曖昧トルマリン

graytourmaline

水天模様

 元々、生き物が朽ちる腐臭をありったけの伽羅の香で覆い隠すような大井戸である事は分かっていた。人の手で造り上げた大層な城の屋根飾りの先に立ち、覗き込んだ大穴から立ち上る匂いに鼻が曲がりそうになったのは何十年前であったか、は自身の記憶が定かではないと自認した上で大凡百年程前だったかもしれないと判断を下す。
 の知識の中で井戸という存在、或いは道具、場所というのは人間が水を汲む為に誂えたもので何かを捨てる場ではなかった気がするのだが、しかし、それ以外はただそれだけの井戸でもあった。
 その井戸に、変化が見られた。
 御偉方の奥方が身籠り、やれ祭りの調整だ、ハレの日だ、祝いの品だ、献上品だと城下が活気付き、南蛮渡来の珍花奇草が飛ぶように売れながらもの表情は今にも雨粒を落としそうな雲の如く曇っていた。
 井戸の臭いが変わった。
 鳥居に囲われたその井戸の水は元から酷く臭い水だった。その臭いに『ハナ』、彼以外の者が呼ぶには『モノノ怪』の匂いが混じったのだ。
 それが原因なのかは判明しない。ただ、大いに湧き上がっていた城内外の活気は一気に消沈してしまった。数少ない活気の残る煮売茶屋で席を共にした呂律の回らぬ赤ら顔の塩売りが言うには、数日後に控えていた大餅曳なる祭りが延期されたからだと言う。はっきりした理由は不明だが、根も葉もない噂によると大奥に幽霊が出たらしい。
「おれらとしちゃあ、ありがたいがね。ゆーれいさまさまだ」
 祭りを行わないのなら献上品を返せとも言えない諸大名や庶民は再度商人達から品物を買わなければならない。富を持つ者ほど先日よりも上等な品をと注文を付け、貧している者は質を落として量を増やすのだそうだ。
 勤勉な者達は既に次の買付の為に方方を走り回っているらしい。一方で、熱燗を手に小鍋で仕立てたねぎまを摘む塩売りや、人肌の清酒と田楽の香ばしい匂いで曲がった鼻を治す花売りのような者も居る。
「所で。此度のモチヒキは水光院様が出産を前にケガレを落とす為に行うはずだったと伺っておりましたが。延期なぞをして次まで持つのでしょうか」
「しらねえよ。きょうぐらい、しごとのはなしはやめろ」
「あの腹の様子からすると精々ひと月。次のモチヒキまでどのくらいでしたか」
「うるせえな、つぎのおおもちひきまで、ふたつきだ。なあ、きぶんよくのませてくれ」
「ふた月。ふた月は長い。それじゃあ。間に合いませんよって」
 椅子を引く間に小皿に乗っていた田楽が消え、酒が干され、は唇の端を軽く舐める。立ち上がったを見上げた塩売りは、隣に座っていた男が美丈夫であった事実に今更気付いて酔いを冷まし、頬や鼻先を酒ではない別の事由で赤く染めながら口を開いた。
「なあ兄ちゃん、何処に行くんだ。暇ならこれから」
「『ハナ』を売りに。行く所存で」
 塩売りを眼中にすら入れず僅かに生花の残り香が染みる花籠を手にしたは店を出て、人混みの上を奔る突風に乗り人間の視界から姿を消す。
 歌舞いた薔薇色の打掛が黄金と紫に染まる夕空の中で花弁のように舞い、下駄が風の足場を蹴ると上へ上へとの日に灼かれたようにも見える色の体を打ち上げる。灰褐色の髪が乾いた音を立てて踊る合間を縫って聞こえた行李の音をの耳は捉えた。
 城下の外、関所と山河を超えた更に向こうの木賃宿まで空を跳び、旅籠が立ち並ぶ宿場町の外れに音もなく降り立つ。所々が崩れかけた壁に囲まれ隅の方では雑草が生い茂る庭は橙色の明かりよりも暗闇の方が多かったが、それでも自炊する旅人達の活気溢れる声が庭まで響いているからなのか陰鬱な気配はしなかった。
 その喧騒から離れた相部屋の一角から白い指が見え、扉を開ける。爪を色で染めた白く細く長い指は間違いなくが探し求めていた男のもので、しかし同時に凄まじい違和感が雷撃のように全身を駆け巡った。
 が『ハナ』を売る相手にして伴侶の薬売りと、すべてが少しずつ違う。立ち振舞い、背格好、衣装、化粧、髪、肌、目の色、匂い。
「おっとこれは、どちら様でしょうか」
 そして声と、言葉遣いと、抑揚、視線。
