曖昧トルマリン

graytourmaline

影法師

 夏の日差しが傾き、時刻は既に夕方だった。
 庭の石畳を下駄で歩くと小気味のいい音が耳を突き、紅色の西の空が黒い長い影をぽつりと作り出している。
「みんな、かえっちゃったのかな?」
 今年でもう五歳になる幼子。
 友達は誰もいない。なんでも、あと五年もすると海と大陸の向こうにあるイギリスという国で学校に行くと聞いた。
 だから、この国に人間の友達はいない。必要ない。
 代わりではないけれど、家には沢山の妖怪がいて、彼らがみんな友達だった。
「……」
 名前を呼んでみようかと思ったが、それも止めた。
 今、彼らがこの場にいないのは、自分がそれほど強く彼らに会うのを望んでいないからだと思った。
 淋しくなんかない。
 独りで時を過ごすのはもう慣れた。
 しかし、
「坊や、この家の子かい?」
 人間の来訪は、全く慣れていなかった。
「……はい」
 後ろから音もなく現れたのは、大きな長い影法師。
 この国の言葉ではない言語は、母の祖国の言葉だとすぐにわかった。
「おばあちゃんに、ようがあるんですか?」
 自分に用がある人間なんて居やしないんだから、必然的に訪問者は祖母の知り合いなり友人なりだと思った。両親は、なんでも息子を放り出して旅をしているらしい。
 訪ねて来たのは背の高い男、それ以外は逆光でよくわからなかった。ただ、知らない国の服を着ていて、その服が真っ黒でボロボロだったのはわかる。
「いや……どうなのだろうな」
「……?」
「きみの名前は?」
ってゆーの」
 まだ舌足らずな自分の言葉に、彼は微笑んだように見えた。
「そうか……一人かい?」
「ちがうよ」
 そうは言ってみたものの、周囲には人っ子どころか妖怪の子一人いない。
 どう見たって独りだ。
「いまは、そうだけど」
 無性にその言葉が淋しく思えた。
 の言葉を聞いた男は身動ぎして、いつの間にか縁側に現れた祖母の姿をじっと見ていた。も祖母を見る。彼女はいつだって姿勢を伸ばして、柔和な笑みを浮かべている。
 今日も、それに変わりはない。
「おばあちゃん、おきゃくさま」
「ええ、知っていますよ。さん」
 掛けられた祖母の声はとても優しい。
「大丈夫よ、この人はわたしの知り合いですから。少し向こうで遊んでいらっしゃい」
「はあい」
 失礼にならないよう男に一度お辞儀をして、すぐにその場から走り去った。少し離れた場所で、二人のことが気になって木の間からそっと覗き見てみると、祖母は相変わらず笑っていて、けれど少し淋しそうだった。
 夕日の中で色鮮やかな和服を着た祖母と、真っ黒い服を着た客が並ぶと、客である男だけが目立って見える。日の光を背にしているせいなのか、余計に彼が暗く感じた。
 しかし、大人たちの会話は子供心をくすぐる事もなく、すぐに独り遊びを再会させた。
 とはいっても、大した物ではない。石畳の上に出来た木や草の影を踏まなければならない、そんな変なルールの元で飛び跳ねるだけだ。
 の頭は、すでに日が沈んだら今度は何をしようという事まで考えていた。
 しかしまた、大きく長い影が、音もなく後ろから現れたんだ。
「……?」
さん、その人はしばらくお家で暮らすことになりましたからね」
「はあい、よろしくおねがいします」
 祖母の言葉は絶対だったので、何の疑問もなく男が一緒に暮らすことを受け入れた。

「はい?」
「……」
「……?」
「一緒に、遊ぼうか」
 その言葉が、男の位置付けを両親以上のものにしたのは言うまでもない事だった。
 大人に相手されたのは、よく考えてみると、祖母以外でこれが初めてだったので、心から嬉しかった。
「何をして遊びたい?」
「かげふみおに! おにのひとがかげをふんで、ふまれたひとがおにになるの!」
 日は暮れかかっていて、もうすぐ影はなくなりそうだったけれど。は理由もなくただその遊びがしたかった。
「ふむときにはね、そのひとのおなまえをいうんだよ。ってゆーの」
「名前?」
「あなたのおなまえは?」
 男は少し困ったように祖母を見て、相変わらず微笑んでいる祖母は代わりに口を開く。
「リドルさんよ」
「りどサン?」
 舌足らずなは、どうしてもリドルが言えず困惑してしまっていた。さすがに癇癪は起こさなかったが、きちんと名前をいえない自分が嫌にもなっていた。
 リドルはというと、名前を言うのに悪戦苦闘しているを逆光の中で見ている。
「リド……リドー、むう。リドーさん」
「なんだい?」
「いつか、ぜったい、いえるよーになりますから。リドーさんでいいですか?」
 その言葉に、リドルは少し驚いたようだった。そして、の頭を撫でながらすぐにそれを承諾した。
 祖母はというと、日が沈んだら夕飯だから戻ってきなさいと言ってすぐに家の中に消えてしまった。先に風呂でも浴びるつもりなのだろう。
……」
「なんですか?」
「……いや、遊ぼうか」
「あそぶ!」
 目を輝かせ、思わず男に抱き付く。
 戸惑いがちに触れてきた大きな手からは、夕日と同じ赤い匂いがした。