曖昧トルマリン

graytourmaline

adoration

 新しい部屋に持ち込まれた私物を見て絶句したセブルスは別に悪くない。引越しのようだと呟くのも頷ける、事実これは引越しだったのだし。
 先生には内緒の、といった内容の言葉が前に付くものだけれど。
 部屋の片付けを手伝って欲しいとが頼んでいる、ぼくはそう言ってセブルスを呼んだ。その言葉に一切の嘘はなく、小さな部屋にはダンボールが積み重なっていて、空いた蓋からは何処が破れたのか判らないほど綺麗に繕われている着替えや拍子が擦り切れるほど読み込まれた本、年季が入った食器が覗いていた。全て彼の私物だった。
 そんな荷物の中心ではが黙々と片付けを始めている。ぼく等に気付くと、ようやく判断の付く位微かに安堵の表情を浮かべて手を止めた。
 目許には疲労が見え声にも覇気がない、何よりも顔色が優れなかった事にセブルスは動揺して、寝ていろと叫びながらベッドに彼を片腕で叩き込む。
 ぼく等の中で一番体力が少なそうなセブルスがそんな事をやってのけたので、はいつもの調子で、人間やろうと思えば出来る事は意外に多いと暢気に呟いてくれた。これなら大丈夫だろう。
「ルーピン! 貴様も何故笑っているんだ!」
「笑いたくもなるよ。ここ何日か、まともに話が出来る状態じゃなかったから」
「……ブラックの所為か」
「クイズにもならないよね」
 悪夢の月曜日とも呼んでいいあの日の午後に起こった惨劇の現場に立ち会ったセブルスは、その日を境に色々変化してしまった周囲の環境をすぐに理解してくれた。不憫なものを見る目での頭を数回撫でるけれど、いつものような照れ隠しの文句は帰ってくる様子もない。今までの疲労が此処に来て出てしまったのだろう、彼は既に寝ているようだった。
 あの日からはほとんど寝ていないのだから一瞬で眠りについても仕方がない。一応、その原因はセブルスが答えたから言うまでもないけれど、何度でも言いたいから言っておく。
 昼夜問わず猛烈に付き纏うようになったシリウス・ブラックの言動だった。
 シリウスは彼が嫌がっているのにも関わらず、所構わず歯痒い台詞を臆面もなく叫び、抱き合おうと迫り、キスしようと追い、挙句の果てには彼の私物を盗もうとまでしていたのだ。全く以って許し難い。
 無論は全て丁寧に断った上で殴ったり蹴ったり、時には城の上から吊るしたりしたけれど、恋に狂った馬鹿は悪い感じに勘違いしてこれも愛だと言っていた。
 本当にを愛してるのなら彼を苦しめるようなことは止めて、今すぐにでも死んで欲しい。出来ることなら、シリウスをこんな感じに成長させてしまったあの眼鏡も一緒に。
 はこういった愛情表現に慣れていない事を彼等は知らないし、知ろうとしていない。ごく普通の好意ですら怯え、恋愛なんて無理だと自己申告する位に一杯一杯になっているなんて想像もしないのだろう。抱き締めるだけで狼狽して真っ赤になる事は知っているはずなのだから、ああいった行動は自重すべきなのだ。
「苦労しているな」
「否定は出来ないけど、彼程じゃないよ」
 眠った彼を見て内心ほっとしたのを悟られてしまったみたいで、荷物の片付けを始めたセブルスはぼくにも労わりと言う名前の同情を投げて寄越してくれた。
 確かにあのシリウスからを守るのは心底疲れているけれど、ぼくが諦めてしまったら彼が壊れてしまうような気がしたので投げ出すわけにもいかなかった。例え毎日、迷惑をかけるから自分から離れるように言われ続けていても、それはやりたくない。
 未だ根負けせずにぼくを気遣う位ならもっと自分を大切にして、シリウスを徹底的に嫌ってくれればいいのに。けれど彼は、友人というカテゴリーが付いてしまったので簡単には捨てられなくなってしまったと告げて、自分の不器用さに戸惑いながら最終的にはシリウスを許してしまうのだ。ただ、許すとは言っても、触れさせり、盗難を容認したりするという意味合いでは断じてない。きちんと反省したら咎めない、という意味だ。その処罰でもそれでも充分甘いのだけれど、第一反省の色が見られないし。
「ルーピン、目が怖いんだが」
「ああ、ごめん。最近シリウスを睨んでばっかりだったから。でも本当に、こういう時、君と三人で居る時間の有難みが良く判るよ」
 付き合いが他とは違い長いだけあってセブルスはを傷付けるような事をしないし、ぼくもを傷付けてしまうような言動を極力避けている……この間は、彼を置いていってしまったけれど、約束を破ったのは自分だから謝るのは筋違いだって馬鹿扱いされたし。勝手に一人で傷付いているなと言われて、残りのフォンダンショコラ全部食べさせられた。温められたフォンダンショコラもおいしかった。
「そうだセブルス、が落ち着いたらまた三人でお茶しようね」
「チョコレートケーキ以外でな」
「君は入院するくらいのフォンダンショコラ食べたからいいかもしれないけど、ぼくはまだ数個しか食べてないんだよ?」
「あれは数個も食べれば十分だろうが」
「今度は何作ってもらおうかな。そうだ、この間ケーキじゃないから作るの止めていたチョコレートのムースを頼んでみようかな」
「だからチョコレートは止めろと言っているだろう」
「それじゃあ、紅茶に合う和菓子なんてどうかな」
「……がいいと言うならな」
「よし、じゃあ紅茶に合うチョコレートを使った創作和菓子で」
「貴様の耳はただの飾りか!?」
「セブルス、が起きちゃうよ」
「誰のせいだと思っている?」
 会話一つを取ってもお互いに無理がないし、の意識がなくたって彼が傷つくような事は言わない。誰かみたいに当人が嫌がっているのに寝顔を覗き見ようとするとか、そういう悪趣味なこともしない。
 ぼくもセブルスも彼に恋愛感情を持っているけれど、誰も不快な思いをしない程度に控えていた。控える、とは正しくないのかもしれない、この関係でぼく等は十分に満足していたから。
 本当に、ジェームズが言った通りぼくらは対等で平和な三角関係だったのに、なのにどうして此処にシリウスを突っ込んだのだろう。
