文旦
薬売りの商いを待っている間、本来の姿で軒下で体を丸めていたは、天に向いていた灰色の耳を震わせて大く欠伸をする。
いつもなら月が欠けた顔をひっそりと空に浮かべているが、今日は雲に覆われている所為で空は何処も彼処も墨と泥を混ぜたような色をしていた。
雑踏の中で僅かに聞こえるその雨音に耳を傾けていると、ちびたこま下駄が視界の端に映り、藍色の鼻緒が此方に向かって早足で歩いてくる。
「かーちゃ、ワンワ!」
「あらあら、本当。立派なワンちゃんね」
ふっくらと柔らかい少年の手が灰色の毛を鷲掴み、空を埋める雲すら掃いそうな高い声で笑った。害意は無く、嫌な感じもしない。
人間に犬呼ばわりされるのには慣れているので、はうっすらと開いていた琥珀色の瞳をきちんと開き、寝そべらせていた体を起き上がらせて正しく座り直す。
その姿勢の自分と、ほぼ同じ位置にある目線は渓谷の清流のように輝いていて、足らない語彙で灰色の毛達磨を心底賞賛していた。
「ワンワ、かーいーねっ」
今の姿は可愛いと呼ばれるには少々厳つい表情をしているのだが、少年なりの最大の賛辞であることを理解して、尾を何度か振って鼻を鳴らす。褒められているのが判って牙を剥き出しにするなんて、そんな愚かな真似は例え同性で異種族であろうとしない。元来狼は、女性と子供に対しては優しいのだ。
頬を林檎の色に染めて笑う少年の後ろでは、苦い蜜柑の香りを纏った美しい母が微笑んでいる。この女性が親ならば子供もさぞ綺麗になるだろうと、もう一度鼻を鳴らして甘えた。
「 何をしている 」
雨粒よりも静かな声が降った。こん、と鳴った下駄の音に振り返ると、商いを終えて薬箱を背負った青年が静かに立っている。
赤い隈取に彩られた目には何故か氷のような冷たさが宿っていて、本能的に耳が寝てしまった。一体何が気に障ったのかは不明であったが、怒っているという点だけは理解できる。
しゅんと項垂れてしまったの首に腕を巻きつけながら、少年はふにゃりと笑って青年に話しかけた。
「にーちゃの、ワンワ?」
「 ああ そうだ 」
小首を傾げて尋ねる少年に、青年が応えた。次いで、母親が二言三言と話し始める。
「 生憎と 今日はもう店仕舞いなんですよ 」
残念そうな顔をして去って行く母に手を引かれ、少年も名残惜しげにを抱き締めてから、雨の夜の中に消えてしまった。
また、しとり、しとり、と雨粒の音が聞こえ始めるが、そこに先程のような穏やかさはなく、一人と一匹の間には気まずい静寂が漂っている。
「 」
『ナ。何デショウカ……』
「 行くぞ 」
いつの間にか貰ったらしいザボンを左手に、傘も差さずに宿場の方へ歩き出したその背中を追うが、いつものように隣に並ぶことが出来ない。
斜め後ろを小走りについて行くと人の気配のない方へと向かっている事に気付き、いっそこのまま逃げてしまいたい衝動に駆られる。
きっとまた、訳の判らない理由で天秤を投げられるのだ。何十度味わったあの脳天の痛みを思い出すと、四肢が進行方向とは真逆に向きそうになった。
人通りがないどころか、本当に人の気配もない場所まで連れて来られると、薬売りは突然足を止め闇の中でに向き直った。
「 人型になれ 」
『……エ?』
「 聞こえなかったのか? 」
怒りを含んだ声色には慌てて首を左右に振り、人の形へと姿を変化させる。
獣の姿からそうなったのだから、当然服なんて着ていない。しかし、その羞恥と薬売りに対する恐怖は秤にかけるまでもなかった。
大人しく人型になった男に、薬売りは持っていた物を投げつける。それは天秤ではなく、以前彼の着ていた服と、薔薇色の打掛だった。
「 着ろ 」
「わ。判りました」
夜目が利くらしく、投げつけられた服を素早く着込んだ男は、怯えた目で薬売りを見つめ、何をしたのかも全く判らない自分がこれからどう料理されるのかと震えている。
そんな情けない美丈夫の手首を力の限り掴むと、雑然な足取りで今度こそ宿場へ向かった。背後から打掛が雨に濡れるとか、痛いとかいう控えめの抗議の声が聞こえたが、そんなものはいつも通り無視をする。
宿場に溜まっている旅籠屋の一つに入れば、迎えた女将が頬を朱に染めて快く二人の美青年を迎え入れた。並外れた美貌が二つも揃えば、例えその一人の様子が明らかにおかしくても人は気に留めないらしく、哀れなは誰にも不審がられる事無く部屋に連れ込まれる。
