瓢箪
今日の商いを終えてあらかじめ取っておいた宿に帰ってもそこに花売りは居らず、しかし、こういう日があってもいいではないかと大して気に留めなかった。先に湯浴みを済ませ僅かに上気した肌を襦袢に包み、瓢箪から漆塗りの杯へ酒を注ぎ愛しい男を待つ。両人の想いが通じ合う前に比べれば、彼のその行動は格段に丸くなったと言えよう。
夏の名残の風鈴が涼しい音を奏で、内に描かれた真っ赤な金魚がゆらりゆらりと風に揺れた。窓枠に肘を突いて波の音やその音を聞き入っていると、視線の先に矢鱈派手な男が歩いている姿が認められる。
薔薇色の打掛を羽織り籠をぶら下げ、一本歯の下駄を鳴らしながら歩く褐色肌の若い男。その灰褐色の頭は上から眺めると異様に目立っているが、彼については容姿も尋常ではないので良しとして置こうではないかと誰にでもなく頭の中でだけ考えた。
ひらりひらりと薔薇色が彼の頭上で振られ、それが今、宿の窓から顔を覗かせている薬売りに対してだと気付くと彼もまた軽く手を振って応える。なんとも微笑ましく、また、むず痒い光景ではないか。
そう、むず痒い。それは第三者ではなく、薬売りも思っていたことなのである。
度重なる暴力じみた告白の結果、ようやく花売りと結ばれたのは先日の事。直後にちょっとした痴話喧嘩のような物をしたが、その程度では薬売りの愛は揺るがなかった。腹は立ったので足払いくらいはしたが、そんなものは本当に小さな小さな喧嘩だ。
それでも花売りも花売りで、律儀に薬売りを街まで運び、小さな饅頭で腹を満たし、同じ宿で、共に寝た。そう、寝たのだ。ごくごく普通に。違う布団で、枕を並べて。
信じられるか。これが恋仲になった二人のする事か。あの男は、は、もしも薬売りが先に死んだら直に後を追うとまで言ったのだ。それ程までに愛していると言ったのだ。ならばそこは普通、その延長線的に漢というものを見せて押し倒し、足腰立たなくなるまで犯すというのが常だろう。
世間一般の常識がどうであれ、薬売りとしてはそれが正しい考えだと信じて疑わず、沸々と湧き上がってきた感情に任せて酒を呷る。花売りの持ち物であるその瓢箪から注がれる透明度の高い液体は辛口で、穏やかな香りに似合わず口に含めば強烈な個性を主張していた。
心成しか吐き出す息にもその香りが混ざり、湯に染められていた肌は更に赤みを増している。風鈴の音が止んでも杯に映った輪郭は相変わらず歪んでいて、それを眺める目は何処か虚ろだった。
しかし虚ろなのはその視線だけで、頭の中といえば、そろそろに一服盛るかという恐ろしい姦計を巡らせている辺りが薬売りらしい。混沌としている薬箱の中に入っているどの薬品を使っても花売りの身は無事では済まないだろうが、やる事がやれればそんな事は構いやしないのか、さて何を使ってやろうかと不気味にも捉えられる笑みを浮かべる。
「唯今帰りました……嗚呼。未だ御仕事中でしたか?」
「 いいや 」
「左様で」
知らず知らずの内に運が巡って来たのか、商いを終わらせた青年が部屋に入ってきたのは薬売りの指が商売道具の抽斗に掛かった直後の事だった。酒臭い部屋の空気を不審に思ったのか、琥珀色の瞳がぐるりと辺りを見回して薬売りの手に収まっていた瓢箪を見つけて僅かに動揺の色を見せる。
「シロウサギ。飲んでしまわれたのですか?」
「 こんな所に置いておくが悪い 」
「いえ。別に咎めている訳じゃあないんですが……その酒。ヒトには少々強いでしょう?」
「 そうでもない 」
言葉とは裏腹に確実に酔っている薬売りを前に、花売りは本来自分の持ち物であるその瓢箪を返してくれるようにと右手を差し出した。けれど、ある意味当然ながら、酔っ払いにその程度の催促が通じるはずも無く瞬時に断られてしまう。
それどころか返す気など全くないと言いたげに瓢箪を抱え込んでしまう様子に、仕事を終わらせたばかりの青年があからさまに疲労の表情を浮かべた。いつもならばその時点で天秤が何度か飛んで来てもおかしくはないのだが、矢張り薬売りは相当酔っているようで眉は寄せてもそういった行為をする気配は見受けられない。
「参りましたね」
人外の酒豪であるが酔いを楽しむ道具なだけに、その瓢箪から注がれる酒は人並みの物を遥かに凌ぐ強さを持っている。口当たりもきつく、おまけに無尽蔵に湧き出るそれは加水しなければ人間には厳しいそれは、現状から判断してもこれ以上飲ませるのはあまり勧められたものではない。
医者の不養生ならぬ、薬屋の不養生では明日から商売にならないだろう。例えそれが二日酔いであろうと、否、寧ろある一定の人間が経験する二日酔いという症状だからこそ、なってはならないのだ。
「シロウサギ。何も食べずに飲むのは危険ですよって」
兎に角、瓢箪云々よりも二日酔いを避けたいは丁度持ち合わせていた竹皮の包みを薬売りに差し出し、小豆の入った小さな握り飯を広げて見せる。しかし、花売りがそうしている間にも白い手が添えられた杯の酒は減っていて、また並々と継ぎ足されていた。