 確かに、友人としてのシリウスは好感を持てるのは認めてもいい。
 一直線で嘘が吐けない性格、情にはとことん篤くて、世話好きなのか相手を構いたがる所は行き過ぎな面も多少あるけれど、ぼくやのような他人と距離を置きたがる人間にはよく切っ掛けを作ってくれた。ただし、あくまで友人としての話であって、恋愛が絡むとこうは行かない。
 シリウスはを傷付けている、そしてそれを自覚していない。こんな不愉快なことがあるだろうか。好きな人が自分の言動で傷付いているなんて欠片も思っていないのが兎に角不愉快で、その所為で最近ぼくは非常に怒りっぽくなったと周囲から言われている。一部からはを取られるかもしれないから嫉妬しているのだという意見が出ているけれど、そうではない。ぼくはを好きだと公言しているのにも関わらず、その一切を大切にしていないシリウスに怒りを覚えているだけだ。
 はぼく等が深く傷付くような事をしない。時折想像も付かないような変な言動をして動揺させられるけれど、決してわざとでもなければ悪意もないし、迷惑しているわけでもない。彼の場合は、ただちょっと世間ズレして天然なだけだ。だからぼく等も出来るだけ彼の迷惑にならないよう振舞うのは暗黙の規律だったのに、シリウスは今正にそれを壊そうとしている。
「ルーピン、目が怖いんだが」
「セブルス。二回目」
「二回も言わせているのは誰だ」
「シリウス」
「……」
「判ってるよ。シリウスは今此処にはいない、だから睨む必要なんて何処にもない。判ってるけど、君以外に吐き出せる相手がいないんだ」
 まさかぼくよりも余程疲れているに愚痴れなんて当然言えないセブルスは口を噤んでしばらく睨んだ後、盛大な溜息を吐いてそれを許可してくれた。文句を言いつつ許容してくれる彼のこういった所も、ぼくは好きだ。
「後で見返りを寄越せ」
「愚痴くらいなら何時でも聞いてあげるよ」
「同部屋だろう、いっそ原因の息の根を止めろ」
「ああ、それは名案だね。出来る事ならそうしたい」
「……冗談で言ってみたんだが、本当に疲れているんだな」
「君より多少は接触が多いからね」
 今日だって、この後一緒にクィディッチの説明に行かなければならない。これは、の望んだことだから仕方ないと言えば仕方ないんだけれど。
 救いなのはジェームズも一緒に行くという事だろうか。シリウス自身が無自覚の内からその感情を理解していたジェームズも、流石にこんな方向に転がるとは思ってもみなかったみたいで、多少は罪悪感を抱いているようだったし。多少しか抱いていない、とも言えるけれど。
「ルーピン」
 もう一度、窘めるような声。けれどセブルスのそれではないものに振り返ると、眠そうな眼を擦ったがぼんやりとした表情で背後に立っていた。寝てなきゃ駄目だ、と注意が飛ぶ前に、彼の膝は力を無くして、小規模な雪崩のように襲い掛かってくる。
 慌てて細い体を抱き留めると、彼の両腕が背中に回された。何事かと驚いているぼく等を無視して彼の腕は背中をゆっくりと叩く。どうやら労ってくれているようだ。自身が一番精神と肉体を休めなければならないのに、いつだって彼はこうなんだ。
 そんな光景に思考を停止させていたセブルスと目が合うと、途端にそれが自分の役目を思い出したとばかりに、ちゃんとベッドで寝て休めと叱り飛ばしてくる。無邪気な子供に振り回される保護者みたいでちょっと面白いと思ってしまったのは内緒だ。そんな事を口にしてしまったらぼくも一緒に叱られるだろうから。
、いい加減に寝ろ! ルーピンも和んでいるな!」
「だってが可愛いから」
「かわいくない」
「そこはちゃんと反論するんだね」
「ルーピン?」
「ごめん、セブルス。ちゃんと彼を寝かせるから、地を這うような声で名前を呼ぶのは出来れば止めて欲しいな」
 セブルスがそろそろ本気で怒り出しそうだったのでにベッドまで行くように言うと、彼の頭が左右に振られた。眠たくない訳じゃないのに、自分よりもぼくを優先してくれている事に罪悪感と優越感を覚える。そんな風にぼくが本心から嫌がっていない事を感じ取っているから、彼はベッドに行こうとしないのだろうけれど。
 はたりとぼくの背を撫でていた手が止まると、眠そうな眼が何か思案するように宙を漂った。妙な事に、今回に限ってぼくは彼の次の行動が読めた。
「おい! 寝惚けているのか!」
 即ち、セブルスに抱きつく、という事を。
「眠いが、寝惚けては。いない」
「ルーピンこいつを剥がせ!」
「君が心の底から嫌がったらぼくの手を使わなくても退いてくれるよ。はい、全力で自己否定頑張ってセブルス。絶対に無理だろうけど」
「揃いも揃って!」
 だから自己中心的なグリフィンドール生は嫌なんだ、と寮単位で括られて罵倒されるけれど、セブルスの顔は真っ赤で説得力が皆無だ。どう見ても嫌がっている様子は見られないからも止めようとしない。
 あと、グリフィンドールと方向は違うけれど自己中心的なのはスリザリンも同じだという事も、心の中で付け加えておこうと思う。人の意見を聞かない傲慢か、人の意見を無視する陰湿かの違いに過ぎない。
「全部口に出ているぞルーピン!」
「あれ、おかしいな」
「おかしいのは貴様達の脳味噌だ!」
「おかしくない」
 相変わらず眠そうな口調で、けれど今度はかなりはっきりと、はセブルスにしがみ付いたまま呟いた。赤面しつつも今にも射殺さんとするセブルスの殺気を右から左へと流しながら、黒い瞳が宙を見ながら何かを思案している。
 その黒い視線がぼくを見て、再び宙を舞い、最後にセブルスで固定された。ふいにセブルスが身構える。斜め思考の天然発言という爆弾を投下される予感がして、ぼくの体にも知らず知らずの内に力が入った。ロジックを異次元の中に置いている彼は、次に何を言い出そうとしているのだろうか。
