Fish or Shark
吊るしのスーツを着た男女が数多く行き交う中で、年嵩とはいえ着物姿の色男はそれなりに人目を惹き彼の周囲だけ人の流れが僅かに乱れる。尤も、大抵の成人は日中に蓄積した疲労が分厚い紗幕となり他人の容姿を気にする余裕などなく、殊更彼を目に留めるのは体力の回復速度の早い若い男女ばかりであったので、足を止めて見惚れるまでは行かず混乱に繋がるような停滞にまでは至らなかった。
容姿も格好も人混みでそれなりの滞留を起こす原因となる事を自覚しているものの気に留めていないだったが、白茶色の羽織の下で金彩で描かれた竹林の黒留袖に目敏く気付き眉を顰める妙齢の女性からは流石にそれとなく距離を置き行き交う人々を盾に端の改札から目的地まで一直線に向かう。待ち合わせの時間まで残り2分、普段ならば他人の自尊心を満たすだけの説教であろうと鷹揚に構え愛想良く受け流すのだが、流石に人を待たせている状況下で捕まるわけにはいかなかった。
分散と合流を絶えず繰り返す人波に紛れながら駅構内を1分程歩き目的地と待ち合わせ相手の姿を同時に確認すると、夜の屋内にも関わらずは思わず目を眇める。袖の長い黒のサマーニットに白のパンツとごくシンプルな服装でも魅力を抑えられない美しい青年も遅れて待ち人の到着に気付き、右手を軽く挙げて合流を促した。
「こんばんは、獅子神君。すまない、待たせてしまって」
「オレも今来たとこだから気にすんな」
待ち合わせの常套句を口にして小さな嘘を隠した獅子神に対し、は揚げ足を取らず穏やかな笑みを返す事で空気を合わせる。同じ場所で人を待つ複数の女性が送る熱と好意が込められた視線と、左手に握られた残り少ないペットボトル飲料から伝う水滴が床に透明な模様を描いている様子をギャンブラーとして指摘する人間も多いだろうが、今現在はギャンブルの最中ではないとの理由から彼は沈黙を選び取った。
証拠の隠滅を図るかのように麦茶を飲み干した獅子神は空のボトルを絶滅を危惧されているゴミ箱に捨て、今にも質量を持ちそうな視線からも遠ざかるために顎で合図をする。人混みに紛れる寸前までリネンの布に覆われた広い背中に名残惜しそうな視線が突き刺さっているが、獅子神は異性からの無言のアピールを無視して自身よりも背の高いを若干疑わしい目で見上げた。
「オレの記憶じゃボドゲカフェで力試しの予定だったけど丁半博打に変更したのか」
「若い頃の反動で体に合わせた服を普段着にしているんだ。それに、着物はイカサマの仕込み甲斐がある」
鋭く視線を走らせた獅子神とは反対に優雅に微笑んだは何の変哲もない指先から魔法のようにトランプを出現させ、手を翻してコイン、ダイス、再びトランプと左右の手を使って一通りトリックを演じてみせる。
そして最後に出した交通系ICカードを獅子神に差し出すと、青い目が見開かれキラキラと輝くブロンドががっくりと垂れ下がった。
「オレのカード……クソ、いつ盗りやがった」
「待ち合わせ場所を離れた時、背を向けたよね」
「そんな前からかよ」
「イカサマと言葉が出た時点でボクの動きを警戒したのは良かった。でも、トリックを披露している時点で仕込みの9割は終えているものだ。手品にしろ、イカサマにしろね」
「次は気付いて阻止してやるからな」
「期待しているよ」
悔しそうにしているものの楽しげな表情を浮かべた獅子神の肩を叩き、は駅を出るよう促す。その隣に並びながら獅子神はどうせならと口を開いた。
「クレジット盗ってくれれば報酬渡す口実になったのによ」
「報酬って、獅子神君、お金払うつもりだったの?」
予想外の切り返しには目を丸くするが、逆に驚いた顔を返された獅子神は呆れたように首を横に振る。
「技術教えて貰うなら対価は必要だろ。相場なんてねえし、金は品がないってなら別のモン用意する」
当然といった口調で示させた獅子神の価値観にそんなものは必要ないという断りの気持ちと台詞を悟らせず飲み込んだ後ではふっと頬を緩ませる。
教えた技術が彼が赴くゲーム内の何処かで生かされれば十分だと本心を包み隠さず投げても良かったのだが、きっと獅子神は納得しないだろう。あるいは、表面上は納得してみせ引き下がるかもしれないが、その場合は彼の性格からして心の内に礼が出来なかった後悔が靄のように残ってしまうに違いない。そんなメンタルのまま賭場へ向かわせるのはからしてみれば言語道断で、妥協案を思い浮かべつつ、彼はより獅子神が満足するであろう返礼方法を提示する方向に切り替えた。
「価値の指標に品格を見出すような繊細で上品な感性は持ち合わせていないよ。丁度ギャンブラーとしての獅子神君の手を借りたい案件を抱えているから、君が納得してくれるならそれで帳消しにしてくれないか」
の言葉に反応した獅子神は表に出してしまった眼差しを誤魔化すように駅の人混みに視線を向け、頼りにされた事で弾んでしまった心と血色が良くなった頬を素っ気ない演技で煙に巻こうと試みる。
