曖昧トルマリン

graytourmaline

一初

 十年以上世話となったこの家を去る前に、私と「彼」の奇異な二度の出会いを少しばかり綴って行こうかと思う。この記憶だか思い出だかは数割美化されているかもしれないが、大体このような事が在ったのか程度に受け止めて頂ければ幸いである。
 初めて出会ったのは私はまだ年端も行かない稚児であって、当時はこの家にも住んでは居なかった。生まれたばかりの時分から医者の世話になるほど病弱であった私は、或る時、家の庭で花を観察する「彼」に出会ったのである。両親は薬を売り歩いているにしては可笑しな格好をした色白の男から苦い粉を買い、どのように誤魔化して飲ませるかと算段していた丁度その日、その時間の事であった。
 庭に居た「彼」とは人ではなく、立派な体躯をした狼であった。一緒に居た兄等は籠を咥えて飼い慣らされて居るのだから犬だと言い張ったような気もするが、兎角私は「彼」を狼だと信じ込み、何処から来たのか、何をしているのか等と逐一尋ねたのである。
 「彼」はさして珍しくない花から顔を上げると我々の方へと向きを変え、正座をし直した。矢張り犬だと兄等は言ったが、私はしつこく、それでも「彼」は狼なのだと一人言い張っていたのを今でもよく覚えている。
 吠えもしなければ尻尾を一寸も動かさなかった「彼」は兄等に、今思うがあれは些か乱暴だとも思える手付きで撫でられても、妹の差し出す菓子にも一切の興味を示さず、ただ黙って澄んだ薄茶色の瞳を私の持っていた折り紙を見つめていた。幼子の手によって折られた水色の色紙はとても不恰好な文目の形をしていて、裏地の白が多かったり形が歪んでいたりで、とても自慢できるような代物ではなかった。
 しかし「彼」は私の持つ、その歪んだ文目に大層興味があったようで、試しに左右に動かしてみれば凛々しい「彼」の顔が左右に往復し、上下に動かせば大きく頷くような仕種をする事となった。兄妹はその様子に笑って居たが、私は自分の折った文目を「彼」が気に入った事が嬉しく、その折り紙を「彼」が咥えていた籠へと入れたのだ。するとどうだろう、今まで何をされても反応を示さなかった「彼」の尾が何度も揺れたのである。
 それは上げるから大切に取っておいで、気を良くした私の言葉が判ったのだろう、「彼」は律儀に礼まで表現したのだ。とは言っても、当然吠える事なぞ出来ないので鼻を鳴らすだけではあったのだが、私にとってはそれが立派な返事に聞こえたのだった。
 しばらくそうしていると何処からか美しい鈴の音が聞こえ、それに気を取られた一瞬後には、私たちの前から「彼」は消えていたのである。あまりに唐突な消え方をするものなのだから夢か幻かと首を傾げたものだが、折り紙だけは「彼」と一緒にちゃんと消えていたので、私たちはきっとあれは妖怪の類だという、あまりに突飛な結論に達したのだった。
 さて、そんな幼少の頃の事など綺麗に忘れかけていた十年ほど前まで時は移ろい、信じられないような形で「彼」と再開をしたのである。当時私は既に結婚し夫となり、子供を授かり父となり、そんな中でそろそろ家を移ろうかと思案していた時期があった。納涼の花火が夜空へ打ち上がる時期である。
 今の借家を一人で下見に来た折の事だ、私は派手な格好をした二人の青年が其処の二階で酒盛りをしている様子を見つけてしまった。家の主人かと思われるくらい、あまりにも堂々とデンキブランを酌み交わしていたものだから、挨拶までした後でこの家が空いている借家だという事を思い出し、君達は一体何者だと尋ねるという滑稽なやり取りをしてしまった事は恥ずかしい思い出がある。
 私に問われた二人の青年は、こんな時でなければ見惚れてしまうような造りをした顔を見合わせ、また新しい方が来てしまいましたね、などとのんびりと悪怯れた様子もなく黄玉色の液体を飲み干した。床の間の花器には一体何処で手に入れることが出来たのか、菊と牡丹、そして柳と松葉が生けられており、掛け軸には一筆啓上から始まる、或る武将の広く知られている手紙文が飾られていた。