 思案する時間がいつもよりも長い所為で嫌な沈黙が不安を倍々に増やして行った。何時の間にかセブルスも黙り込んでしまっている。ただ、今更ぼくに向かっては一体何を考えているのかとアイコンタクトを取られても非常に困る、ぼくだって彼の思考は偶にしか判らないのだから。君だってぼくが同じようにしたら困るだろう、と視線でだけ言っておいた。多分正確に伝わっていると思う。
「スネイプは、おれの名前を呼ばないのか?」
「相変わらず脈絡のない発言だな! 何処をどうしたらその思考が生まれるんだお前は! というか寝ろ! いいから寝ろ今すぐだ!」
「醒めた」
「そう簡単に醒めて堪るか馬鹿者が!」
 投下された爆弾にセブルスは即座に反応する。流石2年以上付き合っていれば思考が止まっても口は動くのだけれど、そう言えば、の疑問通り、セブルスは2年以上付き合っている上に恋愛感情を持っているにも拘らず未だにの事を名前で呼ぼうとしない。
 はどうだって言われれば、彼は野生の小動物と見紛うばかりの極度の警戒心を持った恥かしがり屋だからと理由辺りで全てを察しておいて欲しい。心理的に無茶をさせて泣かせるのは、少なくともぼくとセブルスの本意ではない。
 じゃあセブルスが困るのはどうかって、逸れは勿論、大いに結構だ。但しこういったに関わる下らない事で、という条件付だけれど。
 という訳で、ごめんねセブルス。今の君の状況がとても面白いからぼくは君を助けない。
「ファミリーネームで呼ばれる事の何処に不満がある! 二十字以内で答えろ!」
「ブラックに呼ばれるよりスネイプの方がいい」
 マグルのマイナースポーツであるベースボールで例えるなら、初球からストレートの剛速球が放たれ、キャッチャーが吹き飛んだようなものだろうか。酷い牽制球だ。バッターボックスに突っ立っているセブルスは絶句した。
 さっきまで怒りで赤かった彼の顔は、ふいに訪れた告白で別の種の感情によって朱に染まる。の裏も表もない素直さと、時折発揮される男前さは巻き込まれるとパニックになるけれど、こうして傍から眺める分には大変微笑ましい。
 おまけに字数もぴったりだ、非の打ち所がない。という事にしておこう。
「この理由では駄目か?」
「だ、駄目だとか、いいとか、そういう問題では……」
「ではどういった問題があるんだ」
 多分、にしてみれば友人付き合いの短い、そして何よりもアレなシリウスにファーストネームで呼ばれているのに、セブルスに呼ばれない事が不満だったんだろう。他にも眼鏡とか、最近になって色々な他人にもそう呼ばれているのだし。
 セブルスも誤魔化していないで、単に恥かしいから、と言ってしまえばは納得してくれるのに決して口に出そうとしない。それもまた微笑ましいから、ぼくとしては一切合切問題にはならないのだけれど。だから強烈な視線でヘルプを出されても却下という選択をしておく。
 頑張れ、と目で笑っておくと、後で呪い殺す、とばかりに睨まれた。ぼくが悪い訳じゃないけれど、セブルスもきっと本気で殺すと思っている訳ではないだろうから、何も見えない聞こえないふりをして援護射撃に出る。勿論、セブルスではなくの。
、セブルスが呼んだらちゃんと放して上げるんだよ?」
「判った。そうする」
「貴様は要らん条件を吹き込むな!」
「君が自分に正直になればいいんだよ」
 まっさらで、綺麗で、時々天然で、こういう時に限って心配なほど素直なはぼくの言葉に潔く頷いた。未だに顔を真っ赤にしているセブルスを見ていると自然と頬が緩んでしまう。
 こうしていると日々の殺伐とした時間が何処か遠い場所にあるんじゃないかとすら思えてくるから不思議だ。現時点でセブルスが殺伐としている気がしないでもないけれど、きっとそんなのは大いに気のせいだ。
「思っている事が全部口に出ていると言ってるだろうが!」
「ほら、ぼく素直だから」
「どの面下げて素直と抜かすか! 素直というのはのような……!」
 失言に気付いたセブルスの顔は硬直して、部屋の空気も薄い焦げのように固まる。真夜中の棺のような静寂の中でぼくとは時間をかけて視線を交わした。
「言ったね」
「言ったな」
「放して上げたら?」
「そうする」
 セブルス自身、の事を名前で呼んでしまった行為に驚いたみたいで、解放された後も顔を赤くして呆然としている。我に返ると非難する目でぼくを見て来た。理由は判るけど敢えて判らない演技をすると、物凄い形相で睨まれる。
 傍らではが何かに納得した様子で頷いていて、ポケットから懐中時計とクッキーを取り出すと、クッキーだけをセブルスに手渡した。
「このクッキーは何だ」
「チーズビスコッティ。個人的には紅茶ではなくコーヒーで食べる事を勧めるが、道具を持っていないのなら貸してもいい。これが豆だ、コーヒーミルとエスプレッソマシンは確かこの辺りに仕舞った筈だが……」
「そういった事を聞いているんじゃない! ダンボールを漁るな! このタイミングで菓子を渡すというのはどういう意図があっての事だと言っているんだ!」
 これは何だ、と訪ねればクッキーと返答される事を見越して質問の形式を変えたセブルスに、いつもの調子でが応じる。こういう場合は、どういうつもりでお菓子を渡したのか聞かなければちゃんとした回答は得る事ができないのだけれど、セブルスはいつまで経っても回りくどい。
 けれど、回りくどくなくなったらそれこそセブルスではなくなってしまう気もするので、ぼくは口に出して何かを意見する行為はしなかった。した所で何が変わる訳ではないという事は判っているのだけれど。
「態々此処まで来て荷解きを手伝ってくれた礼だ」
「まだ何割も終わっていないだろう。先程も訊いたが、何故このタイミングなんだ?」
「人と会う約束をしている。ルーピンと一緒に」
「お前、また何かやらかしたのか」
「違う。これからやらかす予定だ」
「フェルーラ!」
「プロテゴ」
 真実を必要以上に割愛して話すの癖をいい感じに勘違いしたセブルスが身を拘束しようと杖を上げて、その行動が予想外だと表情で語りつつ余裕を持って防御呪文を唱えた。そんな二人に心理的に挟まれた場合、どう転んでも通訳という役目しか残っていないみたいで、魔法を防がれたセブルスは、ぼんやりと佇んでいるぼくの名前を全力で叫ぶ。
