擽感鳳仙花
肌を刺す陽光は部屋の中の陰影をはっきりと写している。窓の外は灼け付く程の快晴、遠くには真白の入道雲。深く濃い色をした山の緑に爪紅の風鈴の音と蝉の声。喉咽に溜り焦げ付く熱気、額から流れる一筋の汗。
夏だった。
つ、と顎を伝った汗を袖で拭ったは困ったように首を傾げ、団扇を持っていた右手をはたりと止める。途端、送られていた風がなくなった事に文句を垂れる薬売りの為、再び右手を動かし始めた。しかし又もや、擽ったいとのお達し。
「では井戸水でも汲んで参りましょうか」
相も変わらず愁傷な男である。普通の神経をしていれば早々に団扇を投げ出しているに違いないが、生憎とは色々な方面が鈍い男であった。
その愚鈍さが幸いかどうかまでは、判らないが。
「 いい 続けろ 」
「然様で」
はたり、と再び団扇が薬売りを扇ぎ出す。その風を感じながら薬売りは薬売りで、こっそりと溜息を吐いた。
足袋も頭巾も脱ぎ捨て、帯も髪も解き、気怠げに半裸になってみたものの、は平素通り鈍いまま、暑いのだから仕様のない事だろうと頭から決めつけ恥入りもしない。今だって壁を背にしたまま顔色一つ変えず団扇を左右に振り続けている。
嗚呼、勿論解っていたとも。と薬売りは項垂れる。に色仕掛けなどとうの昔からやっている事であったのだから、こうなる事くらいは予想出来たのだ。
汗に濡れた肩を此れ見よがしに肌蹴させてみても効果なぞあったものではない。遊女を買った事はあるようなので性欲がない訳ではない、要するに、朴念仁なのだといつもの結論に至った。だからと言って、どうという事はないのだが。
風鈴の音と蝉の声が遠くで聞こえる。窓から入ってきた風が畳に広がる髪を撫でた。
「 擽ったい 」
「掻いて差し上げましょうか」
「 必要ない 」
普段通りに無碍に断って、しまったと後悔する。
肉体的な接点を持つ事が出来れば今の状況を打開出来たかもしれないのに、と悔やんでももう遅い。時は逆行せず、言葉は帰らず、覆水も盆には返らない。
あまりの暑さに脳が回転を止めたか、と薬売りは今まで以上に畳と親密になる。その畳も熱を持ち始めていた。
場所か環境を変えるべきか、そう結論に至った薬売りは汗塗れの体で畳に肘を付いて上半身を起こすが、その視界を黒い影が遮る。それが何か脳が理解する前に、鼻先に一瞬だけ柔らかい感触がした。
「シオ辛いですね」
目の前の黒い影、が顔を離して自らの唇をべろりと舐める。表情は、自分が何をしたかも理解していないようなあどけない笑顔だった。
中途半端に上半身を起こしたまま呆然としていた薬売りだったが、やがてが鼻先に接吻してきたという事実に行き着き、脱力してそのまま畳と顔面を再会させる。若干額が傷んだが、最早それどころではない。
突然の奇行にが何事かと喚いているが、其方こそ何事だと薬売りは問いたい気分であった。しかし平素のように怒鳴り散らしてしまえば最後、図体ばかりが大きい木偶の坊は萎縮してしまうだろう。
簡単に想像がついてしまい若干苛つきながら再び上半身を起こし、自らが蒔いた種だというのに右往左往するの襟を掴んで引き寄せた。目を丸くする木偶の坊の意思など無視して鼻先に噛み付いてやると、鋭い爪がふらふらと宙を泳ぎ凶暴な八重歯を持つ口から情けない悲鳴が上がる。
いっそ役に立たないあの爪や牙を折ってやってしまいたいと考えつつ、紅に染まった白いの耳を冷やすために部屋の隅に移動し、壁を正面にして寝転がり文句も泣き言も聞き入れないと態度で示す。
窓の外の生暖かい風が、赤い花を描いた風鈴をちりちりと揺らした。
「 嗚呼 むず痒い 」
その役に立たない爪と牙でこの肌を掻き毟りに来いという乱雑な誘いはしかし、弱々しい嗚咽と風鈴の音に掻き消されの耳孔に届いたかどうか定かではない。