曖昧トルマリン

graytourmaline

蝉の死骸

 廊下を熱い風が抜け、カタンカタンと障子や襖が鳴る。
 す、と現れては消えていく座敷童の影。どこからか聞こえてくるクスクスという笑い声。ひたすら嘆き続ける蝉の鳴く声。
 その中でなぜか、涼しい風がシリウスの頬を撫でた。
「あ、れ?」
「どうした?」
「なんか、風が涼しかった」
 頬に触れた風はほんの一瞬だったが、心地いい冷たさを纏いシリウスを撫でた。
 は頷いてシリウスを手招きする。
 ひやり、とした石造りの空間。
「台所……キッチンだ」
「え? これが、キッチン?」
 目の前の土間には丈夫そうな土で出来た古い窯がデンと据わっていて、フライパンやヤカンのような物から、見たこともないような調理器具までそろえられている。
 そこに流れる空気はとても涼しく、とても快適な空間にシリウスは思えた。
「言っておくがここで勉強などしようものなら釜戸の熱い空気が流れ込んで今よりももっと酷い目に遭うからな」
「……」
 シリウスの心を見透かしたようなの言葉に、残念そうに肩を落とす。
『そう、本当暑いからね。なんでだろう、家の作りを間違えたのかもしれないね』
「……え?」
 いきなり聞こえた背後の声。
 聞き覚えは全くない。それどころか、声はあるのに未だ気配もない。
 ゆっくりと振り返ってみると、そこにいたのは二十代前半に見える青年の幽霊。
 会ったことはないはずなのに、どこかで見た顔だ。
『ただいま帰りましたよ、さん』
「お久し振りです、お祖父様は相変わらずのようですね」
『もう死んでいるからね、そう簡単には変わらないかな。それよりも、さんが元気そうで何よりだよ』
「……え? な……えええええぇぇぇっ?!」
 驚く事なくシリウスを挟んで対話する幽霊と
 どうやらこの幽霊。の祖父らしい。確かに面影がある。
『この子は、さんの学友かな? 随分と綺麗な子だね、何処の国かな、矢張り英吉利の子かな?』
「お祖父様」
『ああ、いや済まないね。さんが友人を連れてくるなんて初めてだから、つい嬉しくて。失礼しました。はじめまして、さんの祖父です』
「あ、こちらこそ初めまして。シリウス・ブラックです」
 シリウスが気に入ったのか、の祖父はニコリと笑い二人を交互に眺めてからうんうんと頷いた。
『ああ、そうだ。ところでさん、私の奥さんは、もう墓所へ行ってしまったのかな』
「なっ……あ、当たり前です!」
 会っていないのかと詰め寄る孫の頭を撫でながら、祖父はふわりふわりと笑う。
『そうだったんだね。今年は、屋敷の雰囲気が違うと思ったから、もしやと思って此方に来てみたんだけれどね』
「そんな悠長に構えていらっしゃらないで下さい!」
さんこそ、そんなに必死になって、本当にお祖母さんが好きなんだね。何なら一緒に行こうか、お祖父ちゃんと手でも繋いで、ね?』
「……お気持ち、だけで。私も後でお伺い致しますので、その時にでも」
『そう。なら、孫の気遣いを素直に受け取って、夫婦水入らずと行こうかな』
 穏やかな口調で、自分と同じような綺麗な黒髪を愛しげに撫でてから、年若く見えるの祖父はふわりと宙に浮いた。
『それじゃあ、ぶらっくさん。何もない所だけれど、ゆっくりして行って下さいね』
 やんわりと微笑むの祖父は軽く頭を下げてふっと煙のように消えていった。
 前髪を撫でる涼しい風にシリウスは少しだけ目を細め、隣にいる少年を横目で見る。
「なあ、。お前の祖父さんって……」
「父が、生まれる前に死んだらしい。この国じゃ霊は盆になれば帰って来れるから、おれはあまり実感ないが」
 長い髪を手櫛で撫で一度だけ空を仰ぐ。
「お祖母様は、そんな中でこの家を護って来たんだ」
?」
「誰にも見つからないまま……長い時間をかけて、蝉は死ぬんだ」
 緩く微笑んだの横顔が、何故か酷く辛そうだった。
 日の当たる外へ目をやると、一匹の蝉が死んでいた。