蝋梅
黒い地面に付着した途端音も無くじわりと融けていく姿を見届けると、今度は口直しの漬物を口に含む。
その味が気に入ったのか、真っ赤に漬けられた蕪を打掛の袖口に滑り込ませると、そこから徐々に紋の形が蕪を可愛らしい形にしたものに変化していった。
「シロウサギは何処かで降られているのでしょうかね」
元々売り歩く物が違うため、男、と薬売りとでは行動範囲が少々異なる。
大体町に着けば二人は何を言うでもなくふらりと分かれ、それぞれ今日の分の稼ぎを持って何処かで合流をするという案外適当な商売を行っていた。
この町には『ハナ』の気配もないということで、今回は薬売りに引っ張りまわされなかった。とは言っても共に旅をしている時点で十分引っ張りまわされているのだが。は茶屋で一人、時間を潰していた。
店のお勧めは温かい甘味だと聞いたが、品書きの汁粉と善哉の違いが理解出来ないが為、餅の入っていない方をと頼んで出てきたのが、今口にしている小豆を砂糖で煮たものであった。結局どちらだったのかは知らないし、知る必要もない。
然程舌が肥えている訳でもないので、この甘味が他の店のものと比べてどうだとかという事は言えないが、こんな日には温かい甘味が体によく沁みる。
「……おや」
ふわり。と知った香りが店の前で止まり、下駄の音が近くなると暖簾がはらりと揺れた。
雪に降られたはずなのに染み一つ出来ていない体。藤色のままの頭巾に鮮やかな色をしたままの帯、商売道具が一切入った薬箱も濡れた様子はこれっぽっちもありはしない。
どこか人外離れした雰囲気を持つ美青年。彼は自分を人だと言ったが、ただの人なら待ち合わせの場所も決めずに落ち合うなど不可能な事だ。と密かには思っている。
尤も、自分はこんな派手な衣装であるし、彼の持っている商売道具に関して言えばあまり人の世では普通と言い難い代物ではあるので、ある程度は、とも思ってしまっているのだが。
「 探しましたよ 」
店の手伝いをしているらしい少女の溜息や、うら若い女性の声、惚れているのか妬いているのか、はたまた両方かも判らない男衆の視線を背中に、薬売りは白い息を吐き出しながらの向かいの席に腰を下ろした。
「降られましたか」
「 少しばかり ね 」
まったくそんな様子を感じさせないというのに雪に降られたという言葉が飛び出し、そんな返答を聞いて男は可笑しそうに口端を歪める。
「ロウバイの香が致しますが。もしやあのお屋敷へ?」
「 ええ あれは見事でしたね 」
ここに来て真っ先に花を売りに行った町一番の大きな屋敷。
珍しい南蛮の花を売ったその家の庭に咲き誇る可憐な花を思い出しながら、は甘味と漬物を片付ける。
「あれ程の花は山ではとても見ることが出来ませんよ。ヒトの手が加わる事を嫌がるモノもおりますが。ああいったものを見ると……」
表情を隠すように下ろされた灰褐色の髪の奥にある瞳が優しくなると、薬売りもなにやら目を細め、そしてゆっくりと立ち上がった。
「 さて 宿を探しましょうか 」
「休まれないので?」
「 休みますよ 宿でね 」
そう言うと、薬売りはを連れて店を出て、雪がちらつく大通りを宿場の方へ向かい歩き始める。
この寒さと雪の所為か、人通りはそれ程無く、子供のはしゃぐ声だけが何処かから聞こえてきた。寒さの所為なのか、その声はよく通った。
「……シロウサギの手は。冷たいですね」
自然に前後する手が偶然触れてしまった感想を率直に述べると、青い瞳が琥珀に似た目をじっと見つめながら、多少嫌味に聞こえるように囁く。
「 誰かと違って 今の今まで商いをしていましたから 」
そう言い放たれると、はきょとんとした表情になり、そして考え込み、何かを思いついたのかぽんと両の手を合わせると、自然な動作で薬売りから商売道具を奪い取った。
予想だにしなかった行動に目を丸くする薬売りに、は自分の着ていた打掛を羽織らせると、まるで親の手伝いを完璧に終えることが出来た子供のような無邪気さで胸を張る。
「これで少しは温まりますよって」
彼なりに考えての行動だったのか、その周囲にだけ一足飛びに春が来てしまったかのような陽気さが漂い、流石の薬売りもそれ以上何も言えなくなってしまった。
「宿に着いたら湯を頂いて。先程買った羊羹をお茶請けにして渋めの番茶でも淹れましょうか」
灰褐色の頭には余り目立たない雪を所々に付けながら少年のように笑うから視線を逸らし、薬売りはかなり早足で歩き出す。
尖った耳の先にほんのりと朱が差していたのを、果たして誰が気付けただろうか。
「あ。あの。シロウサギ?」
「 例の屋敷で小耳に挟んだ話なんですが 」
「はい」
「 何年か前に あの蝋梅の枝を 屋敷の主人が宿屋の女将に少し譲ったらしいんですよ 」
「……!」
「 近くであの花を 見たいと思いませんか? 」
訊くまでも無く、は何度も首を縦に振り、屋敷の中で遠目で見た、あの透き通るような黄色の花弁を思い描いた。
花売りとしての職業病的なものなのか、それとも単に花が好きだけなのか、はたまた山に居た時のことを思い出しているのか、幸せそうな空気に浸っている男に対し、薬売りは諦めに似た表情をする。
「 まあ 今日くらいは 苛めないで上げましょうか 」
「え。何か仰いましたか?」
「 何でもありませんよ 」
一段と強く降って来た雪を避けるようにして通りを歩く薔薇色の背中を、はよく判らないといった顔をして追いかける。
背に負われた薬箱だけが、今の会話を盗み聞きながらかたかたと笑っているようだった。