「そんな怒鳴らなくたってちゃんと聞こえるよ」
「喧しい! お前達は毎回毎回毎回毎回何をやらかす気なんだ! やらなければ気が済まないのか!? 謹慎から戻って来て何時間しか経っていないと思っている!」
 ぼくに日にちではなく時間単位で計算要求されても困るのだけれど、怒りに染まっている今のセブルスには何を言ってもきっと無駄だろう。
 は相変わらずの表情で、何時間経過したか小さく呟いていたけれどそんな正直に答えたら火に油を注ぐ以外に他ならない。それが判っていない所がまた可愛いのだけれど、そんな事を口に出したら最後、この場は三つ巴による混沌の空間と化してしまう。
 以前に教えて貰った三竦みという状態にならないのが嘆かわしいというか、微笑ましいというか、いや、現実逃避している場合じゃない。
「やらかす、って言うのは語弊があるよ。ただちょっと、お願いしに行くだけで」
「そのお願いとやらのルビが脅迫と読めたのはぼくの気の所為か?」
「おれは脅迫等という面倒な事はしない」
 胡散臭い者を見る目で睨むセブルスにが一言告げると、室内にまた微妙な沈黙が流れる。
 確かに彼の宣言は正しい。正しいのだけれど、諸事情により思わずぼくたちは視線を交わし、そして在らぬ方向に流してしまう。
 言葉通り彼は脅迫なんかしない、けれど、時と場合と口調によって相手方に脅迫と取られる場合が多々ある事を今この場で説明した方がいいのだろうか。セブルスは視線だけで止めておけと言った。アイコンタクトはこの数分で何回目になるのだろうか。
「つまり……どういう事だ、ルーピン」
 脅迫云々を綺麗に流した後、に説明を求めるとまた勘違いしてしまうという懸念から、セブルスはぼくに説明を求める。ぼく達の思考を判っているのかいないのか、は特に疑問も不満もない表情でまた文字盤を走る針の位置を確認していた。
「今回の謹慎でいつもより大幅な減点食らったんだけど、がそれをクィディッチで挽回したいって言うから」
「違う。おれの所為で減点を食らったルーピンの為だけだ、他の連中など知った事か」
「今からグリフィンドールチームのキャプテンに会う約束をしているんだ」
「おれの発言を意図的に無視するな」
「そんな訳でセブルス。君ならぼくの今の気持ちを判ってくれるよね」
 普段のからは想像も付かないような熱烈振りを目の当たりにして、セブルスはいい気味だと笑った。というよりも、嗤った。多分、さっき抱きつかれたのに助けなかった恨みをここで晴らしているのだろう。
 なんて平和な関係だと、しみじみ思ってしまったぼくは絶対に悪くない。
 だって今の状況を冷静に考えてもみて欲しい。グリフィンドール二人にスリザリン一人という組み合わせで報復行動がこれだ、平和と言わずして何と言おう。いっそ三人で何処か遠くに引篭もりたい。その場所は楽園か理想郷か、それに近しいものになるに違いない。
「ルーピン、行くぞ」
「うん。じゃあ、そういう事だから」
 思考を暴走させていたぼくに一声掛けたは、セブルスに礼を言うと部屋から出て行った。ぼくとセブルスもそれに続き、ドアの前で二手に別れる。
 相変わらず先の読めない彼の隣を歩いていると、その小さな体がいつもよりも縮んで見えた。多分慣れない行為をしている自分に緊張しているのだろうと思ってそっと手を伸ばすと頭の上に置かれてぼくの手が邪魔みたいで、首を振ってどうにかしようとする。
 睨んできたり文句を言わないのは、ぼくに気を許してくれているのか、それとも単に眠いのか。出来る事なら前者の方が嬉しい。何も言われない事に気を良くしてそのままでいると、寒さで赤くなっていた頬がふっくらしてきたように思えた。
 拗ねたかもしれないな、そう思った瞬間にの頬が朱に染まる。手を叩き落として身を強張らせ、今までにないくらいに体を強張らせて周囲を警戒しだした。ぼくには全く判らないのだけれど、どうやら近くに人の気配があるらしい。
「……すまない」
「大丈夫、判ってるから」
 手を払った事を気にしているみたいで、の口調が沈んでいる。そんな彼を慰めたる為に湧き出た、頭を撫でたり抱き締めたい衝動を抑えて笑いかけると、伏目がちの黒い瞳が揺れた。
 近くに居て、ちゃんと彼を見ていなければ判らないくらいに僅かな変化だったけれど、ぼくには判った。彼が纏う気配は何時だって素直過ぎる。
 がいつもぼくにしてくれているように、たまにはぼくもと思いキャンディを手渡そうとして、背後から衝撃が来る。友人がさほどいないぼくにこんな事をする人間は限られているので、振り返るまでもない。
「二人とも楽しそうだね、ぼくも混ぜてくれないかな」
「ごめんね、無理」
「死ねばいいのに」
「聞いたかいリーマス。の、ぼくへの挨拶が何故か永久凍土のように冷たいんだ」
「ジェームズ。ぼくの背中で泣かないでよ、凄く重いんだけど」
「死ねばいいのに」
「二回も言われた!」
「死ねばいいのに。というか、死ね」
 出会い頭から四回連続で死ねと挨拶されたジェームズは、胡散臭い泣き真似をしながらぼくから離れ、その場で意味もなく一回転すると、これもまた胡散臭い笑顔で眼鏡を輝かせる。意図的に眼鏡を全反射させる事が出来るかどうかは判らないけれど、少なくともジェームズは出来るような気がした。
 彼もまたとは違う方向へと人間離れしているから、その位は朝飯前だろう。
「ご機嫌な挨拶はこの辺にしておいて、ちょっとだけ真面目で不愉快な連絡があるんだ。のチーム入りに反対してる元シーカーが勝負しろって煩くてね。全く参ったよ、紙の上で既に勝負は付いてるのに更に徹底的に打ちのめされたいらしいんだ」
「敢えて言ってると判っているけど一応注意しておくね。まだ元じゃないよ、ジェームズ」
「ぼくとしては既に元だからそれでいいんだよ」
 チームの主力選手にバッサリ切り捨てられたシーカーに少しだけ同情しそうになるけれど、それ以上何か言うのは止めておいた。がここまで他人と接する事が出来るようになる前からスカウトがあったから相当駄目なんだと思う。
