しいと誰もが認める存在だった。
「ありがとう、纏めて持って来てくれて助かるわ。今日の午後に槍かキャニスター弾が降ったら、きっと続の功徳に対するご利益でしょうね」
「どういたしまして。渋谷方面で局所的弾雨の予報が出ているので、傘を持っての出勤をお勧めしますよ」
 続は見掛け通りの丁寧な話し方で、同様に攻撃的な返答を口にする。
 基本的に我道を行く竜堂家の中でも特にこの2人は我が強く、辛辣な性根が舌に直結している。寄ると触るとこの調子で、しかも互いに周囲の被害を顧慮しないなどの傍迷惑極まりない悪癖等が幾重にも折り重なった結果、彼等の日常会話はある種の厄災と化していた。
 偶に流れ弾を受ける終などは、実はは続との双子ではないかと密かに疑いの心を持っているのだが、今の所、口に出して指摘した事はない。
 大胆不敵を旨とする三男坊すら巻き込みを厭う痛烈な交流手段は竜堂家の生活の一部に組み込まれており、それはが家を出る前でも後でも変わらなかった。
「ご親切にどうも。生憎だけど今日は休日なの。第一、その予報が的中したらアンタのアルバイト先も穴だらけになる事を理解した上で言っていて?」
「ええ、勿論です。そうしたら別のバイト先を探すまでですから。次は姉さんに所在がバレないよう工夫しなければなりませんが」
「過去を改竄して罪を擦り付けないでくれるかしら。わたしは新社会人としてごく普通に勤務していただけなのに、アンタの方から職場に来たんじゃない」
 互いに友好的とは表現し難い遣り取りの途中で、は何かに気付いたように視線を廊下に移し、食堂の気配を確かめ、肩を竦める。
「それで? 態々リネン係の真似事をした理由は何かしら」
 運搬を進んで請け合い終と余を食堂へ向かわせたのは、聞かせられないような相談があるからだろうと右手を差し出す。薄い布の塊を押し付けつつ、続は質問で返した。
「さて、何だと思います?」
「姉を試すなんて随分生意気に育ったものね。ま、いいわ。そう育て上げた責任くらいは取りましょうか……昨日の夜、関越道の上りで事故による通行止めの速報がラジオで流れたけれど、それかしら。終と余が榛名山辺りまで遊びに出掛けたでしょう、身の程知らずの馬鹿にちょっかい出されて、はしゃいじゃったのかしら?」
 弟達の昨日のスケジュールと昨夜から今朝にかけて仕入れた範疇の情報から推測した結果を口にすると、厳密には違いますがそんな所ですと続は首を縦に振る。
「余君が誘拐未遂に遭いました。関越自動車道の一部と誘拐犯3名、それと車が1台大破した程度の被害で済みましたけれど」
 10代の少年達が少しはしゃいだの一言で片付けられる被害ではないのだが、は後半の単語に注意を向ける事はなかった。それよりも前の、末弟の名前に物騒な単語が付加された時点で眼が昨夜の春雷のように鋭く光る。
 竜堂家の長子組は様々な面で言説を異にしているが、末の弟に対して過保護で甘いという点に関しては、思考、行動共に完全に一致していた。
 両親の逝去までの10年間、何不自由ない家庭の中で絶えず愛情を注がれ育てられたからしてみれば、父の柔和な優しさや母の腕の温もりに触れられなかった余が気の毒で仕方がないのだ。年少の弟から順に扱いの甘さが薄らいでいくのは、そこが大きい。
 そういう事なので、余に次いで幼い終にも多少なりとも厳しさに欠ける所があり、何故誘拐されたのか一体何をしていたのだ、と口を衝く事もない。
 年長者としての義務を説教をするにしても、それは双子の弟であり竜堂家の家長でもある始の領分であるし、一晩経過した事を一々掘り返して小突き回さなくても終は一度の説教できっちり反省出来る弟だと信頼していた。
「死人が出た事故なのに今朝の新聞には載っていなかったから、愈々そういう手合がお出ましって事ね。それで、今夜にでもお礼参りに行くから留守番でも頼むつもりかしら。さっき言った通り今日は休みだから、別に構わないわよ」
「報復する権利を行使したいのは山々ですが、残念ながら先方の身元が未確認なので」
「それ、注意した?」
「当然でしょ」
 若干呆れながらも、となると今後の方針を決めるのかと呟いたの言葉を続が首肯し、剣呑な光を収めた黒琥珀のような瞳が視覚では捉えられない食堂を再度見下ろす。
「午前中はアンタ達追い出して掃除するって決めてるのよ。茉理には今後の生活の相談って説明しておくから、始と一緒にそれとなく話合わせて頂戴。時間は昼食後の午後イチで」
 単なる家事でしかなく相手も茉理だけなので予定の変更など容易いのだが、年少組や茉理に不必要な心配をかけたくはない気持ちは姉弟共に共通しているので、続も姉からの提案を二つ返事で了承した。
 普段は先程の如くだが、目的が一致している場合に限り、竜堂家の内部で家宰として振る舞う続と外部で監察官に近似の立場を取っているは、それぞれの側から相手方へと正しく歯車を噛み合わせる。それが出来てしまうからこそお互い縁切りが出来ず、挨拶感覚で毒舌の応酬という周囲にとっての不幸が収束しないのだが。
「それじゃ、朝食摂ってらっしゃい。そろそろ終が横取り狙う頃でしょうから」
「そうですね。では、また後で」
 舌戦を再開させる事なく朝食を食い逸れないよう送り出すと、続も特に毒を吐かず素直に兄の部屋から退出する。も続も普段からこれならば周囲の負担は激減するのだが、それはそれ、これはこれと双方共譲る気配はなかった。
 七面倒臭い姉弟である。
「終の悪癖も手強いわねえ」
 双子の弟の部屋に残ったは誰にでもなく呟き、畳むというより丸められたシーツ類を見下ろす。
 素直に悪い所を認め矯正出来るのが終の美点なのだが、何度姉兄から拳骨や説教や小言や小遣い減額を食らっても食い意地という悪癖だけは例外で根が深く、治る見込みがない。
 それでも最低限の倫理と判断力だけは残っているようで、終よりも弱い者、特に毎日同じ食卓を囲む余の分だけは、おこぼれに与る事はあっても奪おうとはしない。ただし、大皿で出された料理や4人分で纏められた作り置きはその限りではない、という点がその都度の逆鱗に触れ、是正という名の体罰と殺害予告を出されている。
 しかし、自身も悪癖の塊で善性に振り分けられるものの方が少ない。始と続もそれぞれ個性的とは言い換えれないものを持っている為に厳しく当たる事が出来ず、旺盛過ぎる三男坊の食欲に対する躾は乳幼児の頃から今も尚、難航していた。
「足りないって言えば作ってあげてるのに、何でかしら」
 誰からも必要とされないどころか大半の人間から本気で迷惑がられている続との口喧嘩を行ったばかりのは首を傾げ、4人分のシーツとタオルケットを抱えながら本の香りに満ちた始の部屋から出て、朝食の匂いが漂う廊下へと去って行った。