曖昧トルマリン

graytourmaline

幽室の青天井

 夏という季節に呼応するように蒼白銀の蝉が僅かな命を謳い、橙色の空の向こうでは入道雲がその姿を徐々に大きくしていた。
 銅色の目をした三毛猫と黒猫が顔を洗うのを止めて二又の尾を揺らしながら苔生した岩上を駆け、追われた翡翠髑髏の蝶々が朱の陽炎に照らされた砂利の上で融ける。
 そんな影達を追うようにして遠くから下駄の音がやって来た。
 庭の石畳を鳴らしながらひょこりと現れたそれは、紅色の西の空から差し込んだ光が黒い長い影をぽつりと作り出している。
「みんな、帰っちゃったのかな?」
 まだ年端も行かない和装の幼子は、柔らかく首を傾げると黒い髪を慣性に靡かせながらまた歩き出した。着物の袖を揺らしながら竹林を抜ける途中、通り縋った池の上で人面をした魚が飛沫を上げて大きく跳ねる。
「人面魚様だ、こんにちは」
『嗚呼。嗚呼。今日和。日ニ日ニ暑クナル。然様ナラ』
「はい、さようなら」
 幼子が人面魚と呼んだ怪魚は鰓を水面に付けたまま大きな口を開け、既はいるが虚ろな目で言葉を返すとそのまま池の底に潜っていってしまった。幼子は人面魚が消えた跡をしばらく眺めてから再び歩き出す。
 今年で五つになったこの幼子は滅多に家から出ない為、人間の友人がいない。あと数年もすれば西の海と大陸の向こうにあるイギリスという国の学校に行くと妖怪達から聞いているので、態々日本で友人を作る必要はないというのが彼等の言い分である。
 代わりではないけれど、幼子が住むこの屋敷には沢山の妖怪がいて、皆が皆、幼子の親であり、兄姉であり、友人であった。
 彼等はあまり人間は好まないが、一部の人間にだけは甚く好意的だった。幼子にはそんな彼等が居てくれるだけでよかった。
「誰か」
 夕暮れの後に来る薄暗い闇を近くに感じ、幼子は誰かに傍にいて欲しくて名前を呼んでみようかと夏の空気を吸い込んだが、それをゆっくり吐き出して肩を落とす。
 本当に彼等に会いたい時は、幼子自身が強く望めば言葉にする前に自ずと姿を現す事は経験から理解していた。今、彼らがこの場にいないのは、幼子がそれほど強く彼らに会うのを望んでいないからだと思い、開きかけた口を噤む。
 淋しくはない。独りで時を過ごすのはもう慣れた。そう言い聞かせて、しんとした竹林からするりと抜け出すと、夕日に焼かれた庭に佇んでいた長く黒い影にぶつかる。
「ごめんなさい。大丈夫ですか」
『すまない、考え事をしていた。怪我はないか?』
 今まで屋敷内では見たこともなかったその黒い影は、幼子の体当たり等ものともせずに立ち続け、ひどく落ち着いた、ゆっくりとした声で問いかけてきた。次いで、呆然としている幼子を前に、早口で英語が通じない事を小さく嘆く。
 日本語は流石に話せないと呟いている横で、幼子は冬の夜空のような瞳を丸くして、突然話しかけて来た影法師を見上げた。
『えいご、ちょっと、わかる。けが、ない、です。ありがとうございます』
 大きな長い影法師が紡いだこの国の言葉ではない言語が、日本以外で使われている言葉だとすぐに判り、自分は大丈夫だと返すとほっと息を吐かれた。
『おばあちゃん、なにか、ある……ありますか?』
『祖母? そういう事か、道理で小さ過ぎると思った』
 背の高い影法師に見下ろされ、日頃から小さい小さいと言われている幼子は柔らかい頬をぷっくりと膨れされて俯く。
 それに気付いたのだろう。笑みを含んだ声が更に続けて振ってきた。
『ああ、いや、済まない。君よりも、もう少し大きいはずの知り合いに似ていたんだ……しかし、先生に用か。いや、此処まで来て、どうなのだろうな』
『ようけん、ちがいますか?』
 滅多な事では外出を許可されないような幼子に用がある人間は存在しないのだから、必然的に訪問者は幼子の祖母の知り合いなり友人だと思い込んでいた。先日やって来た顔見知りの客も嬉々として幼子の相手をしてくれたが、本当に用があったのは祖母であった事を思い出す、その思考を遮るように影法師は躊躇うように呟く。
 それでもしばらくすると、影法師は膝を折って幼子と視線を合わせようとした。それでもまだ幼子よりは高く、鉄の匂いのする男性だという事以外は逆光でよくわからない。真夏だというのに長袖の、見るからに暑そうな洋服を着ていた。
『……君の名前は?』
です』
 慣れない言語という事もあり、まだ舌足らずな幼子の言葉に影法師は微笑む。
『そうか、と言うのか……一人かい?』
『ちがう』
 自分は一人じゃない、反射的にそうは言ってみたものの、周囲には人っ子どころか妖怪の子一人いない。どう見ても独りだという事実を堪え、言葉を続けた。
『いま、そうみえる……だけど』
 表情を見られないように俯いていると影法師は身動ぎして、いつの間にか縁側に現れた幼子の祖母の姿をじっと見ていた。
 幼子が、が大好きな自慢の祖母はいつだって和装の下で背筋をピンと伸ばして、凛とした美しい表情の中に柔和な笑みを浮かべている。そしてそれは、今日も変わりはない。
「お祖母様、お客様がお見えです」
「ええ、見れば判りますよ」
 そうして視線と共に向けられた祖母の声は、とても優しく聞こえた。
「貴方はもう少しの間、向こうで遊んでいらっしゃい」
「はい」
 それだけ言われると、は失礼にならないように影法師に一度お辞儀をして、すぐにその場から走り去る。少し離れた場所で、二人のことが気になって竹林の間からそっと覗き見てみると、祖母は相変わらず笑っていて、けれど少し淋しそうにも見えた。
 夕日の中で色鮮やかな和服を着た祖母と、真っ黒い服を着た男が並ぶと、影法師だけがやけに目立って見える。日の光を背にしているせいなのか、余計に彼の背中が暗く感じた。
 柔らかい土の上で下駄が跳ねると烏が黙って上空へと飛び去る。烏が鳴かなかったからまだ家には帰らない、そんな事を考えながら蝉が上げる断末魔の悲鳴を聞いていると、あの影法師が祖母に引き連れられて音もなく後ろから現れた。
さん、この方はしばらくの間お家で暮らすことになりましたから」
「はい、よろしくお願いします」
 幼子にとって唯一の人間の家族の、血の繋がった祖母の言葉は絶対だったので、何の疑問もなく彼が一緒に暮らす事を受け入れた。
 逆に影法師は少し戸惑っているようにも見えたが、それでも恐る恐るに手を伸ばし、時間をかけながら頬に触れる。真夏だというのに、触れた手は人形みたいに冷たいと、そんな感想を抱きながらも包み込むように触れてきた手の平に縋った。人の手だった。