 具体的にどう駄目か、というのはチームメイトであるジェームズとシリウスから散々聞いたけれどそのほとんどは忘れてしまった。とりあえず、ぼくが覚えていられないほどそのシーカーに対する不満が二人にはあったという事実だけで十分だろう。
「それで、だ。、自分の椅子に座っているお荷物を降ろす体力はあるかい」
「ないと思うか?」
「常に臨戦態勢、最高だね。それでこそぼくが求めていた真のシーカーだよ。じゃあ覚えてね、集合場所は西塔2階の空き教室から競技場グラウンドに、時間は午後2時、以上復唱」
 最後の方は完全に悪乗りしているジェームズに対して、は特に不快な表情を見せたりはしなかった。ただ何か疑問があるのか、ぼくの方をちらりと見て何か納得しない表情をすると、首を傾げながらもジェームズに対し口を開く。
「集合場所競技場グラウンド、時刻ヒトヨンマルマル。復唱終わり。これでいいか?」
「……ねえ、リーマス」
「駄目。絶対駄目、あげない」
「ケチ」
「ケチじゃない」
 眼鏡の向こうの目が輝き、欲しいと訴えているのを見て、ジェームズが何か言う前に却下した。ぼくのものじゃないけれど、駄目なものは駄目だ。
 も可愛い仕種で尋ねるなんて行為は自重して欲しい。ただでさえ顔が可愛いのだから、油断するとそのうち悪い大人に連れて行かれそうだ。連れて行こうとした瞬間、その悪い大人は血達磨にされるに違いないけれど。
 悪い、と言えば、今の今まで忘れていた。というよりも脳が気付こうとしていなかった。
「ところでさ、ジェームズ。あの黒いのはどうしたの?」
「ああ。うるさいし、何よりが嫌がるからね。沈めてきた」
「よくやったポッター。場所は湖か、それともドーバー海峡辺りか? 花くらい手向けてやる」
「え、そこは当然、血の池か地面の下でしょ? 水になんて沈めたら水質汚濁の原因になって水中生物が全滅しちゃうよ」
 真面目な表情のまま、かなりの速度で食いついてきたの反応にジェームズが驚く。その口調は若干嬉しそうで、思わずぼくも悪乗りしてしまった。本当にそうだったらいいなと、少しくらいは思っているけれど。
 そんな期待に満ちたぼく達の目を見たジェームズは、明後日の方向に視線を逸らした。言葉にしなくても判る、期待に添えなくてごめんというメッセージがそこにはあった。
「まだ犯罪者にはなりたくないんだ。ベッドの上で意識を沈めてきただけだよ」
「まだ、という事はいずれは犯罪者になるつもりだろう。何事も早いに越した事はない」
「そうだね。将来的に犯罪者になるなら今から経験を積んでおくべきだと思うよ」
「君たち最近容赦ないよね。気持ちは判らないでもないけど」
 肩を竦めて見せたジェームズは競技場へ向かって歩き出し、ぼくらもそれに続くとハシバミ色の瞳が不思議そうに語りかけてくる。
「ところで。君の箒はどこの会社なのかな」
「何だ唐突に」
「唐突さがぼくの売りの一つさ。知ってるだろう?」
「知らない」
「コメットとかクリーンスイープとか色々あっただろうけど、まさか安いからってユニバーサルにしたんじゃないだろうね、学校が採用してるけどあそこのは中古だから浮かぶだけで精一杯なんだよ。価格と品質の両面から見ると、どこのチームでもクリーンスイープ派が一番多くて、次点がコメットとニンバスだね。因みにぼくはニンバスの最新型で、シリウスはシルバー・アローなんだけど。そうだごめんね、気付かなかった。もしかして日本の製品かな、ぼく海外の会社はそれ程詳しくなくてさ」
 知らないと言っているにも関わらず、クィディッチ馬鹿を最上級の褒め言葉とするだけあって、こういった事を喋り始めたジェームズは一向に止まる気配を見せない。がちょっと困った顔でぼくを見上げてくるけれど、どうしようもないね、と首を横に振っておいた。少し意外だったのはそんなクィディッチ馬鹿の語りをは不快に思ってない事だったけれど。
 ただ、意外に思っただけで不思議だとは思わなかったというのも事実だ。ジェームズのお喋りはいつまで経っても飽きないし、何より楽しい事が多い。今もこうしてが口を開きかけると発言権を渡してくれた。
「日本のものではない。家にあったものを譲り受けたが、社名は無かった」
「それじゃあ職人の手作りかな、印はあった?」
「ムーントリマー。型番は無かったな」
「ムーントリマー! 競技用箒の立役者グラディス・ブースビイの作品じゃないか! 家にも後期の作品があるけどあれはいい箒だよ! しかも型番無しなんて貴重品だね!」
 一層熱の入ったジェームズを見て、再びがぼくを見る。今度は困った顔ではなく、そんなに貴重な物なのか、と尋ねるような表情だったのでさっきとは逆に首を縦に振と何か納得した様子だった。
 一応何に感心したか訊いてみると、割と古い箒なのに状態が良かったので量産型ではないだろうと思い、それなりに気になっていたそうだ。
「それに個人の作品ならば、あのじゃじゃ馬っぷりも納得できる」
「天下のムーントリマーがじゃじゃ馬だって? 成程、だから型番がないのか。でもこれは益々貴重品だね! 、是非とも後で一度乗せてもらえないかな!」
「構わんが、怪我をするから全試合終わってからにしろ」
「ジェームズが振り落とされる事前提なんだね」
「おれはよく振り落とされたからな」
 が振り落とされるくらいと聞いて、ぼくの貧相な想像力は限界を迎える。一方ジェームズは心底愉快そうだったので、彼の身の安全のために彼が熊殺しの猛者だという事を告げておいた。
 唐突に、静まり返る廊下。
「ごめん、リーマス。よく聞こえなかった」
「だからね」
 城の外に出て、水分を多く含んだ雪を踏みしめながらもう一度宣言する。
「彼、冬眠明けの熊を殺したんだって。それに君も知ってるよね、彼が塔の石壁を蹴って破壊したり、常人離れした体力持っている事くらい。それで、君が乗ろうとしてるのは、その猛者を何度も振り落としたっていう箒」
