曖昧トルマリン

graytourmaline

貴方という人

 額から流れる汗を拭い視線を上げると、まだ薄い青の色を保っている空の向こうに大きな夏の雲が見えた。
 遠くでも近くでも蝉が忙しなく鳴き続け、じっとりと纏わりつくような暑さに拍車をかけている。気分転換に水際で散歩をしようかと座敷から出ると、どこからともなく座敷童子が現れて隣にぴったりとくっついて歩き出した、護衛のつもりなのだろう。手を伸ばして髪を撫でれば茶色の瞳が喜色を帯び、その表情に癒される。
 がイギリスから帰国して、3日が過ぎた。
 慣れた環境に戻った事もあるかもしれないが彼の国に居た頃よりは精神も幾分か落ち着きを取り戻したと感じていた、崩れた過去を腑分けしては埋める事にも慣れ始めていた。何てことはない、自分の過去は0以前から10まで屋敷の妖怪達に訊けばよかった。彼等は真実を隠すが嘘を吐かない、言いたくない事は言いたくないと告げるし秘密は秘密のままにしておく。
 過去の事を尋ねた時もそうだった。今だから言えるが、知ってはいた、しかし言いたくはなかった。だって、過去の事を話したらお前はまた外に行ってしまうだろう。誰もが口を揃えてそう言ったし、確かにそうだと思った。
「こういう風に、縛られたかったのに」
 風邪でも引いたのか、真夏の暑さで脳が茹だったのか、頭の中がぼんやりとするとは思った、3日目にして集中力が切れたのかもしれないとも。ぽつりと漏らした独白が気になったのか座敷童子の視線が口唇へ向かう。澄んだ茶色の瞳に映った自分の姿は相変わらず窶れて見えて幽鬼のようだった。
 庭を出てしばらく歩き、水を求めて森の中を歩く。夏の空気が乾燥している筈もないないのに咽喉から乾いた血の匂いがして、パリパリと引っ付くような感覚を覚えた。
 屋敷から大分離れて来た所為もあり家付きの妖怪である座敷童子は何時の間にか消えている。水の掠れる音が近いが妖怪達の気配は無く、誰にも会いたくないという本心を見透かされ気遣われた事を知った。
 噎せ返るような緑の中を抜けるとひやりとした空気が肌を撫でた。立ち止まり深呼吸をすれば肺に水が溜まる錯覚を覚え息苦しさを感じる。碧色の水は時折白い飛沫を上げて渦を作り、体の芯を揺さぶるような音を上げていた。
 下駄を脱ぎ綺麗に揃えてから音のする方向へ一歩一歩近寄ると水がぶつかり合う振動をすぐ傍で感じる事が出来る。足裏、踝、脹脛、膝、太腿と冷えた水の温度を確かめながら進んでいると、ふと周囲の気配がざわついた。普段のならば一度丘に上がりその正体を突き止めるはずだが、思考の鈍った彼の脳は気にする必要もないからそのまま動けと信号を両脚へ送る。
 股下、腰、胸、と全身の半分以上が透明な碧に染まり、血液の温度も下がってきたような気になったのか瞼がゆっくりと下がった。
! 何をしているんだ!?』
 水の音に雑音が混じり、下げたばかりの瞼を上げて振り返ると見覚えのある顔が自分の名前を呼んでいる事には気付いた。よく聞けば声も聞き覚えがある。
「……ああ、リドル? よく入って来れたね、屋敷の皆凄く怒ってたでしょう。前みたいに、意地悪とかされなかった?」
 肉体を持たない体だからだろうか、水の抵抗など受けないリドルが文字通り飛んできてに杖を向ける。同時に細い体は水の中から引き摺り出され浅い河辺に打ち上げられた。
 受け身を取れなかった所為で背中を打ち息が詰まり呼吸が出来なくなったが、水が緩衝となったのかそれ程痛みは長引かなかった。呼吸をしない方が楽な事に気付き、石を枕にしてぼんやりと虚空を眺めたままで居ると頭上から息をしろという叱咤が叩き付けられる。
 息とはどうやってするのだろうかと考え試しに息を吐いてみると少し体が楽になったが、逆に息を吸うと咽喉のあたりに違和感を覚えた。パリパリに乾いている。
「咽喉が、乾いたんだ。水を飲もうと思って」
『ならば、ちゃんとした手順で飲んでくれ』
 河になど浸かるなと言われ、ここで初めては自分の行動が可怪しかった事に気付いた。別に屋敷を出なくても、台所まで行き、コップを持って、蛇口を捻り、注がれた水を飲むだけでよかったのだと。
『死ぬ気、だったのか』
 傍らに膝を付いたリドルに問われて脳の中で自分の行動を反芻したは、やがてゆっくりと首肯した。もうすぐ自分の世界は閉じるのだから、生きていても死んでいても同じだと思ったからだ。
 居心地のいい棺の中で眠る自分を夢想してゆるりと笑うと、何故かリドルが泣きだした。慟哭に混ぜられた謝罪の言葉が鼓膜の上を滑り、異国語のように聞こえた。否、事実リドルの言葉はにとって異国語なのだ。幾ら母国語を喋っても彼には通じない事を何十年越しかに気付いたが、だからと言ってどうという事はなかった。酒を飲んだわけでも、頭を打った訳でもないのに思考が酩酊する。体温が低いからだろうか、眠いと感じた。