 明らかにを知らない態度で、を騙し誂っている様子も感じられない。天秤の音が微かに聞こえるあの行李、退魔の剣の気配、彼は間違いなく薬売りで、何かが化けている訳ではないのはでも分かる。薬売りは双子であったか、は知らない。
 そもそも自分は、薬売りの事を何も知らない。そう思い至ってしまった。
「成程、あっしではない六十四卦の知り合いのようだ」
 飼い主を間違えてしまった犬のような途方に暮れた表情を浮かべ言葉を発せないを見下ろした薬売りは庭まで降りるとは一歩引く。その様子を見て紫に彩られたの上唇が微笑を描いた。
「どうやら人ではない様子。しかし歌舞いた見てくれの割に、臆病な男だ……名は?」
「……。花売りのと。申します」
殿、察しの通り、あっしは薬売りだが、お前さんの知る薬売りではない」
 の知る薬売りは飄々としながらも腰を据え、ゆっくりと飛ぶ大きな蝶のように話す。彼も同じように勿体振った話し方をするものの、風に乗り、時には逆らうように切り裂いてでも飛ぶ鳥のような雰囲気を感じ取った。
 暗闇が迫りつつある中での打掛けの中の金糸と銀糸の刺繍が傘や井桁や鳥居の家紋に成っては消えを繰り返しながら勢いよく形を変えていき、その様子を物珍しげに眺めながら、薬売りは続けた。
「我等は六十四卦、モノノ怪を斬り祓い怪異を収める者。時の脅威に応じて同時に存在出来る者。あっしは陰陽八卦が一振り、坤の剣を携えし薬売り」
 本来在り得ない、同じ者が同時に二つ以上の場所に存在し得る者だと告白されの思考は停止する。しかしお前の知る薬売りは何だと視線で問われは首を横に振って返事としてから軽く口を開いてから閉じ、緩く唾を飲み込んでから声を出した。
「あっしは『ハナ』を。怪異の源たるモノノ怪の在り処をお知らせしております。あの御方で非ずともクスリウリ様が『ハナ』を斬ると仰るのならば」
「買おう」
 皆まで言わせず小さな円盤状の金属が触れ合う音が花籠の中で起こり、一掴み程の貨幣が籠の内側を滑る。円を描くように金属片を籠の中で滑らせたは片手で代金を受取り、薬売りの手を取ってそれを返した。
 売買契約はあくまでも表面上の遣り取りであり、金銭の遣り取りは発生しない。が態度でそう告げると再度薬売りは成程と呟き、戻された小銭を何処かにしまいながら黙って続きを促した。
「大奥の井戸から『ハナ』の匂いが立ち昇っておりました。鳥居に囲われた。巨大な井戸にございます」
「怪異の内容は分かるか」
「幸いと呼ぶのか。残念と呼ぶべきか。『ハナ』は固い『ツボミ』で。ただ。大奥の中でユウレイが出たと噂になっております」
「それ以外の実害は?」
「何も」
 不穏な気配はあるが形も真も理も揃って見せる様子はないとが告げると、薬売りは彼と同じ色の瞳を日の本を統べる御方おわす場所と丁度反対側をじっと見る。の鼻も、その先にあるものの不穏な匂いを感じ取った。
 『ハナ』が咲く寸前の、濃密な香りがする。
「では、あちらを先に斬らねばなるまい」
 薬売りはそう言うと感謝すると短く言って縁側を登り、部屋の扉の前で振り返る。違うと頭で、体で、を構成する全てで理解していても、その立ち振舞いは、薬売りのそれと同じだった。
 金と銀の糸が揺蕩う薔薇色の布が風を受けて揺れる中、はただ黙って薬売りを見つめ、薬売りはが何か言うのを待っている。
 沈黙を先に破ったのは薬売りだった。
「或いは、あっしでも、殿の薬売りでもない退魔の剣が振るわれるか」
 遠くで傘を開閉するような鳥の羽音が聞こえ、薬売りの呟きが風に流されて消えていく。
 は無言で頭を下げ、薬売りはそれを見届けると今度こそ部屋の中へと姿を消した。頭を上げた先にはもう薬売りの気配はなく、宿の宿泊客の声だけが庭に微かに届く。
「……会いたい」
 夕闇に覆われた庭の中でが零し、八手の団扇で起こした旋風に乗った。関所と山河と城を超えた何処かに居るはずの薬売りを探しには空と雲の狭間を跳び、いつしか降り始めた雨に濡れながら夜の中を駆ける。
 やがて辿り着いた旅籠の屋根の下からは羊水の生臭い匂いが立ち昇り、無邪気な子供の足音と笑い声が耳に届いた。