部屋の襖を閉め、商売道具を下ろして座り込んだ所で、大きな溜息を吐き出しながら俯いた。浅黒い手首には藤色の爪の跡がくっきりと残っているが、もう痛みはほとんどない。
「シロウサギ?」
何をするでもなく、ただ宿の一室に連れてこられただけのはいよいよ事態が判らなくなり、恐る恐る会話を試みる。
しかし唇からは溜息しか出て来ない。一体自分の何がいけなかったのだろうか、それとも、商い中に何かあったのだろうか。決して優れているとは言えない脳で思考してみるも、当然答えなど出るはずなく。
「あの。シロウサギ。食べないのですか?」
話題作りの為に畳の上に転がった大きな柑橘類を拾い上げると、あの美しい母親と同じ匂いがした。
それに対する返答は、ただの一言。面倒臭い、のみ。
ザボンは皮が厚く綿が多い上に袋が固い。食べたことはないものの、一応知識として知っていたは大きな黄色の果実に牙を立ててみた。
「苦!?」
皮は苦いという知識は無かったのか、折角の美貌を台無しにしながら口を漱ぐために部屋を出て行ったの背中を眺め、薬売りはまた溜息を一つ。
雨はまだしとり、しとり、と降っていて、ザボンの残り香がそれに流されていった。香りにつられて先程の光景を思い出すと、三度溜息を吐き出す。
「 何をしているんだ おれは…… 」
『どうしてお前はアレを素直に「子供に頭を撫でさせてやっている花売り」として見れないんだ』
「 死ね あれはおれの狗だ 勝手に出てくるな 」
『……』
完全な暴君の言い分に、久々に外に出てきた金色の男が絶句した。
その沈黙は開口一番に死ねと言われた自分に対してか、狗の上に勝手に所有物呼ばわりされた花売りに対するものなのか。前者も後者も今更と言えば今更なのが、また哀しい。
「 が人の姿になれば女が寄ってくる 犬なら犬で人目も憚らず男に抱き締められる……一体どうすればいい 」
『おい、お前はたった一言で、おれにどれだけ突っ込みをさせるつもりだ』
「 ふざけるな おれに突っ込んでいいのはだけだ 」
『誰かコイツを医者か介錯人に引き渡せ!』
いきなり話の次元が変化して、金色の男は文字通り頭を抱えた。
薬売りが花売りに恋慕するあまり、身包み剥いで狼の姿で旅に同行させ始めてから一月半。やっと服を返したと思ったらこんな下らない理由だなんて、薬売りの思考と合わせてそう嘆く男の背後で襖が開かれる。
「おや。クロウサギもいらしたのですか。お久しく」
『花売り、お前本当に山に帰ってひっそり暮らした方がいいぞ』
「はあ」
久々の再開の挨拶も無く突然訳の判らない事を言い出して薬売りに殴られた金色の男に、は底の浅い器を持ったまま首を傾げた。
そして、持っていた器を薬売りに差出した後に、もう一度反対側に首を傾げる。
何かを悩んでいるように見えるのは変わらないが、部屋を出る前まであった鋭さが無くなっていた。拳骨を食らってのた打ち回っている男が関係しているのだろうかと興味を示したが、すぐに失ってしまう。
元々、そういった事に対して感情が希薄な所為もあるし、機嫌が悪くなっているならまだしも、少しは回復しているなら態々混ぜ返す必要もない。回転数が悪く容量の少ない脳が、そう判断したのだろう。
「 文旦を 剥いてきてくれたんですか 」
「ええ。どうぞシロウサギ」
楊枝の先の艶々とした果肉を薬売りの口元に持っていくと、一瞬薬売りが面食らった表情をして、すぐにそれを取り繕った。が自分の今している無意識の行為に気付けば、顔を真っ赤にして土下座する勢いで謝り出すのだろうから。
「 も一つ どうですか? 」
「宜しいので?」
「 ええ 」
『……』
薬売りの機嫌が急激に上がっている事に気付いた金色の男が、痛みに耐えて顔を上げて見たのは、透き通ったザボンの果肉を食べさせ合う二人の姿だった。
その内の一人が男の視線に気付き、圧力を持った笑顔を向けて来る。折角の機会を邪魔をするな、そして邪魔をすれば比喩ではなく殺すという事なのだろう。
自分の命が惜しいので金色の男は全力で首を縦に振り、に気付かれないようにゆっくりと姿を消した。
多分、しばらく花売りは人の姿のままいれるだろう、今はその事だけでも喜ぼうではないか、そう自分に言い聞かせながら。