見た目だけは唯の水と何等変わりのないそれを飲み干す度に増していく薬売りの赤みにいよいよ不安を覚え始めたが無理矢理瓢箪を奪えば、とんでもなく不機嫌な視線が薔薇色の肩の辺りを強く睨む。酔って迫力が些かならず減っているとはいえ、恐ろしさは相変わらずであった。かと言って、この状況を見て見ぬ振りという芝居は到底出来ない不器用な男だけに、冷や汗を流しながらも瓢箪と杯を死守する。
「飲み過ぎですよ。そろそろ止めて下さい」
「 いいから寄越せ 」
「だから。駄目ですってば」
しばらくこの問答が続いたが、やがて折れたのは薬売りの方で、子供のように不貞腐れながら小さな丸い握り飯に手を伸ばした。本当ならこの他にも水でも飲ませて体内の酒を薄くしてやりたいのだが、この場から離れるという行為が危険だと判断したは齧られていく握り飯を黙って観察している。
もち米や煎り胡麻が付いた指先に舌を這わせたり牙を立てる度に視線が合うものの、その理由を深く考えない花売りは潮風に晒された髪を撫でながら小さく欠伸をしてのけた。直後にされた舌打ちの意味など当然理解できるはずも無く何度目かに合った視線に首を傾げ、持ち前の無神経さを余す所無く曝け出している。
例え恋仲になってもこういった所が変わる様子は微塵もない男は栓をした瓢箪をいそいそとしまい込み、白い指に這う舌や、挑発的に見上げられる視線等気に留める必要のない些細な事として振舞っていた。
この木偶相手に体の関係にまで持っていくには、矢張り一服盛るしかない。薬売りの中でそう結論付けられた事など知る良しもない花売りは、また一つ欠伸をして再び涼しい音色を奏で始めた風鈴を見上げる。赤い金魚は風に吹かれて硝子の内側をくるくると回っていて、瞳はそれを追っていた。
それが益々気に食わなかったのか、薬売りはの名を呼んで自分の前に座るように命令する。その言葉に強制力は無かったが、彼の言葉に逆らう事をあまりしない男は素直にそれに従った。不機嫌を感じ取っていても相手が酔っ払いなので、何時ものように肩が強張った様子は無く平然としたものでもあるのだが。
「 楽しいか 」
「はい?」
「 そんな金魚の絵ばかり見て 」
「いえ……嗚呼」
ここまで判り易い態度を立て続けにされて、男はようやく真の感情に気付いたらしい。
困ったような、嬉しいような、酷く単純な感情が複雑に入り組んだ表情で自身の唇に人差し指を這わせる。すると、青い瞳がその指先を辿って右から左、また右へとゆっくりと動いた。
興味のある物をただ無言で追う赤子のような行動には穏やかに笑い、その唇を藤色の紅が差された唇に重ね合わせる。
「 なっ …… 」
「口寂しいのかと思いまして」
本当はそうでない事を理解している本心からではない言葉も、酔っている薬売りにはそう聞こえなかったのかむっつりとした表情で顔を逸らした。頬がほんのり上気しているのは、酒の所為だと言い聞かせて。
「 口寂しい訳じゃないないが……もう一度やれ 」
「御意」
不器用で絶望的に鈍い男でも理解されるほど不出来な言い訳で口付けを所望する薬売りは、もう一度、壊れ物に触れるかのようなゆっくりとした口付けを受け入れて目を細めた。僅かに開いた隙間から覗かせた舌先での唇を舐めれば、男の両腕が後頭部と背に回り、密着した唇の間で舌を絡め取られる。
酒の力を借りて熱くなった薬売りの咥内をやんわりと荒らせば打掛を掴んでいた指先が強張り、きゅっと握り締められた。先に仕掛けたというのに逃げる舌を追って深い口付けを繰り返し、吐息すら満足にさせないまま徐々に力を失っていく肢体を押し倒す。
角度を変える僅かな隙に甘い息が漏れて、熱に浮かされるままあられもない声が上がった。呼吸が乱れ始めた所でようやく唇が解放され、意識が遠退きかけている自分の体に圧し掛かっている男をぼんやりと眺める。
その唇から慈愛を含んだ言葉らしきものが放たれるのを聞き取ったが、今の口付けの所為で熱と脈拍が急激に上昇し、それに伴って今まで飲んでいた酒が本格的に回り始めた頭が理解できるはずも無く、また急激な眠気に瞼が重くなってきた。
最早悪態の一つも吐く事が出来ない程になってしまった薬売りはその誘いに抵抗する事を止めて睡魔に誘われるまま上瞼をゆっくりと下ろし、視界と意識を暗闇に投げ込む。
「……シロウサギ?」
薬売りに跨っていたは真っ白な肌を色付かせて眠ってしまった恋人にしばらくその体勢のまま固まっていたが、やがて深い眠りに落ちた事を理解してその褐色の体を退けた。畳の上で眠ってしまった薬売りを布団へと運び、その眠りを妨げないよう静かに寝かせる。
だらりと力なく放り出されている右手を取りって指先に舌を這わせると、薬売りが今まで食べていた赤飯の味が確認できた。
「これからは。もう少し早く気付けるよう努めますよって……だから。深酒は止して下さいね」
切なる願いを夢の中でも聞き届けられるように、はそう言って白い掌に口付けた。