曖昧トルマリン

graytourmaline

■ 時間軸:お爺ちゃんの誕生日パーティ中

■ 2部57話『青梗菜と干蝦の中華スープ』でレギュラスが失くしたハンカチの行方

路傍に佇む

 興奮を通り越し半ば熱狂した人々がダイアゴン横丁を突っ切るメインストリートの左右で壁になり、境界線として佇む魔法省の職員が今にも雪崩込みそうな群衆を押し留めている。
 店に入る前から今日のダイアゴン横丁はいつもと少し雰囲気が違うと感じ取っていたが、まさか黒山の人だかりが出来上がっているとは予想していなかった少年は、購入したばかりの箒の手入れ用具を片腕に抱え直した。
 一瞬でも余所見してしまえばたちまち迷子になってしまう人波の中で、傍らの父親がそういえば今日だったと呟いた音を辛うじて拾い上げた。
「あなた、何があるの?」
 はぐれないよう少年の肩に手を置き、同じように夫の声を聞き分けられた母親が交通が麻痺しつつある路地をゆっくりと進みながら質問をする。
「ネビル・ロングボトムだよ。今年ホグワーツに入学するから、その買い物をね」
 そこで父親の説明は群衆の歓声やどよめきに掻き消された。多くの魔法使い達が熱っぽい視線で一点を見据えている。きっとあそこにネビル・ロングボトムがいるのだろうと少年は考え、ただ学用品を買うだけなのにこんな衆人環視に晒されるのは可哀想だと同情した。
 生き残った男の子、ネビル・ロングボトムの名は少年もよく知っていた。
 勿論、一方的にだ。
 最近は余程の事がない限り人前に姿を現す事はなくなったが、それでも毎年ハロウィンが近くなるとメディアがこぞって彼の功績を取り上げるし、寮生も口々に彼の名と共に祝祭を行う。魔法界が例のあの人の恐怖から解放された日だと少年も理解していたが、どうにも心からその雰囲気に馴染む事が出来なかった。
 少年がネビル・ロングボトムを知ったのは果たして何歳の時であったか、ホグワーツ入学以前であった事以外、少年自身も詳しく覚えていない。
 ただ、予言者新聞に載っていたネビル・ロングボトムの写真が自分よりもずっと幼い子供である事を知り強い衝撃を受けたのは覚えていた。息子の視線に気付き魔法界を救った英雄について説明しようとした父親に、この子にはパパもママもいないの、と口にした事も。
 父親は、ネビル・ロングボトムには祖母がいると伝えで少年を優しい子だと抱き締めた。後から来た母親も少年の額に愛情を込めたキスをして、いつか彼がホグワーツに入学した時にどうすべきか今から考えましょうと道を示した。
 その道を、少年は未だ見付けられていない。普通に接するべきだと漠然と考えているのだが、どうしても今のように同情してしまったりする。そもそも、少年はネビル・ロングボトムがどのような人柄であるのか知らないのだ。
 不意に、父親が少年の名を呼んだ。
 完全に身動きが取れなくなってしまったと笑いながら父親が口にすると、お買い物が終わればじき皆動くでしょうと母親が微笑みを交えて応える。あの日の事を2人はまだ覚えているだろうかと質問しようか考え、それは何か違うような気がして煉瓦造りの店舗に背を預ける寸前、動きを止めた。
 石畳とは異なる感触が靴底に触れて反射的に踵を上げた少年は足元に視線を落とし、泥に塗れた布の塊を見付けた。動物の糞や心ない誰かが吐き捨てたガムの残骸ではなかった事に軽く安堵しながら周囲の妨げにならないよう素早く拾い上げて、自分以外の誰かが踏む心配がなくなった事に彼は再度安堵する。
 帰宅までに十分な時間もある、探せば何処かにゴミ箱があるだろうとの考えからポケットに入れようとした少年の動きが止まった。彼の指先に触れたのは泥ともただの布とも異なる質感で、よくよく見てみると布だと思っていた物は女児が喜びそうなレースと刺繍をあしらったハンカチだと気付く。
「あら、どうしたの?」
「落とし物みたいなんだ」
 少年の戸惑いに気付いた母親が柔らかな口調で話し掛け、手の中の落とし物の状態を目にすると杖を取って簡単な洗浄魔法を唱える。長い間放置されていたのか染み込んだ泥は完璧には落とし切れなかったが、控えめなレースに縁取られたガーゼ地のハンカチは一瞬でその白さを取り戻した。
「素敵な手縫いのハンカチね。お母様の手作りかしら、きっと落とした子も困っていると思うけど」
「母さん。名前が刺繍してある、きっと持ち主の名前だ」
 何処に預ければ本人の手元に届くのか思案しようとした母親に、少年はハンカチに縫い付けられた名前を見せる。少女が好みそうな可愛らしい野イチゴの蔓から伸びるように緑色の刺繍糸で描かれた優美な書体の文字はアルファベットでと読めた。母音過多で発音が難しい、少なくともホグワーツでは滅多に目や耳にしない国の名前とまでは少年でも分かった。
「どうしたんだい、2人共……おや、それは?」
「この子が拾った落とし物よ」
「私の息子はいつも人が見落としてしまう所に気が付く、きっと持ち主も喜ぶだろう。フクロウで届けて……この名前は、何処かで見たな」
「父さんの知り合い?」
「いや、他部署で見掛けたんだ。珍しい名前だから印象には残っているんだが」
 でも何処の部署の誰だったかなと顎を撫でた父親を少年と母親は静かに見守る。
 彼の父親は魔法省に勤めており海外の魔法使いとも定期的に交流する。もしも一時的に海外から来た魔法使いの一家が落としてしまった物ならば残念ながらフクロウはあまり良いとは言えない手段である。フランスやベルギーやオランダのような隣国なら長距離用のフクロウが運んでくれるが、刺繍された名前は明らかにヨーロッパ系の名前ではない。
 中東か、アフリカか、アジアか。そもそも持ち主は今イギリスにいるのか、いないのか。ただ踏みそうになったハンカチを拾っただけなのに思ったよりも大事になってしまい少年は申し訳ない気持ちになってしまうが、その肩を父親が力強く叩いた。
「そんな顔をするものじゃないぞ。お前は紳士的な行いをしているんだ。誰もが遠くにいる生き残った男の子に夢中だった中で、お前だけが足元の困っている誰かに気付き手を伸ばしたんだ。いいか、それは誇り、胸を張るべきだ」
「父さん、僕はただ落とし物を拾っただけだよ。それに父さんにも」
「迷惑じゃないぞ、ああ、全く迷惑じゃない。寧ろいい脳のトレーニングになりそうだ、すぐに思い出してやるからな。それにしても、お前はいつだって謙虚で慎み深くて、私や母さんの事を1番に考えてくれるな。まったく出来た息子だ!」
 往来で父親に手放しで褒められた少年は困ったような顔をして周囲を見回し、人々がまだネビル・ロングボトムに意識を向けている事に胸を撫で下ろす。そして、保身のために生き残った男の子を都合良く利用している自分に気付き、撫で下ろしたばかりの胸の内に滲む自己嫌悪に口を閉ざした。