曖昧トルマリン

graytourmaline

煙桜余薫

 薄曇りの下、朝雨に紛れるようなぼんやりと柔らかい影を琥珀の瞳がゆるりと眺める。
 恐らくはまだ、咲いたばかりなのであろう。七分咲きの桜の樹の前で男、は何をするでもなく緋色の傘を差したまま只々黙って立って居た。
 待って、居るのだ。薬売りを。
 落ち合う約束をした刻限は昨夜であったので、かれこれ一晩は立ちっ放しであったが、幸いな事に彼の体は普通よりも大分頑丈に出来ている。疲労を表に出す事無く静かに呼吸を続けながら傘の上を静かに滑り地へと還って行く雫を灰褐色の睫毛に縁取られた目で追い、ゆるりと瞬いてまた、桜の花弁を視線でなぞった。
 一枚一枚、重ねて七枚、纏めて一輪、集って十輪、そして無数へと連なり終いにはまた一本の朧で大きな塊へ戻る。塊からまた一つ一つの桜花へと意識を切り替え、その度に山犬の嗅覚が烟るような桜の香りと春雨に濡れる樹の姿を重ねた。
 血の匂い等するものか、そう言いた気な表情であった。
 この辺りでは昔、合戦があったと言う。大きなものか、小競り合い程度のものなのか、無学なはそこまでは詳しくない。ただ、伝聞によると凄惨な戦であったのだと言う。故に、此処ら一帯で咲く桜は他の地に咲く花よりも紅が濃く、満開にもなれば辺りに血の匂いが漂うとだとか、漂わないだとか。
 何が、故にか。傘の下での口端が面白くも何ともないと嘲笑う。
 は山犬であった。大凡、人の形を取っては居るが、細やかな部分は山犬のままであった。嗅覚もまた、その一つである。
「何処までも甘い。サクラの香でしょうに」
 そしてはまた、山犬であるにも関わらず血肉の匂いが苦手な性質でもあった。見た目は平気なのであるが、味や匂いは一切が駄目であった。そのが、平気で居る。どう転んでも、この樹から血の匂いがするはずがなかった。
 花弁の色にしてもそうである。この樹は、この色が基本の種なだけであった。ただ、確かに近年人の手に依って増殖している何とかと言う桜よりは色と香が濃く、満開に近付いても脱色しない。けれども、それだけである。
 唯、色が深い割にこの桜、輪郭が酷く曖昧に見えた。このように雨に降られようものならば、遠目近目関係無くどこか朦朧としてしまう。逆に、香は水に溶けて根本深くに凝るように流れる。その不揃いな雰囲気が、人によっては好ましいと感じないかもしれないが。
 けれどその雨も、もうすぐ止んでしまうだろう。顔を上げればすぐそこまで、吹き払うように澄んだ青が来ている。
 春空の下で咲くこの樹はどう違って見えるのか、は楽しみであった。がしかし反面、残念でもあった。
「一緒に。比べて見たかったのですけれどね」
 彼の待ち人は未だ来ず。
 今も何処かで商いに勤しんでいるに違いないと早々に諦める。阿呆を自覚する男が期待出来ぬ程、青はすぐそこまで来ていた。
 桜よりも濃い薔薇色の打掛が、雨を吸ってより一層深い色となっている。その下の、褐色の腕から伸びる指先が傘の外へと出て行った。触れた先は、当然目前の花弁だった。
 触れた花弁を冷たいと思ったがそれは縁に溜まる水滴の冷たさで、薄紅色の小さな鞠はひたすら軽く温度もない。弛く立ち上る香のように指先から手の平へと花弁を逃せば、ぽたりぽたりと雫が弾ける。
 酷く、心が落ち着いた。
 またそのまましばらく、男は動かなくなった。琥珀の瞳がまた花弁を数え始め、塊になった所で分離を図る。一枚一枚、重ねて七枚、纏めて一輪、集って十輪、そして無数へと連なり終いにはまた一本の朧、それに見飽きたら朧から逆方向へ思考を廻す。
「 何をして 居るんだ 」
 何度目かの数え上げの後、背後から声がかかった。良く、知った声である。
「花を。数えておりました」
「 それだけか 」
「それだけですよって」
「 阿呆が 」
「阿呆ですとも」
「 暇人め 」
「人でない事以外は。否定出来ません」
 振り返ると、見知った男が呆れたような表情を浮かべて立って居た。背後の空は青く、傘は差していない。雨は、とっくに上がっていた。
「 真逆 昨夜から居たのか 雨の中 」
「ええ。まあ」
「 真性の莫迦だ 」
 相も変わらず辛辣に扱き下ろされるが、は微笑って莫迦ですともと肯定する。何時もの事であるし、どれもこれも事実であった。
 待ち合わせに大分遅れて来た男、薬売りは、呑気な男だとを評して隣に並び、桜の樹を見上げる。
「 美しいな 」
「ええ。迚も」
 空は既に晴れ渡り、花弁の輪郭は明瞭としていた。それと引き換えるように、あの淡くも強い香は何処かに散って溶けてしまっていた。
 薬売りに讃えられるその樹を見ながらしかし、は少しだけ悲しそうに微笑む。雨の下でも一緒に見たかったのだと、己の心に在った思いを反芻する。それが、舌まで戻った。
「次の年は。一緒に見ましょう」
「 次の年も だろう 言葉に不自由な奴だ 」
 くるりと踵を返す薬売りをは慌てて追う。その仕草ではためいた打掛から、あの桜の香が一瞬だけ強く立ち昇った。
「 今 桜の香がしたか 」
 それに気付いた薬売りが振り返り、桜を見る。同じ様に桜を見上げたはしかし、詳らかに語ろうとはせず曖昧に頷いただけであった。
 己の思いは翌年に語れば十分であると、そう思い至ったようである。