 二人の内の褐色肌の青年が、金糸銀糸で文目紋の刺繍を施された薔薇色の打掛をこの暑さの中で羽織ると、空になった瓶の群れを籠へ収めて、私に向かってもうお体の方は平気そうですねと昔馴染みの様な口調で話しかけてきた。一体何の事であろうと口を開きかけると、相手方がこの家の二階で見る花火や桜はとても贅沢な気分になり、何より窓の位置取りが素晴らしいのだと一方的に話し出し、袖から水色の物体を取り出して投げて寄越す。
 宙に放り投げられたそれを反射的に受け取ってしまうと、手の中にようやく収まる大きさの割に、軽くて乾いた感触のするそれが文目の形を模した折り紙だと気付いた。子供が作ったような、不器用さを強く主張する水色の造花に対し、青年は自分が犬ではないと判ってもらえた事が嬉しくずっと取って置いたのだと陽気な笑いを含んだ声で説明し始める。
 その横で、どうせ覚えちゃいないのだからと色白の青年が呆れた様子で大きな箱を背負う。渡された色紙よりも濃い空色の瞳が私を見据え、ほら覚えていないと声を潜めずに堂々と告げられるのは不快であったが、褐色の青年が残念そうにそれは上げるから大切に取っておいでと言われたから見せたのにと呟くと、何故か私の中に芽生えたのは苛立ちではなく罪悪感だった。
 「取って来い」ならば木の棒で幾らでも付き合ってやると、まるで褐色の青年を犬畜生のような扱いをする色白の男はいつの間にか階段を下り始めて居て、褐色の青年は青年で憤る様子もなく、だって夾竹桃を投げて寄越すじゃあありませんかと見当違いの悲鳴を上げ箱を担いだ背を追いかけ始める。
 一人部屋に残された私は、はっとして青年達を追いかけるため板の間に飛び出すが、家の中は既にしんとしていて人の気配など何処にも無かった。狸か狐に化かされたような気持ちになり、手の中に残った折り紙をじっと見つめる。
 それから、時間にしてほんの数秒の出来事だったと思う、私は弾かれたように顔を上げた。あの褐色の青年が「彼」だという事に気付いたのだ。しかし時は既に遅すぎて、この家から「彼」を探すのは叶わなくなっていた。何か手がかりのようなものはないかと、後日家を貸してくださった酒店の方に「彼」の事を尋ねると、貴方もですかと笑われる。
 話によると浮世離れした貌を持つ青年たちは決まってあの家が空き家になると二階に現れる幽霊らしく、旧持ち主の頃より度々現れては新しい方が来たと言って消えるそうだ。色白の青年の名は誰も知らないが、褐色肌の青年は色白の青年にと呼ばれているらしい。人によっては、つまり私にとっての「彼」に木の実や魚などを貰ったり、床の間に花が飾り付けられているので獣が化けたのではとも言われている。
 成程、獣か。私はそう呟いて納得し、そうですねとだけ言って歪な文目の折り紙を大切に保管した。当然だけれど、あれから何年経っても「彼」とも色白の青年とも出会えずに今日の日を迎える事となった。恐らく私がこの家を離れ空き家となった頃、またあの七畳一間の部屋で桜や花火を見ながら、互いに酌をして楽しむのだろう。
 嗚呼。それでは私も行かなければ、下に家族を待たせているのだ。「彼」が素晴らしいと言って笑ったこの部屋、この家とも今日でお別れである。
 格子戸の玄関を背にして家から遠ざかる際、閉めていたはずの南西側の窓が開いていて、其処に膝を向けた薔薇と白群青色をした着物と、仲睦まじい夫婦のように絡まった白と黒の指を見た。どうやら彼等は私を見送ってくれているらしい。これならばきっと、私が床の間に生けて来た一初の花と、彼に返された文目の折り紙、そして季節外れの線香花火を見つけてくれたことだろう。
 四度彼と会うことはないと確信した私は、振り返ることを止め前を見据えた。願わくば、夏の暑さが終るまであの家に新たな住人が訪れぬ事を。