曖昧トルマリン

graytourmaline

魔法使い、四海竜王宅屋根への不時着失敗に終わる

 欝陶しい人混みから溢れる喧騒が絶えない横町からやっと帰宅できて、喧しい同居人もようやく静かになった、否、強制的に静かにしたと思ったらこの仕打ちか、と彼は自分の今の状況と本日の厄日振りを心底嘆きたくなった。
 確かに、本日は朝から夢見が悪かった。竜に出会って意識が飛ぶという珍妙な夢を見た。けれど自分が予知能力者ではないと確信している彼はその夢の内容をことごとく無視していつも通りに過ごそうとしていたはずだ。
 朝食の席でお気に入りのティーカップが触れてもいないのに粉々に砕けようとも、干し終わった洗濯物が一枚残らず吹き飛ばされ泥まみれになろうとも、悪戯電話で女に間違われた挙句下着の色を訊かれようとも、出かけ際に下ろしたばかりの靴の靴紐が履いた瞬間に両足共ブチ切れたとしても。全身全霊を以って、頑張って無視してきたのだ。
 しかしそれは間違いで、どこかで目を向けるべきだったのだろうか。
 始終全てから目を逸らしてきた彼だったが、外出から帰り服を着替えようと自室に向かう途中、ふと家の異状に気付いた。滅多に足を踏み入れない今は亡き祖母の部屋の扉を開けた途端、目の前が真っ白になった。
 彼自身が魔法使いで、家系的な霊感体質で怪奇現象には常日頃遭遇していて、実家には昨今の人間社会に耐えれなくなった幽霊や妖怪たちが身を寄せ昼夜問わず闊歩している。
 だから、今まではある程度の事までは驚きはしなかった。
 例えば、彼の実家の空間が歪み、そこから明らかにこの世の物質とは思えない物が降ってきて屋根から一階までの空間をものの見事に繋げようとも。割とではなくても4~5年に1回くらいの確率であったという。
 ただ、自分自身がそれを経験するとは微塵にも思わなんだが。
「つまり、貴方は異世界のイギリスに住んでいる日本人の魔法使いで、我が家の屋根に大穴を開けながら落ちてきて、かなり迷惑かつ不本意ながらこっちの世界に来てしまったと?」
 非常識であろう彼の話を要約した、非常に顔立ちの良い青年が胡散臭そうに睨み付ける。
 その仕種に明らかに気圧された感じで、彼はソファの上で萎縮した。どう見ても年下の青年に気圧されるなど普段の彼からは想像も付かないその姿に、もしこの場にいた同居人たちが声を上げて驚くだろう。
 しかし、これには彼なりの理由なり生存本能なりが存在するのだが。
「どうしますか? 兄さん」
「信じられない、と言いたいが……嘘を吐いているようにも見えないし、何よりこれだ。信じないわけにはいかないだろう」
 最も年長の男性が言ったこんな格好、とは多分彼の着ているローブとテーブルの上に並べられた所持品の事を指している。
 英語と日本語で色々メモ書きがされている皮手帳、装飾された棒っきれにも見えなくもない杖らしき物体、明らかに本物の日本刀、小瓶に入った色とりどりの薬品他用途不明の物質多数、とここまではまだ頭の捩子が緩みきった危険人物か魔法使いオタク、で苦し紛れながらも片付けられるだろう。
 しかし、中の人物が好き勝手に動いている写真、明らかにチョコレートだと思われるのにカエルの形をして飛び跳ねている物質、この二つがいただけない。
 彼等の弟と思われる二人の少年はその二つに夢中で、空から降ってきた異次元の来訪者の事は割とどうでもよくなっているらしい。彼にとってもそちらの方がありがたかった。そうでなくても兄たちと話をするだけでも彼は精神的に一杯一杯なのだ。
「まあ、信じる信じないは別として……問題は彼をどうするか、だな」
「しばらくうちに泊めればいいんじゃないかな」
 真剣な長男の言葉に、今までカエルチョコレートの観察に夢中だった三男が軽い調子で提案する。
 その少年に両足を摘まれたまま逆万歳状態で宙ぶらりんにされたカエルが情けない鳴き声を上げ、そろそろ食べないと溶けるぞと、彼のどこか冷静で抜けている部分がツッコミを入れた。
「だってその人、悪い人には見えないし。な、余」
「うん、悪い人じゃないよ」
 外見からの推測ではなく当然のように断言する末弟に、三人の兄たちの視線が集まる。
「だって僕、夢でこの人に会ったんだ。全然悪い感じはしなかったよ」
 軽々と投下された爆弾発言に、一瞬その場にいた四人の思考が停止した。しかし、すぐにそこから立ち直った異次元からの来訪者は、あーと意味不明の言葉を吐き出して、脳内消去しかけていた今朝見た夢を思い出した。
 会った。確かに彼には夢で会った、ただし、姿はこの少年ではなく漆黒の竜に。