 少し前に本人から聞いた話を告げると、当の熊殺しの猛者は白い息を吐きながら遠く白い空を眺めながら息を吐いた。
「どちらも昔の話だ」
「とても大切な情報をありがとうリーマス。それとね、、後者はとっても微笑ましい昔話だけど前者はより恐ろしさが増したからね。恐怖を通り越していっそイイ笑顔になってしまうぼくのこの気持ち、判るかな?」
 小さな子供に言い聞かせるように腰を屈め、ちょっと首を傾げながら問うジェームズに釣られてなのか、も愛らしい仕種で首を傾げる。ジェームズがまた何か言いたそうな目をしていたけれど黙殺しておいた。だからあげないって言ってるのに。
 それでもしつこい位に許可を求めてくる姿勢にやっと不穏に感じ始めたは、警戒心をじんわりと醸し出しながらぼくの背に身を隠す。そんな行動を相手に見せたら余計に煽るという事は残念ながら理解してくれないだろうから、今度時間を見てそれとなく言っておこう。
 二人の間で壁役をこなしながら競技場まで入ると、それまで軟派だったジェームズが表情を引き締めて、少し体を温めようかと提案してきた。たった一つのボールを奪い、死守しながらフィールドを縦横無尽に翔ける選手の顔だった。
 空を飛ぶことのないぼくは荷物番として客席の最前列を陣取り、ありとあらゆる魔法に長けた二人から徹底的な防寒対策を施された上に暖かいお茶とお菓子を振舞われた上で見学することになった。ちょっと甘やかし過ぎるような気がするけれど、どうせ何を言っても聞き入れられない事くらい判っているので、仕返しとして後で思い切りを甘やかそうと思う。
 ジェームズは、うん、気が向いたら。
 二人はというと、フィールドの中央で杖を構えていた。セブルスではないけれど何をやらかすのかと恐る恐る見守っていると、別々の方角から飛んでくるニ本の箒。呼び寄せ呪文なんてまだ習っていないのに、本当にこの二人は何処まで先に行くのだろうか。
 箒に跨ったは暴れ馬と呼ぶには相応しくないくらい静かに宙に浮き、同じように空を飛ぶジェームズから何か説明を受けると、一つ頷いた。一体何を話したのだろうと考える間もなく、爆風が目の前を吹き抜けて行く。駅を通過する列車が目の前を通り過ぎた感覚に近い、違うのは、その大きさと、レールを走る轟音がない事くらいだろうか。
 数秒の現実逃避後、フィールドに意識をやると天井知らずの興奮をしているジェームズといつも通りのがいた。叫ぶ内容を拾うと、どうやら予想以上の高機動振りに喜んでいるようだ。実際ぼくも驚いた。
「リーマス! 見たかい今の加速! 減速無しのコーナリング! そしてこの速度で客席スレスレを飛ぶ技術と溢れ出る度胸!」
「あー……ごめん、よく見えなかった」
「そうだろう! よく見えないくらい素晴らしいんだ!」
 誰も居ない競技場は叫ばなくても声が通る。けれど、叫んだとしても今の状態のジェームズには何を言っても無駄だろう。
 興奮が収まらないジェームズを眺めるのも早々に飽きたので、が用意してくれたコーヒーとココアをミルクに混ぜた飲み物を口にする。ぼく用に作ってくれたみたいでコーヒーの苦さはなくて、美味しい。以前に飲んだコーヒーはたとえミルクは入っていても苦くて好きになれなかったけれど、これなら飲める。
 セブルスにも渡していたチーズなんとかという名前のクッキーを頬張っていると、競技場の入り口からチームのキャプテンとマクゴナガル先生、それに知らない生徒が一人現れた。同時に、冷やりとした殺気が競技場全体を覆う。
 最初は、シーカーを降ろされる彼が放っていると思った。けれど、違う。この感じ慣れている殺気はの物だ、冬の夜空よりも冷たい黒い瞳がぼくを見つめている。理由もなく彼がそんな事をするなんて考えられないと、思った時だった。ぼくの隣に白い影が現れて荷物が反対の席に腰を下ろした。
「校長先生?」
「やあ、リーマス。随分暖かそうじゃな」
「あの……はい、おかげさまで」
「何でも、今回の事であの子が随分とお主の事を気に掛けていると聞いての」
「いつだって、はぼくの事を気に掛けてくれていますよ」
「ふむ、そうか」
 長い髭を撫でて一拍置いた後、殺気の向く無言の空間が耐えられなくなって再び口を開く。
「今日はどうされたんですか?」
「いやなに、最近あの子が不安定なようじゃから、見に来てみたんじゃ」
「シリウスの所為です、確実に」
「いや、それだけではない」
「そうなんですか?」
 謹慎中から今までの事を振り返ってみてもあの黒いの以外には特に思い当たる点はなかったから、ダンブルドアの言葉は少し驚いた。
 彼にしか判らない何かなのか、それとも単なる勘違いなのかまでは判断がつかないけれど、それでも彼が心配だったらそう言えばいいのにと告げると、ダンブルドアは誤魔化すように笑うだけだった。
 殺気が緩んだのを不思議に思って、ちらりとフィールドを確認するとジェームズが個人所有しているスニッチが取り出されている所だった。あれで勝負するらしい。
 両者が位置についてジェームズがスニッチを放すと、直後に何かを叩き落とすような軽い音が響く。そのまま宙を舞う選手とは逆に、は低く飛んで小さな手を地上に残る三人へと向けた。遠目に確認したのが金色の物体、スニッチだ。
「謹慎をしてから、あの子は変わったの」
「何も、変わっていませんよ。校長先生」
 嬉しそうなジェームズ、呆然とするキャプテン、驚くマクゴナガルを他所に、は別に特別な事をしたつもりはないような表情でスニッチを投げる。
は変わってません。変わったのは、髪を切ってしまった事くらいです」
 もう一度だと叫ぶ選手の願いが聞き入れられたのか、今度は二人が高くまで飛んでからスニッチが放された。瞬時には動き出し、ぼくの目の前までやってくる。短く切り揃えられた黒髪が慣性で揺れて、野生動物のような黒い目を覆い隠した。手には当然のように金のスニッチが居る。
「見つけるのも動くのも速過ぎるよ、。これでグリフィンドーがの優勝しないなら嘘だ」
「そんなものは要らない」