カメラの前で衣装に適した人格を被り演じるプロとして第一線で活躍していた男に中途半端な演技は無意味だったが、追及する事で獅子神の喜色が消えてしまう事を嫌ったは静かに返事を待つに留まった。
「犯罪以外なら引き受けてやらねえ事もない」
「残念ながらそれに近いかも。無理強いするつもりはないけれど」
「……聞いてから判断してやるよ」
「ありがとう。ここじゃ拙いから、話しやすい場所に移ろう」
予定していた出口とは異なる方向へ進路を変更し、雑踏の中を泳ぐように進む2人は数分も経たずに駅を出る。日没後の輝きと人々に溢れた大通りから逸れ、人影も明かりも疎らな場所に入ってからようやくは足を緩めた。
駅前に乱立しているホテル街と繁華街の境にある路地裏には、夜景を楽しむために移動する最中のカップルやこれから一時の享楽に酔い耽るつもりの男女の集団が時折通り過ぎるだけで、性別だけが同じ2人を気に留める者はいない。しかしは念の為、と周囲に視線を走らせてから獅子神を見据えて告げる。
「違法賭場に参加して店を経営不能に陥らせたい。ただし、カジノ対プレイヤーのゲームで店側はイカサマを使ってくる」
「構えてたのが損と思えるくらい平穏な頼み事だな。ジャンルは?」
拍子抜けした様子の獅子神はデスゲームにでも参加させられるかと思ったと肩を竦めて詳細を求めた。カラス銀行に出入りしているだけあり一般人が真っ先に躊躇する店を潰すとの目的は問題ないようで、は自然に見える安堵の表情を作り質問の回答を行う。
「タッグマッチのダイスゲーム。進行はブラックジャックに近いらしい」
「ダイスか、あんまり得意じゃねえけど……レートは分かるか」
「チップ1枚100円、ロール毎に10%の複利。カモの中心が現役大学生らしいからささやかなものだ、普通に遊んでいたら最終的な支払いは高く見積もっても300万程度で済んでしまうだろうね」
の説明を聞き、獅子神は勝ち気な好青年から一転させ殺伐としたギャンブラーの顔で腕を組みすぐに外す。相手のイカサマがどんなものなのか分からない状態で勝負に出るほど無謀な真似はしない、などという尻込みは、獅子神は一切していなかった。
「複利なら幾らでも膨れ上がるな。いいぜ、ボードゲームより盛り上がりそうだから今からでも付き合ってやるよ」
「助かるよ。現地までの乗り換えが手間だから馴染みのハイヤーを呼んでも?」
「窮屈な後部座席は好きじゃねえ」
「気が合うね、ファントムが空いていれば都合がいいんだけど」
方針が決まった事でスマートフォンを手早く弄り路地裏から大通りに戻るために踵を返したと、彼と肩を並べた獅子神は、予め用意していたイカサマの中でダイスゲームで使えないものを外していく。
電話予約を終えた頃合いを見計らい、身軽になった獅子神はの名前を呼び世間話の体で情報収集を続けた。
「答えたくないなら無視して貰って構わねえけどよ、なんでカモの年代じゃねえのに詳細まで把握してんだ?」
「オーナーが古い知り合いでね。娘さんにお店を買い与えた矢先に彼女達が情報商材ビジネスに引っ掛かって、ギャンブルの胴元で稼ぐと息を巻いているらしいんだ。関谷仁って商材屋さんが原因らしいけど、獅子神君は聞いた事あるかい」
「知らねえ。つーか、親子関係が拗れねえように悪役引き受けたのかよ」
「いや、自己保身からだよ。ボクも違法賭博に興じていた身だ、彼女達経由で過去が掘り返される懸念があるから手を打ちたい。問題なく経営出来ていれば不問にするところだけど」
「違法賭博の時点でアウトだろ」
身も蓋もない正論には苦笑し、筋者や桜田門のお世話にならない万全の態勢を敷いているなら放置してもいいと口にすると苦々しげに吐き捨てた。
「後ろ盾のない個人店の内情が親経由でさんにまで水漏れしている時点で万全と言える要素が欠片も見当たらねえ」
行方不明後に五体満足でなくなるか、健全な姿のままマスコミのフラッシュを浴びる様子が30秒程度のニュースになるのも時間の問題だろうと獅子神が雑な未来予知を行い、人助けなんてガラじゃねえとボヤきながら近付いてきた大通りの喧騒を革靴の爪先で蹴る。
ギャンブラーの顔のまま打てば響く会話を続けながら2人は目的地へと歩き続け、の願いを聞き届けた高級車中の高級車が夜の中でも見間違えようのない姿を晒しながら待機している光景を目にすると、片方はいつ見ても派手だなあと感嘆し、もう片方は思ってたよりデケェなと呟いた。
年若いが申し分ない礼節を叩き込まれた運転手が恭しくドアを閉める様子を眺め、音もなく滑るように走り出した車内からどちらともなく繁華街を見上げる。の視線の先の大型ビジョンには和服を来た女優がビールと共に映り、夕焼けを背景に夏の訪れを告げていた。
運転手がいる手前今から彼女の娘さん達に挨拶しに行くよとも言えず、仕方なく口を噤んだは窓の外のネオンと隣の獅子神の放つ眩さから逃れる為に静かに目を伏せて目的地に着くまでの短い時間を空寝でやり過ごす事にしたのだった。