 再び瞼を落とすと子守唄のような叫び声が辺りに響く。
『頼む、生きてくれ。生きて、私の傍に』
 ありきたりな謝罪の中に混ぜられた言葉を耳が拾い、口元に笑みが浮かんだ。
「貴方からも、おれを逃して欲しいんだ。生きても死んでも逢わないのなら、同じだから」
『逢わない? どういう事だ』
「この辺り一帯を、この世界から隔離するんだ。もう、誰とも逢わないで済むように。傷付けられるのには、もう飽きたんだ……リドルとは、逢っちゃったけど。ああ、でも、最後に会ったのがダンブルドアにならないのは、よかったのかな。我儘だけど、どうせなら、最後に別れを言うのは、愛した人がいい」
 もう一度リドルの姿を見たくなったのか、は瞼を上げてリドルの顔を見る。迷子の子供みたいな顔だと囁くと、そんな気分だと返された。
『私を……』
 囁かれようとした言葉はしかしには届かずに跡形もなく消え失せる。黒い羽音が突風と共に現れ、朧気だったリドルの輪郭ごと吹き飛ばしたようだった。
 河の流れが乱れる程の風は態とそう起こしたとしか思えない乱雑さで周囲の空気を掻き乱し、森の木々すら激しく揺さぶっている。
 上空から風に混じって、5つの気配と母国語の声がした。
『あの莫迦男、のこのこと屋敷に顔を出して。復縁でも申し込まれたのか』
「ええ、まあ、そんな所ですよ八咫烏様。それより、背中に何か乗っているように感じますが、連れて来てしまったんですか。帰国が遅れたのは、その所為で?」
『あまりにしつこいのでな、から適当な事を言ってくれ』
 仰向けのまま黒い羽音が近寄るのを見つめ、またゆっくりと瞼を下ろす。風と水の音に混じり、また雑音が聞こえる。それに、石を踏んで駆ける足音。
 名前を呼ばれた気がしたが目を開けるのが億劫でゆっくりと息を吐く。空っぽの臓腑の上にある皮膚に最初に触れたのは予想に反して子供の手のひらだった。
「置いて行かないで!」
 大人達の声に混ざっているはずなのに、それだけは妙にはっきりと聞き取れた。
「ハリー?」
「お願い、置いて行かないで。独りにしないで」
 泣きそうな声で訴えられたのは、さっきまでそこに居たリドルの言葉の続きだった。それ以外にありえない、独りにしないでなど、ハリーが紡ぐ言葉ではない。
 ハリーは、リドルを内包しているのか。
 突飛な考えだったが、の胸の内にストンと落ちた。そうであるのならば、初対面の時に必要以上に無愛想にならなかったのも、共に過ごすようになって甘やかすように接したのも、リドルと無理矢理引き離された後に狂った心が凪ぎいだのも、理解出来た。
 目を開ける。何時の間にか思考が正常さを取り戻して行った。雑音が声になり、脳が言葉を繋ぎ合わせ始める。
 体を起こし、今自分に触れている人間を確認する。ハリー・ポッター、リーマス・ルーピン、セブルス・スネイプ、シリウス・ブラック。目の前に居る4人の人間を、脳がきちんと認識した。
『死ぬのは止めたか』
 少し遠くの方で人間同士の戯れを眺めていた八咫烏が、今度は異国語で語りかけてきた。咎めるような口調ではないが、どこか少し寂しそうではあった。
 また往くのかと、黒い羽に埋もれた瞳が語りかける。
『また、裏切られに往くのか』
「それ以上に、裏切っていますし、裏切りますから」
 相変わらず咽喉は乾燥していて、こほりと咳をすると八咫烏は少しの間沈黙し、やがて何か納得したような表情で飛び立った。
『あまり、向こうには居付くな。ちゃんと、還って来るように』
「ええ、判っています」
 来た時とは違い、風に乗るように消えて行った八咫烏を見送ると、体を抑えこむようにして触れている人間達に向き合った。死ぬなとか、裏切ってなんかないだとか、遠くに行くなとか、お前は悪くないだとか、好き勝手に言っている。
「お前たちは、おれを、許せるのか」
「お前は何も悪くないだろう!?」
 中でも一番喧しかったシリウスが真っ先に反論し、残りの3人が、信じられない事に犬猿の仲であるスネイプすらも、その言葉に同意してみせた。
「君は何時だって、一人で走って行ってしまうんだから、今度からは私達を頼って欲しい」
 リーマスの言葉にシリウスが全力で同意するが、お前は何もしない方がの為だとスネイプから茶々が入る。ハリーは肯定も否定もし辛いのか困ったように笑っている。
「……お前は、裏切っていなどいない」
 シリウスから視線を離したスネイプが、どこか暗い瞳でそう言う。その瞳が、ハリーを見た。
、まだやり直せるよ。一緒に行こう?」
 小さな手のひらが差し伸べられた。
 その手を、取る。
「確かに、置いて行かれるのは嫌だな」
 ならば、もう少しだけ生きてみようか。
 穏やかな顔で呟かれた台詞は、水と風の合間を縫って夏の中に溶けて消えた。