「でも君の事だから、やるからには負けないよね」
「勝って欲しいのか?」
「マネージャーとしては当然」
「ならばついでだ。そいつも全部くれてやる」
 すぐ隣にダンブルドアが居るから相変わらず殺気塗れだったけれど、ぼくが笑いかけるとの表情も少しだけ緩んだ。キャプテンに呼ばれたからそれ以上の会話は出来なかったけれど、相手選手が戦意喪失しているみたいだから、もうぼくが行っても問題ないだろう。
 食べかけていたクッキーを急いで片付け荷物を纏めていると、またダンブルドアから声がかかる。
「お主は、今あそこに居る、あの子の事をどう思っておるんじゃ」
「……愛してます」
 少しの間だけ言葉を探し、鞄と一抱えの防寒具を持ち上げながら短くても十分形になるものを告げると水色の瞳が微笑んだ。それだけ見てフィールドに駆け出すと、丁度が興奮気味に抱きつこうとしていたジェームズを殴り飛ばしていたところだった。
 手加減されたみたいで怪我は一切なさそうな眼鏡は大の字になって横たわりながらも、しつこくを頂戴と言ってくるので無視をする。名前を出されて狙われているという事にようやく気付いたらしいはというと、ジェームズから更に距離を取って威嚇の体勢に入った。
 小動物、というキャプテンの呟きが聞こえてしまったのか、黒い瞳がギンと光ってそちらを睨み付けるけれど、可愛いだけで全く怖くなかった。
「はいはい、落ち着いて」
 このまま膠着状態に入りそうだったので、仕方なくぼくが防寒具を着せると自分で出来ると文句が返ってくる。口ではそう言うけれど暴れたりしないのがまた可愛らしいのだけれど、言葉に出したらどうなるか位は判るので黙る事にした。
「リーマス、リーマス。ぼくも着せてよ」
「何寝惚けてるのジェームズ?」
「君結構あからさまだよね」
 可愛い仕種で全く可愛くないジェームズがおねだりしてきたので、当然のように適当にあしらう。別に贔屓とかではなく人徳と外見の差だって事を判って欲しい。
 ぼくに適当にあしらわれても全く気にしていないジェームズは、キャプテンに確認を取ってぼくたち二人に先に帰るよう言ってきた。チームに関わる事だったら居た方がいいのではないかとぼくもも思ったけれど、聞こえてきたのはの飛行能力に関する雑談だったみたいなので、その言葉に甘える事にした。ジェームズとキャプテンは判るけれど、先生も結構クィディッチ馬鹿なのかもしれない。寮杯がかかっているからだろうか。
 確かにとジェームズと、あとシリウスが本気を出したら残り数年グリフィンドールは向かうところ敵が無くなりそうだけれど。
「でもきっと、君は続けないだろうね」
「何の話だ?」
「シーカーの話」
「当たり前だ。おれはお前の為だけにチームに居るんだ」
 意識していないに決まっているけれど、相変わらずこの台詞には衝撃を受ける。元々の事は好きだけれど、彼はどこまで惚れ直させれば気が済むのだろうと考えてしまう。
 雪から放たれる冷気以外の内なる感情に顔を赤くして、それを誤魔化したくて少し意地悪な問いかけをした。
「ぼくが来年も、再来年も続けてって言ったら?」
「お前は、そんな事を言わない」
「それもそうだね」
 熱気と喧騒、クィディッチに興味のない普通の人間でも感覚を塞いでしまいたくなるような場所に長い間を晒したくない。彼たっての希望という今回が特殊なだけだ。
 第一、あまり格好いい彼の姿を他人の目に晒したくない。彼を独占するのはぼくとセブルスだけでいい。
「ルーピン? どうかしたのか」
 無意識に力が入っていた手に気付かれて、なんでもないと嘘を吐く。敏いはそれが触れて欲しくない事だと判ってくれみたいで、興味が失せたようなふりをして控え目に手を握ってくれた。
 あと何回、こうして触れ合えるのだろうと考えると、それが伝わったかのように強く手を握られる。澄んだ黒の瞳が慈しむようにぼくを見上げていた。
「久し振りに、空を飛んだ。ああいうのも、いいな」
「そうなの?」
 てっきり空を飛ぶ事は得意でも好んではいないと思っていたからそう問いかけると、は緩やかな表情のまま口を開き、まだ小さい頃は、とそこまで言いかけて顔を強張らせる。
 足を止めて、まるで何かに恐怖するかのように目を見開いて、そうじゃない、と掠れた声がようやく聞こえた。
 頭を抱えるように耳を塞ぎ終には泣き出してしまった彼を抱き締めて、どうかしたのか、何かあったのか、そう尋ねても首を振るだけで言葉を発しない。噛み締められた歯の隙間から嗚咽が洩れるばかりだ。
 彼がこんな唐突に泣き出すなんて事は今まで無かった。独自のロジックに基づいた感情が出てくる事はあったけれど今回はそれではない。勿論、別の何かが原因なのは判る、というよりも、それくらいしか判らない。
 いつもは、どこが痛いか、何が悲しいか、辛いか、言ってくれるのに。
、一度城まで帰ろう。どこかの部屋でお茶飲んで、まずは温まろう」
 ぼくが言葉に出来ないくらい辛さを溜め込んでいるとき、多分彼ならこうするだろうと思って、手袋と帽子越しに頭を撫でる。視線が丁度合うように腰を屈めて笑いかけると、真っ赤になった顔では頷いた。
 手袋を外して頬を拭えば冷たい涙が指に張り付いてくる。このままだと、彼が枯れながら凍ってしまうようにも思えた。連れて歩く為に抱き寄せた肩は冷たく、震えていた。
「……居たのに」
「居た?」
 降る雪にすら掻き消されてしまいそうな小さな呟きを拾い上げると、はまたボロボロと涙を流しながら続ける。
「待って、くれて居たのに」
 誰が、あるいは何がとは言わずに、は迷子のような表情でぼくを見上げてきた。自分を待っていた存在を探して欲しいと、内側に踏み込めと濡れた黒の視線が訴えてくる。
 けれどこんな場所で長い間問答をすればぼくもも揃って風邪をひいてしまう。一度城に帰って、それからでいいかと訊ねようかと提案する前に、さっきと同じ白い影がぼく等の傍に寄ってきた。
「矢張り不安定になっておるな」
「あ、校長……」