 勿論西洋に出てくる壺型ドラゴンではなく、中国のあの胴長の、よりにもよって五本爪の竜に。それでもって、あまりの霊力に精神が耐えきれず、夢の中で意識をブッ飛ばされてその日の朝は覚醒したくらいだ。
「……霊力の波長が酷似していると思ったが、竜王も人身の檻に囚われるとここまで霊力に差が出るものなのか」
「何だって?」
「……?」
「何故異世界かた来た君がおれたちの事を知っているんだ?」
 驚きと威圧感を持った長男の問いに、彼はたっぷり十秒、かなりの間を掛けて間抜けな表情をして、更に間抜けな一言を漏らした。
「何故と言われても……というか、おれたちは初対面だぞ?」
「いや、そうじゃなくて、君はおれたちが人間じゃない事がわかるのか?」
「ああ。おれにも霊力はあるから、だから違う世界なのに普通に会話できただろう? この新聞の文字が読めるし、そっちもこのメモが読めるみたいだから、もしかしたら霊力なしで普通に話せるのかもしれないが」
 今更何を言っているのか理解できない様子で彼は四人の兄弟をゆっくりと見渡した。上の兄三人ははっとしたように気付き、末弟はもしかして気付いてなかったの? と言いたげな視線で兄たちを眺めている。
 それをしばらく観察していた男が、まさかといった口調で問いかけた。
「全員霊力の把握が、できないのか?」
「生まれてから今までずっと、そんな事一度もできた試しはないよ」
「え?」
 三男の呟きにますます理解不能な顔になっていく彼に、一番精神的に余裕のある末弟が自分達の身の上を簡単に伝えた。
「ぼくたちは竜王が転生した姿らしいんだけど、転生前の記憶はほとんどないんだ。だからその霊力の把握っていうのも意識してできないんだ」
「そうだったのか」
「お兄さんはなんで出来るの? 魔法使いだから?」
「いや、単に霊力の強い場所で育ったから、ごく自然な成り行きで。魔法使いだからというのは全く関係がないな」
「じゃあ、そっちの世界も皆が皆そうじゃないんだ」
「ああ、そうだな。霊力が判る人間はそう多くはいないし、魔法使いも一握りしかいない」
 末弟の好奇心溢れる質問に、彼も目で苦笑しながらも澱みなく答える。
 元々子供が好きという気質もあるが、どうやらこの少年の持つ気性が気に入ったらしい。尤も、冷静に考えてみれば竜王を気に入る気に入らぬととやかく言うのは、一人間として見るとかなり恐れ多い事なのだが。
「話込んでいる所悪いが、それで君はどうやって元の世界に帰るつもりなんだ?」
「その事なら問題ない、方法はあるにはある」
「じゃあ今すぐ帰って下さい」
 にこりと笑いもせずに次男からそう告げられ、彼は困ったように視線を漂わせた。
 けれど、先程のように萎縮するようすはなく、どちらかというと普段の彼に近いはっきりとした口調で首を横に振った。
「満月が来るまでは戻れない」
「なんですって?」
「魔力を増幅させるには満月の夜が絶対条件なんだ、今のおれの力だけではとてもじゃないが戻れそうもないし。それに心配しなくてもおれが壊した屋根を修理したらそれ以上はこの家に滞在するつもりはない」
「え、この家出て満月までどうするんだよ?」
 少し不満そうに口を尖らせた三男に当然のようにありえない台詞を吐き出す。
「死ななければいいのだから、どうにかなるだろう」
「……おれさ、あんまり人を外見で判断したくはないんだけど、敢えて言うぞ? 物凄く意外だけど、アンタって外見に反して無謀過ぎ……って、そうじゃなくて! 別に家にいればいいじゃん、これも何かの縁だって」
 本題が振り出しに戻り、末弟もすぐ上の兄の言葉に賛成の意を示した。
 逆に次男は渋い顔をしていて、長男は新聞の月齢を見て相変わらず思案顔だ。
「次の満月まであと一週間と少しか、仕方がない。余の夢に出てきたというのも気になるからな……第一このまま放っておいて万一何かあったら夢見が悪い」
「やりっ! さすが始兄貴、竜堂家家長!」
「これで路頭に迷う心配はなくなったね」
 パン、と手を合わせた二人の少年に彼は苦笑を漏らし、黙ったまま佇んでいる次男に視線を向けると、丁度それがかち合う。
「ぼくは家長である兄の意思に従うだけです。兄がそう決めた以上、貴方に何か言うつもりはありませんよ」
「……」
 その態度に彼が微かに目を細めて微笑うと視線を元に戻し、長男が弟たちに自己紹介をするよう促した。
「おれは竜堂終、竜堂家の三男坊でこっちが弟の」
「四男の竜堂余です。よろしくお願いします」
「竜堂続です」
「家長で長男の竜堂始だ」
 個性的な四兄弟の名前を顔を一致させ、彼は姿勢を正してゆっくりと自己紹介をするために頭を下げた。
です。これから数日間、お世話になります」