花橘
懐かしい名だった。
今はもう誰も呼びはしない、嫌悪する昔の名前。
『ねえ、リドル』
笑いながら柔らかいトーンで紡がれる言葉。
誰だ、私の名を呼ぶのは……。
『……大好きだよ、リドル』
名前を呼び、振り返る。風に揺れる黒髪。
表情豊かだった、見上げてくる大きな瞳。
いつも優しい言葉と、時折心の寂しい部分を曝け出す、嘘を吐かない唇。
ああ、彼は……
「」
無意識にそう呟いて、ヴォルデモートはその自分の言葉で浅い眠りから目を覚ました。
紅い瞳がまだはっきりしない意識で部屋を見渡す。
それは、あまり日の差し込まない執務室。年代物のデスクの上には羊皮紙の書類がいくつか散らばっていて、冷めた紅茶が手元に置いてある。
こんな所にあの少年が存在するはずない。
「……」
珍しく自嘲したヴォルデモートは、手元の羊皮紙を一枚取り、文字の羅列を辿っていった。
それは今現在、ホグワーツ魔法学校に在籍する一人の少年に関しての報告書。
一月前と変わり栄えのしない内容に自責の念に駆られる。
良かれと思ってそうした訳ではない。それでもに対する感情はこれからすべき事への大きな障害となっていた。だから、全てが成就されるまで、そう自身に言い聞かせ、少年の持つ自身に関する全ての記憶を封印したのだ。
その結果がこれだ。
彼は変わった。滅多に笑う事がなくなり、周囲の誰からも真の意味で愛されなくなった。誰も愛さなくなってしまった。押し隠す事が出来なくなるほど不安と疑心が膨れ上がり、手負いの獣のように近付く者全てに威嚇をする。
それでも、まるで幻影を追うかの如く唯一の血の繋がらない肉親へ伸ばされた、この色のない世界から救いを求める手。
けれどそれはあっけなく振り払われた。それも、一度ではなく、何度も、何十度も。その度には泣いて、静かに慟哭し、それでもまだ、未だ諦めずにいる。
考えが甘かった。何故最初に気付けなかった。自分は昔からあの男を知っていたはずだ。師から再三忠告を受けたはずだ。
アルバス・ダンブルドアは・を愛していない。
そこまでを取り巻く人間たちが許せないのか。そこまでトム・リドルが許せないのか。
生みの親に見離され、育ての親に捨てられたも同然の孫を、それでも愛せないというのか。彼自身に咎は一つもないというのに、無関心を貫き通すというのか。
愛していないと言われないからこそ、見てもらいないからこそ、彼は僅かな希望を持ってしまい、傷に傷を重ねるというのに。一言言えば、その時こそ大きな傷を作るが、彼はやがて傷を癒して新しい道を見つける可能性を大いに持っているというのに。
慢心していた。この子ならば誰からも愛されるだろうと、離別の間際まで自分に優しかった彼に対して。いや、もしかしたらその逆で、彼は本当に言葉通り『リドルだけ』を愛していないのかもしれない。
にとって『リドル』とは全てだったのだろうか。リドルを封印することで、それと同義であった行為全てが彼の奥深くに眠ってしまったのだろうか。封印を解除するまでこれは続いてしまうのだろうか。
答えの用意されていない問いを振り払うように、大きく深いため息をつく。
早く、一刻も早く、誰かあの子供を愛して欲しいと嘆いて、次の瞬間に胸の奥がチリチリと焦げるような痛みを感じた。
誰かに愛されて欲しいのに、彼が自分以外の誰かが愛することに嫉妬を覚える、そんな矛盾する感情。
元凶は自分であるはずなのに、それを認めてしまえば潰れてしまいそうだった。
それでも、まだ潰されるわけにはいかない。
既に状況は誰も止まる事の出来ない位置まで来ている。ただ一つ以外の勢力が衰え、何が一番強いのかが証明される日まで、誰も歩みをとめる事など出来ない。
いずれその流れに飲み込まれるであろうはどの道を選択するのだろうか。それとも、まったく新しい道を切り開くのだろうか。
そこまで考え、ドアをノックする音に思考が弾ける。
羊皮紙を引き棚の中にしまい、無能な部下に舌打ちをしながら視線を外に向ける。
その日は、イギリスでは珍しく快晴の日だったらしい。窓際に咲く白い花に手を伸ばして手折ると、カサカサと緑色の葉が鳴いた。
「……ああ、もうあの日から一年経ったのか」
それは、リドルが少年を捨てる事を決めた日。
あの日の空は、今よりもずっと澄んでいて、その下で大輪の真紅の花が溢れんばかりに咲いていた。
「……どうか笑っておくれ」
両の手のひら程もある花の隙間から顔出して笑っていた一年前の君。
真っすぐと前を見て、自分の意思を貫くと、強くなると誓った君。
「どうかあの時のように、笑っておくれ」
一度きりでも構わない。けれど願わくば何度も、それこそ呆れて苦笑してしまう程。
「昔のように、笑っておくれ」