 その一言でぼくの影に誰が居るのか知ったは天敵を察知した動物のように固まる。たださっきとは違い、殺気は放たれず何かに怯えるように身を竦ませていた。今の彼は普通ではない。だから、誰かと勘違いしているのだろうか。
「リーマス、済まぬが少々外してはくれないか。何、少し二人で話をするだけじゃ」
「それは……、どうしたの?」
「アレは駄目。近寄っては駄目、善くないものだ」
、わしが判らんのか」
「違う、そうじゃない。そうじゃない!」
 ダンブルドアを通して何かを見ているのか、それとも本人を恐れているのかは判らないけれど、は怯えた様子で目の前の人間をアレと呼び、駄目なのだとしきりに繰り返しぼくの袖を掴んで強く引き寄せた。普段からダンブルドアを嫌ってはいるけれど、今の彼は異常だ。
 ふいに掴まれていた袖に体重がかかり、何事かと見下ろすとが真っ青な顔で雪の中に膝をついて息を荒げていた。そうだ、そもそも彼は連日の事でまともに睡眠も取れていない状態だったのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。
 早くどこかで休ませてあげないと、けれど目の前にはダンブルドアがいる。これが他の誰かだったら悩むことなく相談して治療してもらえるけれど、ここまで怯える彼を渡すなんて事は、出来ない。
「仕方がないの」
 渡す事を渋るぼくと、決してそちらに行こうとしないを見て、ダンブルドアは困ったような笑みを浮かべ杖を一振りした。聞いた事もない呪文、途端に静かになる
何があったのか理解できずにいると相変わらず穏やかな口調でダンブルドアが眠らせただけじゃ、と告げる。
「この子が起きてまだ、お主がおかしいと思うようであれば連れてきてくれんかの」
「はい。あの……ありがとう、ございました」
「何、それがこの子の為じゃ。頼んだぞ、リーマス」
 それだけ言うと、ダンブルドアは城の入り口とは違う方へと姿を消していった。一応に触れてどこかおかしい事はないかと調べてみるけれど、本当に眠っているだけで、特に何かが変わったという印象はない。それに、もしも後で体に妙な変化が起きれば、彼は自力で解決してしまうだろう。
 兎に角今は部屋でを温めるべきだと判断して城の入り口まで彼をおぶっていく。防寒具を着ているとはいえとても軽い体は、ぼくでも十分運べるものだったのは幸いだった。
 本当ならば何処でもいいからすぐにでも横になれる場所で寝かせてやりたかったけれど、生憎ぼくが知っている彼の安らげる場所はまだダンボールが大半を占めているあの部屋くらいしか思い付かず、人目を避けてそこまで辿り付いた頃にはぼくも、恐らく背中のも冷え切っていた。
 幸い、彼が前もって色々な魔法をかけておいたお陰で部屋自体はとても暖かく、暖炉の前で凍えながら火が熾るのを待つ必要はない。すぐに防寒具を脱がせてベッドに寝かせると、眠りそのものは浅いのか眉間に皺を寄せて低く唸る。
 小さな体に毛布をかけ、震えが収まっている事を確認してぼくもコートを脱いだ。体の表面はまだ冷たかったから、何か飲み物をと思い、蜂蜜の入ったホットミルクをマグカップ二つ分作る。少し可哀想だけれど、今の内に起こして温かいものを飲んだ方がいいと、そう思った。
、起きて。ホットミルク作ったんだ」
 耳元に小声で話しかけると、それだけでは気だるそうに目を開いてくれた。ごめんね、と謝ると体を起こして不思議そうな顔をされる。
「部屋?」
「説明は後。これ、飲んで」
 マグカップにたっぷり入ったホットミルクを受け取ってくれたは、蜂蜜が入っているのかと嬉しそうに表情を緩めてくれた。一口飲んで甘い、と呟くけれど笑った顔は崩れない。
「美味い」
「ミルクに蜂蜜入れて温めただけだよ。君の料理の足元にも及ばない」
「そんな事はない」
 白い液体が黒い瞳をうっすらと映してゆらゆら揺れた。全部飲んでねと言えば無言で笑みを深くして、血色のよくなった唇が窄まってカップの上を漂っている湯気を払う。
 それからぼく等はしばらくの間、無言で窓の外や壁掛け時計、それにお互いを眺めながら甘いミルクを飲んでいた。お喋りなんてしていないのにいつもの倍以上の時間をかけて飲み干すと、再びをベッドの住人にさせてぼくは空のカップを下げようとする。その背中を彼は呼び止めた。
「さっきは、みっともない姿を見せたな」
「みっともなくないよ、ちょっと驚いたりはしたけど。何か不安な事でもあった?」
「それが、よく思い出せない」
「だったら、その方がいいかもしれないね」
 またあんな風になったら心配だから、そう言うと、何でああなったかも判らないと笑われる。気にはなったけれど、彼が忘れている事を態々掘り返す必要も感じられなかったから、この話題はそこで終わった。
 もしかしたらダンブルドアが何かしたのかもしれない。何か、が一体何なのかは想像が付かないけれど。
「それも言う必要はないか」
「ルーピン? 何か、言ったか?」
「独り言。ほら、。君は今度こそちゃんと寝るんだよ、じゃないとセブルスに二人揃ってお説教だ」
 カップよりもを優先させようと決めたぼくはもう一度彼の傍に寄って、夜色の髪を手櫛で梳いた。それが気持ちいいみたいで、髪と同じ色の瞳が幸せそうな猫のように細められる。
 猫、そうだ、そろそろ猫の事も本格的に探さなければいけない。でも、それはもう少しだけ後でもいいだろう。せめて、彼の睡眠欲が満たされるまでは。
「ルーピン?」
「大丈夫、傍にいるよ。次に君が目覚めるまで」
「う、ん。でも……わすれている、ような、なにか。たい、せつな……」
 それっきり何も紡がなくなった唇は薄く開かれたまま動かなくなり、夢の国に入った事を知らせるように体全体の筋肉が弛緩していく。ゆっくりと上下し出す肩から落ちた毛布を掛け直していると、力なく閉じられた瞳から一筋雫が零れ落ちた。
 頬を伝った雫を指で拭い濡れた指先に唇を寄せるとそれは酷く塩辛い味がした。けれど、その理由をぼくが知る術は何処にもない。