clutch
夕べの大雨が嘘のような快晴、けれど濡れたアスファルトの匂いと道の隅の方でひっそりうずくまっている水溜まりで、それが本当だという事を知る。
薄い青が彼方まで広がる空模様を確認した続は自室の窓を開けてから階段を下りて洗面所経由で食堂に顔を出すと、普段は従姉妹が着ているヒヨコエプロンを拝借した、年端も行かない少年がおたまを持ったまま首だけを軽く振り向かせた。
「おはようございます、続兄さん」
「おはようございます、君」
鳥羽。鳥羽家の長男に生まれた末っ子で、姉の茉理同様、竜堂家の四兄弟とは深い付き合いをしており、従兄達の生活を世間一般水準並みに保つ事を趣味にしている中学2年生である。
余と同い年だが、彼の方が一ヶ月ほど誕生日が遅いので四兄弟は皆、彼に兄さんの敬称付きで呼ばれていた。
「その敬称は付けなくてもいいですよ。いつも言っているでしょう?」
「続兄さんだってぼくの事、君付けしているのに」
「ぼくはいいんです」
「じゃあ、ぼくだっていいじゃありませんか。余兄さんがもう起きていますから、続兄さんは続兄さんなんです」
ただ、次男の続だけは少し事情が違う。
「ぼくの事は気にしなくていいのに。おはよう続兄さん」
「おはようございます、余君。そういう事ですから、いいでしょう?」
「駄目なものは駄目なんです。余兄さん、顔にシーツの跡付いてますよ」
彼等はこう見えても恋愛関係にあった。
しかし、母親の生真面目さと姉の聡明さ、父親の神経質さまで引き継いで生まれてきたは、まだ中学生だというのに続と2人きりにならないと素直に甘えてこない。いや、常に素直ではあるのだ。ただ、その方向が続の希望と異なっているだけで。
これが一般的な中学生の恋愛感なのだろうかと事ある毎に続は考えてしまう癖が出来つつあるが、それでもまだ、明らかに違うと断言出来ている。大体、恋愛の仕方に大人も子供も関係ないはずだと。
「続兄さんも、もう一度洗面所に行った方がいいですよ。後ろ髪跳ねてます。もうすぐ朝ごはん出来ますから、あんまりのんびりしてしないでくださいね」
マイペースに語りかけるは鳥羽家の血に加えて天然も入っており、穏やかな口調で無邪気に微笑まれると惚れた弱みなのか続は洗面所へと逆戻りせざるを得なかった。哀れそうに見上げる末弟の視線がなかなか痛い。
「って、おっとりしてるけど頑固で真面目だよね。2人きりじゃないと絶対に続兄さんの事を呼び捨てにしないって言ってるみたい」
「みたいじゃなくて、言っているんですよ」
「……頑張ってね、続兄さん」
余にとっては双子の弟といっても過言ではないは、彼の目から見ても少しばかり癖のある人間だと思われた。尤も、竜堂家に連なる親類一同全てが個性の塊のような気もしなくもないが。
それでもしみじみと次兄に声をかけてしまうのは、彼が仲を取り持ったからなのかもしれない。きっと、協力してくれた茉理も胸中は同じようなものだろう。
「日々精進しているつもりですよ」
末弟からの応援を少し腹に据えかねた口調で返し、そのまま洗面所を出る。
続の反応がやたらがっついているように見えるが、先週まではテスト期間で兄の事など眼中になかったからな、と妙に納得してしまった余は、今日一日は自分の前から姿を消すだろう従弟を容易に想像出来てしまった。
それだけ、続の独占欲は強い。
「君、今日の予定は空いていますか?」
「洗い物と掃除と洗濯と、昼食と夕食の下拵えをした後なら」
末弟ですら理由まで見通せた続の心情を一切汲めないが真面目な表情で返す言葉に、朝食が終わったらですよと少々怒って言ってみる。
自分の事を鈍感だと思っているが改善はしないにしてみれば何故続が怒っているのかよくわからないが、茉理と自分がいない中で竜堂家の家事を放り出したら心配で出かけられないと更に返答した。
「それなら大丈夫だよ、茉理ちゃんが電話してくれた。9時過ぎには来てくれるって」
「余君」
「余兄さん」
「も、続兄さんを困らせたら駄目でしょ?」
めっ、と従兄に叱られても彼はまだ不思議そうに首を傾げていて、その始並みの鈍さに続は軽く溜め息を吐きたくなり、余は実際吐いた。
「あのね、最近テスト勉強ばっかりで続兄さんと一緒にいなかったでしょ」
「うん」
「分かってないね?」
「何がですか?」
「デートして欲しいって事ですよ」
横からはっきりとそう言われた後、ようやく言葉を理解したのかの顔は真っ赤に染まり双眸がおろおろと宙を漂う。たかがデートくらいで、とは思わないでもないが、茉理と一緒に出かけてもデートではないと頑なに言い張る始に比べれば初心で可愛いものだというのが次男と四男の共通認識でもあった。
そんな様子を完全に予想していた、というよりは、態とそう振る舞わせた事に満足したようで、機嫌が直った続が声を立てずに笑う。
「続兄さん!」
「何ですか君」
薄い茶色の、慄然とするような美しい瞳に微笑まれながら正面から見つめられ、何か文句のようなものを言いかけようとしたの口からは、結局言葉らしい言葉が出て来なくなってしまう。
「どうしたんですか」
腕を伸ばしての薄い肩を抱くと耳や首筋まで朱に染まった恋人の姿を見る事が出来た。それがまた恥ずかしいのか、は視線を逸らした上に目まで瞑って肩を震わせている。
望んだ反応が得られて上機嫌になった続だが、これ以上からかうと折角言い出せたデートも叶わなくなりそうなので、優しくの髪を撫でながらゆっくりとこちらを向かせた。
「ねえ、君。いいでしょう?」
「……はい」
「よかった」
夢見る王子様じみた極上の笑みが向けられ真っ赤になりながらも笑い返すが何よりも愛おしく思えて、そのまま抱き締めて触れるだけのキスを唇に落とす。
「キスするのも久し振りですよね」
2人きりなら擽ったそうにしながらも何でもないように返すキスも、余の前だからなのだろうか、少しぎこちない様子で柔らかい唇が白い頬に触れる。
そんな違いすらも愛しいと感じてしまう自分に、続は呆れたような、けれどどこか嬉しい気持ちに浸りながら、しばらくの体温と鼓動を感じていた。
「……茉理ちゃん、早く来てくれないかなあ」
そして2人の目の前では、積極的な兄と奥手の従弟が相思相愛なのは喜ばしいがそれはそれとして、と若干の現実逃避を行いながら、明後日の方向を向いて聞こえないよう二度目の溜息と共に呟いた末弟がいた。