ささやかな陰謀
東京都、杉並区天沼。
昨夜からの豪雨も太陽が顔を出す前には上がり、薄紅色に開花しつつある桜並木の向こうに見える青色は洗われた空気を通して澄み渡っていた。
車同士がようやく擦れ違える住宅街の路地を法定内速度で走り、家々の庭先から覗く目に見える春の気配を左右に、乾きかけた水溜りを静かに跳ねながら一台の国産SUVが目的地へと向かう。他家を訪問するには些か早い時間帯だが、運転手は特に気にした様子もなくハンドルを切り、走り慣れた道から見知った駐車場へと車を停めた。
エンジン音が停止した数秒後、運転席から1人の女性が敷地内に降り立つ。
大型SUVを好んで乗り回しそうもない色香を纏いながらも、生気に満ちた態度からか、物憂げで妖艶よりも颯爽として凛々しい印象を他人に与える人物だった。
女性の名は、姓は竜堂。
この春、めでたく社会人2年目を迎えた彼女は、訪問先の家長である鳥羽靖一郎の姪である。血の繋がりを考慮してより正確に記せば、靖一郎の妻、旧姓竜堂冴子の兄、維の第一子に当たる。
親族との関係こそ平凡だが、竜堂という人物そのものは、非凡の塊だった。
外見はどの角度からも人目を引いて仕方なく、日本人女性として規格外の180を超える長身から始まり、北欧神話に登場するワルキューレ達を連想させる彫りが深く精悍な美貌、乱世の女傑を思わせる威圧感と褥で王の寝首を掻く女諜報員の艶めかしさを同時に併せ持ち、どれを取っても中々並では収まらない。
内面もまた外見に負けず劣らずの有様で、冗談か本気かはさておき、彼女の弟の1人は過去に別の兄弟へ語ったものだ。姉は顔だけ見れば傾国の美女だが中身は苛烈極まりない女帝だ、傀儡を作るより自らの手で虐殺と圧政を行うタイプだから、と。
尤も中には、この兄にしてこの姉ありと重々しく評する弟も存在し、更に、当人に至っては、生誕前から自身の中に神が棲んでいる以上は共生関係上の役割からより楽しめる方向へ振る舞うのが道理だと嘯く等、とても並大抵とは言い難い。
何にしても、あらゆる切り口で間違いなく竜堂家の血筋に属しているはこの日、板橋区の賃貸マンションから一度杉並区に出て従妹を拾い、中野区にある実家へハウスキーピングに行くという、叔父夫婦との関係性同様に平凡極まりない理由で鳥羽家を訪れていた。
まだ冷たく、しかし生命の力強さと淡い芳香を含んだ春風に吹かれながら玄関のベルを鳴らす寸前でタイミングよく扉が開き、の目的としていた人物が姿を現す。従妹の鳥羽茉理だった。
少女のあどけなさと女性の華麗さの双方を併せ持った茉理の顔立ちは繊細で美しく、それでいて明朗快活な性格が一挙一投足から見て取れる。
花の蕾のようなと形容するに相応しい少女はジーンズの上下にコットンシャツという活動的な姿で大きな紙袋を抱え、屋内に向かってよく通る声で行ってきますと告げた。小鳥の囀り似たそれは、耳にするだけで気分が晴れやかになる。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう茉理、早いのね。荷物持つわ」
4月から青蘭女子大学に通う事になった18歳の茉理は、高校の時と何等変わる事なくに荷物を奪われ、もう子供じゃないのにと僅かに頬を膨らませた。しかし5歳違いのにしてみれば彼女の誕生以来の付き合いという事もあり、たとえ大学生になろうとも背中を追いかけて来る小さくて可愛らしい従妹の茉理ちゃんに違いなかった。
とはいえ、一応茉理もに甘えている自覚はある。
さん付けや君付けする従兄弟達と名前の呼び方が異なり、に対してだけは、まるで本当の姉妹のようにお姉ちゃんと呼び続けていた。他の点でも色々あるが、それが最も顕著な精神の現れである。
幼い頃ならば兎も角、何故今でもそう呼ぶのかと一度ならず身内達から問われた事があるが、茉理本人は、なんとなく、としか答えられない。対しては、そのうち姉を名乗る女性が5人くらい出てくるかもしれないと妙に具体的な軽口を叩いては、だから今の内に独り占めするのだと謎の理屈を捏ねて従妹をあらゆる方法で構い倒していた。
