繋がぬ駒
普段なら深夜に目を覚ますはずなんてないのに、彼は目覚めた。
部屋には、誰もない。
「私、なんで、寝てたんだろう……」
眠った記憶なんてないのに、とゆっくりと頭を振る。
何故か、目元が痛かったし、体が大分疲れていた。お腹も空いていた。
呼吸をすると胸が苦しい。大きく息を吸うと、それでも少しは落ち着いた。
「ホグワーツから入学許可証が届いて……それで」
その後の記憶が、一切ない。
祖母は朝まで帰らないのは知っている。それで家の仕事をして、ホグワーツから入学許可証が届いて、それで、どうしたというんだ?
乱れた髪を結いなおして、庭へ出る。
夜風は生ぬるくて、いよいよ夏が来たという感じがした。
「しばらく、皆とはお別れか」
十年間親しくしてきた友たちとの別れにの言葉が哀愁を帯びる。
一人で外へ出て行かなければならない不安に、今から押しつぶされそうだった。人間と上手く付き合っていけるだろうかと、心配だった。
「……行きたくないな、学校なんて。どうせ、ここに戻ってこなきゃいけないのに」
友達は、できるのだろうか。
もしもできれば、これから七年の生活は一生の中で一番楽しい時間になるだろう。けれど、その先の一生がきっととても辛いものにもなる。
できなければ、これからの七年を一人で過ごす代わりに、家に帰ってきても孤独に悩むことも苦しむこともなくなるだろう。死ぬまで。
「行きたくないな」
は、そのどちらも嫌だった。出来ることなら、一生何も知らずにこの家で過ごして、本当に自分の存在を誰も知らない孤独のうちに死にたかった。
その方が、気が楽だから。
「何で選ばせてくれないんだろう。学校で習う事なんて、もう全部終わってるのに」
行く必要なんて、ないのに。
そう小さく、呟いた。
「行きたくない」
人間が恐い、だから、近づきたくない。このままでいい。
人間に対する恐怖と激しい拒絶が、に涙を流させる。袖で目元を拭うと火傷したように熱く、ピリピリと刺すような痛みを感じた。
「それでも、貴方は行かなければなりません」
「……お祖母様?」
背後からかけられた声に、慌てて振り向く。
早朝に家に着くはずの祖母は、何故か目の前に居た。
「決められたことに不平を漏らして泣くのは止めなさい」
「……はい」
「人間が嫌ならば、それに打ち負けないよう心身ともに強く在りなさい。誰の助けも必要とせず生きていけるくらい、もしくは、恐怖と絶望と孤独に耐えうるだけの力をつけなさい。それが、貴方が学校へ行く理由です。人とどう通うかは貴方の自由ですが、今のように見ていて不快なほど弱いまま卒業したら承知しませんよ」
「はい」
涙を飲み、嗚咽を抑え、震える声で返事をする。
拳を握る手の平から、血が流れた。
「……さん」
「はい」
厳しかった祖母の言葉が、少しだけ柔らくなった気がした。
潤んだ瞳で彼女を見上げると、辛そうな顔をした女性が立っている。そんな顔をしないで、と心の中でだけ呟いた。
「種を、上げましょう」
「種ですか?」
零れてきた涙を痛みに耐えて拭い、黒い瞳が真っすぐと闇夜に立つ女性を見上げる。
息だけが、荒かった。
「きっと、絶望という花が咲く種」
「……」
一度目を伏せて、また上げる。
もう、泣いてはいなかった。
「貴方のもう一人の祖父、アルバス・ダンブルドアは今度入学するホグワーツの校長よ」
「その人は、確か」
「ええ、思っている通り。貴方とは唯一血の繋がっていない男、貴方を家族として受け入れる事のできる最後の可能性を秘めている男。そして、私と貴方の両親が嫌っている男」
「……」
「判断は貴方に任せるわ、縋るも捨てるも自由になさい」
「……はい」
重々しく頷いて、そしては笑った。
祖母の表情が暗がりで動く。
「明日も早いでしょう、早くお休みなさい」
「はい、おやすみなさい……おばあちゃん」
「……」
そう言い残し、彼女の孫は屋敷へと戻っていった。
星明りの下に一人残された女性は、肩の力を抜いて西の空を眺める。
「リドル、貴方は馬鹿ね……大馬鹿者よ」
孫に告げた時間よりも早く家に帰ってきたのは、二人の様子が気になったから。
ただ、それだけだった。
「きっと何年も経たずに後悔するでしょうね。今の比では位に」
どうせ今頃自分のしでかした行動を悶々と悩みつつも自己暗示をかけて頑張って奮闘しているのだろう。全く馬鹿な上に微笑ましい。そのうち、からかいに行こうとすら思ってしまう。
再び二人が出会ったときにどちらかが壊れないといいんだけど、と呟いて夜空に精一杯背伸びをした。生ぬるい風がそよぐ。
勢いよく振り下ろした手を腰に据え、仁王立ちのまま空を見上げ続ける。
深呼吸をして、明かりの消えた孫の部屋を見る。
先ほどの彼の表情を思い出す。
「さあ、あとは貴方があの子の全てを裏切れば舞台は完成するわ。アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア」
風が止んだ。夜が更ける。彼女は愉快そうに笑った。
「その為なら、私は孫を絶望の淵に佇ませる事すら厭わない。あの子は人より多く迷いながら、それでもいつかは希望を見つけ、その意思を貫くわ。絶対にね」
踵を返す。
彼女は夜空に高々と宣言した。
「だってあの子は、私の血を継いでいるんですもの」