曖昧トルマリン

graytourmaline

九里香夜話

 此処の所冷え始めた秋の風が運んできたのか、水を含んだ土と森の匂いが廃寺の中に入ってきた。
 朽ちて骨組みを顕にしている壁の隙間からは金木犀の花が音もなく落ちて行く様子が見える。木の下に出来た大きな水溜りは橙色に染められていた。
 橙色の湿気が打掛を羽織っただけの褐色の肌に張り付き、すうと息を吸い込めば甘ったるいような独特の香りが肺の底に溜まる。その上下した胸が気に入らなかったのか、腕の中で眠っていた薬売りが言葉未満の声を発して、また眠りに落ちた。彼もまたと同様に、服を羽織っただけで紅も差していない、生まれたままの姿で寝入っている。
 別段、疚しい事はしていない。
 ただ人目も本尊もないこの廃寺に着いて直、脱がされただけだ。瓢箪から湧き出る酒でしたたか酔った薬売りに。
 の知る限り、薬売りは酒癖が余り宜しくない。規則を見出す程酔った薬売りを見た訳でもないが、それでも暑いといって服を散らかし、化粧を落とさないまま廃寺で横になろうとする今回の酔い方はどう足掻いても宜しくない。
 しかし宜しくないからと言って放っておく訳にも行かず、結局は服を畳んで、不機嫌そうな面すら隠していた化粧を落としている間にも服を剥がされてしまったのだ。
 男の服を脱がすのが手馴れている、という感想を抱いたまま好き勝手やらせた後、彼は酔いが回った貌のまま何故抱かないだの、押し倒さないだの、勃たないだの、要は欲情しろと無理難題を吹っかけながら眠ってしまった。
「何故出来ぬと問われましても。ねえ」
 はこんな形をしているが、人の姿に化けているのであって本は山犬、所謂狼である。
 狼は犬に似ているが犬に非ず。雌の発情期は存在するが頻度が低く、年に一度春にやってくる以外は基本的に生殖行動を行わない。そして人間である薬売りは欲情こそしているらしいが、発情は出来ない。雄狼は愛しい者の裸を見て欲情したならばさて褥へ、とは行かない、行く事が出来ない種族なのだ。
 こういった時、種族の壁は大きい。説明下手のと斜めに我が道を進む薬売りは、相性こそ悪くないが互いに意思の疎通が困難だった。
「抱き締めて髪を梳いて。愛しいと微笑みかけるだけでは駄目なのでしょうかね」
 狼には鳴き声はあっても人のような複雑な言葉がない。人に化ける事のできる今でもは言葉よりも感情を態度で表す方が得意で、薬売りのような時折天邪鬼になる態度は表すのも読み取るのも苦手だった。だからきっと、人には馬鹿呼ばわりされるのだという事は薄々感じ取ってはいる。だが、最早自分自身ではどうしようもないので諦めてもいた、それで人生の何かが変わるわけでもなし、という理由だった。
「ねえ。クスリウリ様」
 相手を起こさないよう吐息に混ぜるようにして呼びかけ、大きな褐色の掌が薬売りの左胸に触れた。心音がゆっくりと波打ち、興奮していない事がよく判る。
「あっしは赤面する貴方様よりも。こうして穏やかな顔をしておられる方が好きなんですが。判っては戴けませんかね」
 未だ夢の中に居る相手にそう語りかけたは、腕の中の細い体を抱き寄せて出来るだけ素肌と素肌を密着させた。秋の雨夜は想像よりもずっと暗く冷え始め、人肌が恋しくなり一人では心細い。
 金木犀から視線を外し、雪のように白い肌を抱き寄せながら亜麻色の髪を梳く。薬売りの髪は雨が降ると、その湿気からか指に絡まりやすかった。指先に小さな十字の花弁が触れたような錯覚を覚え、橙の天狗火を一瞬だけ遊ばせる。
 甘い甘い九里香が、暗闇の中で静かに漂った。