『はい』
『……』
『……?』
『一緒に、遊ぼうか』
 戸惑いがちに告げられた言葉には花開くような笑みで応え、冷たい手を握り返して大きく首肯する。
『何をして遊びたい』
『おにごっこ!』
『二人だけで鬼ごっこか?』
『ひとり、できない! かげ、ふむ。おにごっこ、する、したいです』
 笑顔でそう告げたを見て、影法師は少し驚いたような顔をして、それからゆっくりとした仕種で笑った。
『かげ、ふむ。なまえ、いう。おに、かわる』
『名前、か』
『あなたの、なまえは?』
 影法師は少し困ったようにの祖母を見る。すると、相変わらず微笑んでいる女性は彼の変わりに口を開いてくれた。
「リドルさんよ」
「りど?」
 まだ年端も行かず舌足らずなは、祖母の音を真似ようとして言葉を紡ぐが上手くいかず俯きながらも小動物のように忙しなく体を動かす。小さな手を頬に添えてふわふわしている姿は頬袋いっぱいに木の実を溜め込んで、それをどうしようかとおろおろと悩んでいるリスのようでもあった。
 一方リドルはというと、名前を呼ぶことに悪戦苦闘しているを、見下ろしながら右手を所在なく動かしている。
『ミスター・リドー? リドー、さん』
『なんだい?』
『うまくない、よぶ、ない。いま』
『ああ。上手く発音出来るようになるまで待っているよ、その内に、慣れるだろう』
 きょときょとと動いていたの頭が止まり、それを撫でながらすぐに承諾する。
 宙を漂っていた右手の居場所が落ち着いた所で、今まで見守っていた祖母は日が沈んだら夕飯だから戻ってきなさいと言ってすぐに家の中に消えてしまった。

『はい』
『……いや、何でもない。日が暮れてしまうから、遊ぼうか』
『あそぶ!』
 全身で喜びを表現したかったのか、は勢い良く万歳の格好をする。黄金色の光の中でキラキラと一際輝いた幼子は宝箱のようで、リドルはその小さな体を抱き上げると、夕日と同じ赤の匂いが染みた腕の中に閉じ込めた。