「折角だから叔母様方にご挨拶申し上げてから、と思ったんだけど」
「きっと駄目よ。お父さん、さっきまで竜堂家に行くのは許さんって命令口調だったのに、お姉ちゃんの車の音が聞こえたら顔色変えて真逆の事を言い出したんだから」
「あらあら、とんだ天の邪鬼さん。わたしはグルメだから取って喰やしないのに」
芝居じみた口調で荷物を後部座席に置くと、茉理を助手席までエスコートしてから、は目に見えない鳥羽家の家長を肩越しに一瞥する。
「昨日の夜遅くに始さんに会いに行って、ぐうの根も出ないくらい反撃されたみたい。だから余計にお姉ちゃんと顔を合わせたくないのかも」
「理事の件?」
「そうよ。本当に欲ばかり深くて身の程知らずなんだから」
双子の弟である竜堂始が共和学院の理事から外される兆候があるとは、既にも事の経緯や詳細も含めて全て耳にしている。とはいえ、辞めさせられる予定の当人も含め竜堂家の全員が悲観したり深刻ぶっている様子は微塵もない。
叔父の動きを考えると近い内に理事だけでなく教職の任も解かれる可能性が高いが、その時はその時だと年長者達の腹は既に決まっている。今後の生活については、両親や祖父母の遺産もありしばらくは困る事もない。も始に対して内々に、愚弟4人を養えるくらいの貯蓄はあると言い放っているので、少なくとも弟達、特に学生の身である次男以下未成年者3名がある日突然学費が払えず路頭に迷う心配はしていない。
長男の始は家長としての気質が強いので、貯蓄があるうちは姉とはいえ既に独立した同い年のからの援助を断る可能性も考えられるが、いざとなれば茉理を経由して生活費を叩き付ける段取りも既に完了させている。
竜堂家の兄弟は上から下まで長姉に対して程度の違いこそあれ食傷気味だが、従姉妹にはひたすら感謝の念を抱いており、始ですら頭が上がらないのは本人も認める所だ。なので、ここまで手を回しておけば問題ないだろうとは踏んでいた。
同時に、車のアクセルも踏み込み、ハンドルを中野方面へ切る。
「ま、実家に愛想が尽きたなら何時でもわたしの家に転がり込んで来なさいな。茉理なら今日からでも大歓迎よ。でも、大学に通うのなら立地的に竜堂家の方が好条件かしら。愚弟共も諸手を挙げて歓迎してくれるでしょ」
ついでに高校生を脱したのだからこれを機に襲ってしまえばいいと唆すと、始に鮮明な恋心を抱いている茉理は顔を押さえるようにして助手席に蹲る。昨今の女の子にしては純情で初々しいと反応を好意的に捉えるのに対し、社会人の姿も板に付いてきた弟には好きな女の子をリードしなさいよ堅物馬鹿と内心で罵った。
どう見ても互いに本気で両片思いでも何でもないのに、当人達以外の一家が一丸となって動かなければ結婚どころか正式なお付き合いの段階にすら辿り着けなさそうない2人に、は若干の危機感を覚えている。愛の形や表現方法は様々だとしても、23歳の男性と18歳の女性である、プラトニックで満足するには両者共に若過ぎた。
「だ、大体、愚弟だなんて。お姉ちゃん、微塵も思ってもないのに」
「塵ほどには思っているわよ、特に双子の弟にはね。だって、そうでしょう?」
路地を出た先で赤信号に捕まりブレーキが踏まれる。左手を伸ばして茉理の顎に触れ、意識して色気の増した視線を送れば、それだけで首筋まで薔薇色が広がり、視界の端で流れる花弁と同じ色をした唇は言葉を紡げなくなってしまっていた。
たったこれだけで十分持っていける雰囲気になるのに、あの軟弱奥手野郎は全くと特大の溜息を飲み込む。同じ屋根の下に住む弟達の存在が気になるのならば、それこそ家長権限を発動させての家に押し込んでしまえばいいものを。次から次へと胸の内から溢れてきた愚痴を飲み下し、名残惜しげに左手を引く。
「こんなに可愛らしい年下の女の子がモーションを掛けているのに態度をはっきりさせないなんて、男として愚か以外に言いようがないわ。ま、大抵の男は愚か者だけどね」
わたしだったら二つ返事で奥さんにしちゃうのに、と続けた女性に、茉理は真っ赤な顔と高鳴る鼓動を抑えるだけで精一杯の様子だった。