曖昧トルマリン

graytourmaline

知らぬが花

 夕暮の色が町の軒端に沈みかけて空とも地ともつかない薄青い靄が往来の隅々へ忍び込み始めた頃、は悠然と橋の袂に立ち、ただ待っていた。
 その日の売り物は既に籠の中へ半ば伏せられている。白い花も赤い花も、昼の陽を吸い尽くして静かに口を閉じ、まるで眠る支度を整えているようであった。
 行き交う人々は絶える事がない。急ぐ者もあり、笑う者もあり、疲れた肩を落として家路を辿る者もある。しかしの目はその誰をも見てはいなかった。
 ただ、彼は待っていた。待つべきものを己が知っていたからこそ、待っていたのである。
 半刻前より、薬売りの匂いがふつりと途絶えていた。それも、唐突に。
 死んだとも違う、隠れたとも違う、ただ、何処かへ行ったのである。だが、その何処かが皆目見当も付かない。まるで一枚の絵から筆で描かれた人物だけが抜け落ちたように、その存在だけが世の綻びの向こうへ滑り落ちてしまったかのようであった。
 は薬売りを追わなかった。追えなかった、ではない、追わなかったのだ。
 人ならざるものには人ならざるものの勘があり、追うべきではない時というものを知っている。幾ら薬売りから木偶だ何だと言われても、彼は人知を超えた領分の存在であった。
 だから待った。いつもの、飼い主を待つ健気な犬のように。
 待てば、薬売りが帰るような気がしたのである。そして、その勘は外れなかった。
 知った香りに知らない臭いを混ぜて風に乗せ、橋の向こうから下駄の音が近付いて来る。
 いつも通りの、見慣れた姿であった。背負子を負い、抽斗の中に天秤を携え、誰とも知れない笑みを口元に宿している。
 町人たちはその男の傍らを何事もなく通り過ぎる。しかしだけは、その衣の裾からこの土地のものではない風の匂いと死の臭いの残り香が含まれている事を嗅ぎ当てた。
 死の香りとは、長い旅から戻った者が纏う埃とも違い、遠い異国の香とも違う。もっと曖昧で、もっと奇妙で、見知らぬ景色の影ばかりを集めて煎じたような臭いであった。
 だが、同時に幾千もの人間の大衆に似た匂いも混ざっている。そして、何故か二重に香る薬売りの香り。要は、自分の知らぬ間にそういう仕事があったのだなと、は回らない頭なりに考え、小さく目を細めた。
 橋の上の薬売りもまた、を認めたらしく歩みを緩めた。暮れ残る空の下で色鮮やかな視線が静かに交わる。
 風が吹き、籠の花びらが一枚だけ舞い上がり、両者の間を横切って落ちた。
 その時になって初めて、は口を開いた。出てくる声は穏やかそのものであった。
「何処ぞへ行っておいでだったようで」
「 さあて ね 」
 薬売りはそう言って笑った。しかし、笑ったといっても声を立てた訳ではない。唇の端が僅かに動いたばかりで、その笑みとても人好きのするものではなかった。何かを隠す者の笑みであり、また何も隠していない者の笑みでもある。
 橋の下を流れる水が、夕闇の中で鈍く光っている。昼の喧騒はまだ残っているものの、町は既に夜の支度へ入り始めていた。軒先には灯がともり、遠くでは鍋の蓋を開ける音がして夕餉の香りが漂う。
 人は皆、それぞれの帰る場所へ帰って往く。その流れから外れているのは、薬売りとの二人だけであった。
 は薬売りを見た。そして直ぐに、見定める事をやめた。元より、答えを得ようと思って尋ねた訳ではないのだ。問いというものは時に答えを求める為ではなく、相手の顔を見る為に発せられる事がある。今の問いもその類、ただそれだけの事であった。
 薬売りは動かず、顔色は変わらない。
 しかし変わらないということ自体が、少しばかり妙であった。
 長い年月を生きるものは知っている。何か大きな出来事を経た者ほど、それを語らぬ時には静かになるものだ。大雨の後の川が濁るように、人の心もまた何かを抱えれば揺らぐ。
 ところが薬売りは違い、まるで何事もなかったような顔をしている。だが何事もなかった者からは漂わない気配が、その身の周りに微かに残っていた。
 は元の山犬の姿の時のように鼻先に触れる風を嗅いだ。いつもの知った薬売りの芳香を薄く覆うように、見知らぬ香りがある。人の匂い、妖の匂い、土地の匂い、そして千弁蓮のように折り重なった『ハナ』の匂い。
 『ハナ』の正体は掴めない。例えるなら、閉じた襖の向こうから漏れてくる灯のようなものだった。確かにそこにある、しかし戸を開けない限り、その正体は知れない。
 もっとも、花売りには戸を開ける気がなかった。薬売りが此処に居るという事は、即ち既に事が終わった後なのだ。
 は夕闇の中に佇む薬売りに歩み寄り、肩を並べ、宿に帰ろうと無言で告げる。薬売りは答えず、ただ目を細める。
 それで話は終わった。
 終わったというより、初めから終わっていたのである。追及する者もなく、説明する者もない。それでいいと両者が納得している。
 風が二人の間を吹き抜けた。
「それよりも。興味深いウワサ話を耳にしましたよって」
 その一言で空気が変わり、薬売りの目だけがを見た。薔薇色の打掛の中を揺蕩う金糸と銀糸の刺繍が僅かな明かりを反射している。
 日は殆ど落ちており、川面には夜の色が広がり始めていた。
「山を越えた先の宿場町にある商家で御座いますが。どうにも妙な異変が起きていると」
 花売りはそこで言葉を切った。
 町の喧騒が遠く聞こえる。どこかで子供が笑い、どこかで犬が吠え、そうした平穏な音の向こう側に微かな歪みがある。人には聞こえない音が、には聞こえる。
 長く生きた者だけが知る、不吉の足音であった。
「『ハナ』にしては精々三分咲きといったところで。しかし『ハナ』であるには間違いないようでして」
「 そう ですか 」
 その声には、先程まで残っていた旅人の気配が既に消えていた。この地でモノノ怪を斬ると決めた薬売りの声に、はそれ以上の言葉を掛けない。
 どこへ行っていたのか、何を見てきたのか、何を成して帰って来たのか。それらは深い箱の中へ納められ、残ったのは薬売りだけであった。
 モノノ怪を追い、その形を探り、その真を暴き、その理を断つ者。
 は籠を持ち上げ、ふと空を見上げた。
 消えていた時の事は分からず、おそらくこれから先も語られないだろう。
 だが、それでよかった。語らぬ者には語らぬに足る理由があり、問わぬ者には問わぬに足る理由がある。
 夜風が吹き、花びらが一枚、闇へ流されて行った。
 花売りたるはその行方を追わず、ただ、眺める。
 帰るべき者は帰って来た。それだけで十分であった。